禁忌の符紋(7)
翌日——
アイデンは、用意した全ての資料を抱え、炎の元を訪れた。
いつもより僅かに険しい表情で、
慎重な口調で切り出す。
「……今回の拠点は、廃棄された地下トンネルだ。」
「長年放置されていたが、最近になって ‘利用されている’ 痕跡がある。」
「最新の情報では、闇紋会はそこに防衛ラインを構築し、」
「最低でも三種の魔物が巡回しているらしい。」
炎は無言で資料を受け取り、
すぐにページをめくる。
視線が、一枚の地図に留まる。
「……ここが ‘入口’ か?」
アイデンが頷く。
「ああ。」
「入り口には ‘複数の罠’ が仕掛けられている。」
「通過方法を知るのは、ごく一部の ‘核心メンバー’ のみだ。」
「無闇に踏み込めば、一瞬で警報が鳴るだろう。」
「それは楽しみね。」
カルマが微笑む。
しかし、その笑みは挑発的な色を帯びていた。
「そんな ‘防御’ で、どれだけ私たちを止められるのかしら?」
三人は視線を交わし、無言のまま頷く。
彼らはそれぞれ異なる思惑を抱えながら——
目指す先は、ただ一つ。
地下に潜む、闇紋会の拠点。
◆ ◆ ◆
夜の帳が、街全体を静寂で包み込んでいた。
街灯の淡い光だけが、点々と路上を照らす。
行き交う車はまばらで、
都市の喧騒は遠く消え、静寂の闇だけが広がっていた。
アイデンが公会から借りた車を運転し、
静かな道を滑るように走らせる。
低く唸るエンジン音が、夜の静けさを微かにかき乱していた。
副座に座る炎は、黙ったまま窓の外を見つめる。
車窓の景色が、モノクロの影絵のように流れ去っていく。
まるで、この任務とは何の関係もないかのように——。
後部座席のカルマは、
車窓に頬を寄せ、静かに目を閉じていた。
その表情はどこか懐かしげで、
まるで遠い記憶の片隅に沈んでいるかのようだった。
やがて、車は市街地を抜け、
人の気配の少ない工業地帯へと入っていく。
古びた建物が、霧の奥に沈み込むように立ち並ぶ。
放置された鉄塔、朽ち果てた倉庫、
まるで、時の流れから取り残された遺構のように。
路肩には雑草が生い茂り、
暗く点滅するネオンの光が、
黒い闇の奥へと飲み込まれていった。
運転席のアイデンが、ちらりと炎を一瞥し、
何気なく口を開いた。
「……さて、今回の動きはどうする?」
「役割をしっかり決めておかないとな。」
「今回ばかりは、ミスの余裕はない。」
炎は微かに頷き、
視線は窓の外に向けたまま、低く答える。
「地図によれば、まずトンネルの入り口に潜入する。」
「その周辺には、いくつかの偽装された罠があるはずだ。」
「状況が許せば、先に俺がルートを偵察し、メインの通路を確認する。」
「問題がなければ、そのまま ‘核心区域’ へ向かう。」
カルマはゆっくりと目を開ける。
口元に、微かな笑みを浮かべながら囁いた。
「……こういう ‘隠された拠点’ って、意外と面白いのよね。」
「簡単そうに見えて、後半になるほど ‘厄介な仕掛け’ が待っているものよ。」
「さて……今回の ‘サプライズ’ はどんなものかしら?」
車はゆっくりと減速し、廃工場の横に停まった。
ここは、かつてトンネルの入り口だった場所——
だが、今やすっかり廃墟と化していた。
長年放置された金属扉は、赤茶色の錆で覆われている。
剥がれ落ちた塗装が、
かつてここが栄えていた時代の名残を語るようだった。
工場の外壁はひび割れ、
辺りには雑草と、崩れた金属片、打ち捨てられたゴミが散乱している。
風の音すらほとんど聞こえず、
異様な静寂が、あたりを支配していた。
炎は手元の地図に目を落とし、
周囲の地形と照らし合わせる。
数秒後、静かに頷いた。
「……位置は合ってるな。」
彼はゆっくりと歩を進める。
アイデンとカルマも、彼のすぐ後ろについた。
三人は自然と呼吸を合わせ、
足音を殺して慎重に進む。
影に潜む何かを警戒しながら——。
カルマが、微かに眉をひそめた。
周囲の闇をじっと見つめながら、
低く囁く。
「……ここ、空気が重いわね。」
「この魔力の濃度……まるで ‘墓場’ みたい。」
アイデンは、入口周辺を注意深く観察する。
そして、地面に刻まれた僅かな痕跡を指さした。
「……見えるか?」
「魔力を誘導する ‘符紋罠’ だ。」
「下手に踏み込めば、閉じ込められるか、最悪の場合 ‘爆破’ される。」
その言葉に、カルマが静かに息を吐く。
「ますます ‘歓迎されてない’ 感じね。」
炎は無言で頷き、ゆっくりと膝をつく。
符紋の配置を慎重に確認し、
目でその位置を記憶していく。
そして、アイデンとカルマに手で合図を送り、
「迂回しろ。慎重にな。」
そう、短く指示を出した。
彼らは、細心の注意を払いながら
静かに、影の中を進んでいく——。
トンネルの奥へ進むほど、闇はますます深く沈んでいった。
壁に取り付けられた古びたランプの架台は、
すでにその役目を失って久しい。
僅かに点灯している安全灯の淡い輝きが、
かろうじて前方の道を照らしていた。
空気は一段と冷たく、湿り気を帯び、
骨の髄まで染み込むような冷気が広がっていく。
この場所には、無数の ‘忘れ去られた記憶’ が眠っているかのようだった。
三人は警戒を怠ることなく進む。
一つ一つ、仕掛けられた罠を慎重に避けながら——
やがて、ある一室へとたどり着いた。
そこは、資料保管室。
分厚いファイル、乱雑に積み上げられた紙の束——。
どれも、時間に押し潰されたかのように散乱していた。
棚の端には、「実験コード」 のラベルが貼られたファイルフォルダ。
開け放たれた鋼鉄製のキャビネットの中には、
無造作に詰め込まれた実験器具。
まるで、ここでかつて行われていた ‘非道な実験’ の痕跡が、
今もなお、この空間にへばりついているかのようだった。
鼻腔を刺激するのは、
化学薬品と、わずかに鉄臭い ‘血の残り香’——。
思わず、背筋に冷たいものが走る。
三人は、部屋の隅々まで調べ始めた。
そんな中、カルマが足を止める。
周囲を見渡していた彼女の視線が、
あるファイルの間に挟まれていた、一枚の写真に吸い寄せられた。
……ぼんやりと滲むような影。
写真は劣化し、画像は不鮮明だったが、
背の高い ‘何者か’ のシルエットだけは、かろうじて判別できた。
カルマは写真へと歩み寄り、そっと手に取る。
目を細めながら、それを炎へと差し出した。
「……エン、これを見て。」
カルマの声は抑えられていた。
微かに揺らぐ感情を、悟られまいとするかのように——。
炎は写真を手に取り、じっと見つめる。
その眉間に、わずかなしわが刻まれた。
写っているのは、半身のポートレート。
まるで身分証明用の証明写真のような構図——。
男は、端正な黒いスーツを着こなし、
逞しい体つきをしている。
そのスーツは肩から胸にかけてぴったりとフィットし、
男の威圧感を一層際立たせていた。
短く整えられた赤髪は、乱れひとつなく撫でつけられている。
厚みのある黒縁の眼鏡が、
その表情の一部を隠し、
冷徹かつ孤高な雰囲気を醸し出していた。
年齢は、おそらく二十代後半から三十代前半——
その佇まいには、静かな威圧感が滲んでいた。
「……」
炎の指が、わずかに写真を握り込む。
写真の中の男は、ただ前方を見据えているだけなのに、
そこから放たれる『圧』は、無視できるものではなかった。
まるで、この一枚の写真自体が、何かを警告しているかのように。
その沈黙を破るように、アイデンが低く呟く。
「……この写真には ‘アレス’ という名前が書かれてるな。」
彼は写真の横に記載された文字を指でなぞりながら、
どこか落ち着かない表情で続けた。
「資料によると、 ‘アレス’ という名の悪魔が、」
「この一連の実験と何らかの関わりを持っていたらしい。」
「——ッ!」
その名を聞いた瞬間、
カルマの体がわずかに強張った。
心臓の鼓動が、一気に速まる。
それは——
彼女の記憶の奥深くに封じられた名前。
カルマは、息を深く吸い込む。
そして、努めて平静を装いながら、
静かに言葉を紡いだ。
「……アレス。」
「それは——」
「私の父の名前よ......」