禁忌の符紋(5)
アイデンは車を目立たない一角に停めると、静かにエンジンを切った。
三人は無言のまま車を降りる。
黒市周辺の路地は、狭く、薄暗かった。
人気はほとんどなく、どこか張り詰めた空気が漂っている。
通り全体が、まるで何者かの目に見張られているような気配——。
カルマは周囲を鋭い目つきで見回し、わずかに肩を強張らせる。
何が起こっても対応できるように。
「……相変わらず陰気な場所だな。」
アイデンがぼそりと呟き、コートの襟を引き上げる。
そのまま炎とカルマに身を寄せ、低い声で囁いた。
「いいか、ブラックマーケットの連中は大体俺の顔を知ってる。」
「だが、お前たちは目立たないようにしろ。」
「ここでは、余所者の素性を探りたがる奴が多いからな。」
炎は小さく頷いた。
こうした状況には慣れている。
目立たず、空気のように振る舞うのは、彼にとって特別なことではない。
カルマは一瞬眉をひそめるが、何も言わなかった。
彼女にとって、この場所は決して好ましいものではなかったが、
今は余計なことを考える暇などなかった。
三人は静かに歩を進める。
黒市の入り口へと向かう道すがら、周囲の建物はどれも古び、荒れ果てていた。
壁はひび割れ、塗装が剥げ落ち、窓は砕けたまま放置されている。
時間の流れがここだけ止まっているかのように、朽ち果てた街並みが続く。
狭い路地に差し掛かったところで、アイデンが足を止めた。
前方を指さしながら、低く告げる。
「入口はこの先だ。」
「この路地を抜けると、門番がいる。俺が先に話をつける。」
三人は、アイデンの後に続いて細い路地へと入る。
路地の奥には、目立たない鉄の扉があった。
扉の前には、黒いコートを羽織った男が二人、無言で立っている。
その目は冷たく、ここを訪れる者を隅々まで見定めるような視線を放っていた。
アイデンが最前に立ち、一人の門番と何か小声で言葉を交わす。
数秒の沈黙の後、門番がわずかに頷いた。
アイデンは振り返り、炎とカルマに目配せをする。
「——行くぞ。」
ブラックマーケットへ足を踏み入れた途端、鼻をつく湿った空気が襲いかかる。
わずかにカビ臭さが混じった、重くよどんだ匂い。
四方には無数の闇市の露店が軒を連ね、所狭しと違法な品々が並んでいた。
稀少な魔道具、魔物の血肉を練り込んだ武器、正体不明の秘薬……。
合法・非合法の境界を軽々と越えた品が、あたりに溢れかえっている。
売人たちの顔はほとんど隠されていた。
フードやマスクで素性を隠しながらも、
その奥から覗く鋭い眼光だけが、通行人をじっと見据えていた。
カルマは周囲を一瞥し、眉をひそめる。
「……まさに、闇の勢力が集う場所ね。」
口調は淡々としていたが、どこか嫌悪の色が滲んでいた。
アイデンは先頭を歩きながら、やや声を落とす。
「ここに並んでるものは、玉石混交だ。」
「粗悪品も多いが、ときどき掘り出し物がある。」
「だが、今回の目的は品定めじゃない。符紋武器の情報を探るのが先だ。」
炎は無言で頷き、警戒を怠らずに周囲を見回す。
この市場にいるのは、売人だけではない。
どこかから視線を感じる——
いや、監視されている可能性もある。
油断はできない。
やがて、市場の片隅に一人の売人が目に入る。
顔の下半分を布で覆い、露出しているのは狡猾そうな眼だけ。
目の前の客と何やら囁き合っていたが、
その声には、露骨な欲深さが滲んでいた。
アイデンは足を止め、炎とカルマに軽く頷いた。
そのまま、慎重に露店へと歩み寄る。
敵意も、興味も悟られぬように。
そして、あくまで平静な口調で尋ねる。
「ここで新型の符紋武器が手に入ると聞いた。」
「特に、魔物の血肉を使った品があると。」
売人は一瞬、目を細めた。
じろりとアイデンを値踏みするように見つめ、
慎重な口調で応じる。
「……そいつは、普通の客が簡単に買えるようなもんじゃないぜ。」
「本当に、欲しいのか?」
「もちろん。」
アイデンはそう言いながら、懐から財布を取り出す。
——が。
中身は、見事に空だった。
「あっ……。」
数秒の沈黙のあと、彼はバツが悪そうに笑い、炎の方へ顔を向ける。
「……いやぁ、つい電子決済に頼りすぎててさ。ちょっと立て替えてくれない?」
炎は無言のまま眉をひそめ、
軽くため息をついた。
何も言わず、ポケットから数枚の紙幣を取り出し、
無造作にカウンターへ置く。
そして、短く言い放った。
「……質問に答えろ。」
言葉は少なかったが、
その声には、微かに圧力がこもっていた。
現金を見た売人の目が、わずかに輝く。
すばやく金をポケットに押し込み、
ちらりと周囲を見回してから、低い声で囁く。
「……この符紋武器の仕入れ先は、ウチの通常ルートじゃない。」
「最近、どこからか “魔物の血肉を組み込んだ武器” が流れてきてる。」
「いくつかのルートを通じて広まってるが……」
「どうやら、とある地下組織が “魔物の力を使った人間用の武器” を研究してるらしい。」
「まだ試験段階だが、今後もっと流通するかもしれねえな。」
アイデンは眉を寄せる。
「……闇紋会の仕業か?」
「闇紋会」——
その名を耳にした瞬間、露店の男の顔色が変わった。
僅かに視線をそらし、
どこか、話を切り上げたがっているような素振り。
炎は、その微細な変化を見逃さなかった。
わずかに声を低め、淡々と告げる。
「……時間は限られている。」
「話せることは、すべて話せ。」
男は唇を噛み、しばし躊躇する。
だが、炎の冷静な眼差しに気圧されたのか、
やがて小声で口を開いた。
「……闇紋会の連中は、ここでかなり前から動いている。」
「だが、連中の素性も、計画の詳細も分からねえ。」
「ただ、噂じゃ……やつらのやり口は、黒燈会よりもえげつない。」
「魔物を捕えて、実験にかける。」
「それだけじゃない……。人間も、だ。」
その言葉を聞いた瞬間——
アイデンと炎の視線が、短く交差する。
カルマも黙ったまま、眉を寄せた。
彼女の表情には、明らかな不快感が滲んでいた。
「……言えるのは、ここまでだ。」
露店の男はそう言いながら、周囲を警戒するように目を泳がせる。
「これ以上知りたきゃ、自分たちで探るんだな。」
炎はその瞳の奥に冷ややかな光を宿したまま、
静かに頷いた。
「……行くぞ。」
そう一言だけ告げると、踵を返す。
アイデンとカルマも、それに続いた。
彼らの次なる目的——
闇紋会の正体に、より深く迫ることだった。
三人は黒市を後にし、薄暗い路地を抜ける。
どこか冷たい風が吹き抜け、空気は先ほどよりも一層重くなっていた。
アイデンは車を静かに発進させ、次の情報源へ向かう。
車内は、しばし沈黙に包まれた。
儀表盤の淡い光だけが、
三人の顔に薄く影を落としている。
アイデンは後視鏡越しにカルマを見やり、口を開いた。
「……闇紋会の存在は、やはり厄介だな。」
「やつらの戦力と動きをどこまで把握できるか……」
「それ次第で、俺たちがどれだけ準備の時間を確保できるかが決まる。」
カルマは静かに頷いた。
その瞳は鋭く、しかし、微かに不安の色を帯びていた。
「……魔物も、人間すらも実験台にする。」
「そんな狂った組織が、黒燈会より危険じゃないはずがない。」
「もし放置すれば、どれほどの災厄を生むか分からない……。」
炎は一言も発さず、ただ窓の外を見つめていた。
先ほど得た情報を反芻しながら、考えを巡らせる。
彼は、他人の狂気に深入りすることを好まない。
だが——
放置すれば、確実に更なる災厄が訪れる。
それだけは間違いなかった。




