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『一日限定の恋人』(中)

 

 本来、カルマにとってこれはただの悪ふざけのはずだった。


 ——だが。


 二人が高級レストランの扉をくぐった瞬間、

 彼女は、自分の想定とは何かがズレ始めていることに気づいた。


 ゆらめくキャンドルの灯。

 低く落ち着いた声で囁き合うカップルたち。

 心地よく流れるクラシックの旋律。

 テーブルに並ぶ、繊細に磨かれたクリスタルグラス。


 ——これ、"適当に飯を食う"ってレベルじゃないんだけど?


 カルマは、思わず店内をぐるりと見回す。

 普段の食事とは明らかに違う、"ちゃんとした"雰囲気に、彼女は少しだけ戸惑った。


 ……でも、もっと予想外だったのは。


 ——エンの態度が、あまりにも自然すぎることだった。


 店員が席へ案内するために近づいてくると、エンは何の迷いもなく、

 ごく自然な仕草でカルマの手を軽く支えた。


「……?」


 カルマは、思わず眉をひそめる。


 彼の動きは、極めてシンプルで、特に余計な感情は感じられない。

 だが、それゆえに、まるで昔からこういう場所に慣れ親しんでいるかのようだった。


「へぇ……今日はやけに紳士的じゃない?」


 彼女は、興味深そうに唇をつり上げ、軽くからかうように言う。


 しかし、エンは相変わらず淡々とした口調で返した。


「ここのマナーだ。」


 そう言うと、彼はごく当然のように椅子を引き、カルマが座るのを待つ。

 彼女が座ると、エンも無駄のない動きで席についた。


 ——その一連の所作は、まるで"自然な貴族の振る舞い"のようだった。


 カルマは、無意識にまばたきをする。


(……こいつ、本当に"こういう場所"に不慣れな人間なの?)


 彼女の脳裏に、ふと疑問がよぎった。

 カルマは、別の意味で驚いていた。


 ——どうしてこいつ、こんな場所でも微塵も動じてないの?


 彼女は、最初こそエンが場違いに戸惑う姿を期待していた。

 けれど、実際はどうだ?

 彼は、まるでこの雰囲気が"当たり前"であるかのように、

 平然と振る舞っているどころか、むしろ彼女より馴染んでいる。


「……面白い。」


 彼女は、頬杖をつきながら、小さく呟いた。

 目の前の男を、改めて見つめ直す。


(——"いつもより、弄りにくい"。)


 そんなことを考えていると、店員が丁寧にメニューを差し出してきた。

 カルマは、軽く足を組みながら、手を伸ばしてそれを受け取る。


 ——だが、開いた瞬間、彼女の動きが一瞬止まった。


「……?」


 エンが、彼女の表情の変化を察し、淡々とした口調で問いかける。


「どうした? 怖気づいたか?」


「……は? そんなわけないでしょ?」


 カルマは即座に反応し、強気にメニューをめくる。


 ——だが、そのまま視線が止まる。


(……ちょっと待って。この、ゼロの数……)


 数字は読める。

 人間の文字はまだ完全には理解できなくても、

 数字の並びくらいは分かる。


 ——予想よりゼロが多い。


 いや、"多い"なんてもんじゃない。

 "めちゃくちゃ多い"。


 けれど、彼女にとっては、それが何だという話でもあった。


 だって、彼女にとって人間の金銭感覚なんて無意味なものだ。

 "高い"とか"安い"とか、そんな価値観を持ったことはない。

 彼女の世界において、この数字はただの飾りに過ぎなかった。


(……ま、エンが奢るって言ったし。)


 なら、遠慮する理由なんてない。


 カルマは、にやりと笑い、

 ページの中で最も桁の多い料理を見つけると、

 そのまま迷わず指を滑らせた。


「——これで。」

 カルマは、メニューをパタンと閉じると、

 したり顔で選んだ料理をウェイターに伝えた。


 その後、意味ありげな視線をエンに向ける。


(——さて、どう出る?)


 彼女は、内心ほくそ笑んだ。

 この高級料理の値段を知ったら、さすがのエンでも少しは渋るかもしれない。

 それとも、ほんの少しだけ後悔したり……?


 だが。


「お前が食い切れるなら、別にいい。」


 エンは、メニューを見ることすらせず、

 あまりにも淡々とした声で、それだけを言った。


 カルマ:「……」


(——え、またしても予想外なんだけど?)


 彼女は、一瞬だけ言葉を失う。


(こいつ……やっぱり動じない!?)


 まるで彼女の仕掛けた"遊び"など、最初から見抜いていたかのように。


 ——なんか、またしても逆に弄ばれてる気がする。


 カルマは、**むむむ……**と考え込む。


(どうにかして、この流れを私のペースに持ち込まなきゃ……)


 そう思った瞬間だった。


 ——何かの視線を感じた。


 それも、妙に圧のある視線。


 カルマは、眉をひそめ、

 そのまま、ゆっくりと視線の方向を追った——


 そして——


 ——ぷっ!


 彼女は、思わず吹き出しそうになった。


 視線の先、レストランの反対側の席。

 そこには——


 アイデンがいた。


 しかし、問題はそこではない。


 彼の向かいには、煌びやかなドレスを身にまとった上流階級の令嬢が座っていたのだ。

 そして、彼女はにこやかにアイデンを見つめている。


 ——とても、とても楽しそうな笑顔で。


 ——だが、アイデンの方は?


 彼は、明らかに「しまった」という顔をしていた。


 "助けてくれ"


 そう言いたげな、苦笑いを浮かべながら。


 カルマは、その様子を見て、心の中で大爆笑していた。


(なにこれ、予想以上の面白い展開なんだけど?)


 カルマは、興味深げに眉を上げると、

 そっとエンの腕を指でつついた。


「ねえ、ちょっと。あそこ見てみなよ。」


 エンは、視線を少し上げ、

 ちらりとそちらを見やる。


「……金持ちのお嬢様に買われたのか?」


 的確すぎる一言。


 カルマ:「ぷっ……!」


 思わず笑いそうになったその瞬間——


 カツン——

 高級ワイングラスを手にしたアイデンが、

 苦笑いを浮かべながら、こちらに向かって歩いてきた。


「……お前らもここにいたのか?」


「『も』?」


 カルマは、にやりと微笑む。

 そのまま、テーブルに肘をつきながら、わざとらしく首を傾げた。


「ねえ、それ、まるで**"私たちがここにいるのがおかしい"**みたいな言い方じゃない?」


 アイデン:「……」


 彼は、やや困ったように額を押さえ、

 低い声でぼそっと答えた。


「いや……まさかこんな所で会うとは思わなかっただけだ。」


 カルマは、細めた目で彼を見つめながら、

 さりげなく視線を彼の後ろへ滑らせる。


 そこには——


 華やかなドレスに身を包んだ、上品な令嬢。


 彼女は、アイデンがこちらへ向かうのを、

 にこにこと微笑みながら見守っている。


「ふぅん……」


 カルマは、そのまま顎に指を当て、面白そうにアイデンを見上げた。


「で? もしかして、お見合い?」


 アイデン:「…………まぁ、そんなところだ。」


 その瞬間——


 カルマ:「え、本当に!?」


 彼女の表情が、一気に輝いた。


(これ、思ったより面白い展開じゃない!?)

 アイデンは、深いため息をつきながら、

 どこか諦めたような口調で説明を始めた。


「……研究費を手に入れるのは、簡単じゃないんだよ。」


 そう言いながら、肩をすくめる。


「彼女の家族は、高度な符紋技術を扱う企業の投資家でね。

 うちの研究に興味を持ってるらしくて……まぁ、その……

 "スポンサー対応"ってやつだ。」


 要するに——


 これはデートじゃなくて、"資金調達のための社交"ということだった。


 カルマ:「……へぇ?」


 カルマは腕を組みながら、ニヤニヤと口角を上げる。


「ってことはさ……」

「お前のこのディナー、奢ってもらってんの?」


 アイデン:「……当然だろ?」


 彼は、若干うんざりした顔で頷く。


「まさか、この店のバレンタインディナーを、俺の財布で払えるわけがない。」


「——っはははは!!!」


 カルマは、ついに耐えきれず、大きく吹き出した。


「なにそれ! ただの"飼われてる研究員"じゃん!」


 アイデン:「……」

 だが、その瞬間——


「アイデンさん?」


 柔らかく、上品な声が背後から響いた。


 カルマとエン、そしてアイデンの三人が、

 同時に振り向く。


 そこには——


 優雅な微笑みを浮かべた令嬢が、静かに立っていた。


 彼女は、上品に首を傾げながら、

 穏やかに尋ねる。


「そちらの方々は、お知り合いですか?」


 アイデン:「……っ!」


 一瞬、彼の顔がさらに引きつった。


 カルマ:「……ぷっ。」


(これは面白いことになってきた。)


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