暗流の幕開け(1)
濃い霧が、街の外れを覆い隠していた。
まるで分厚いヴェールのように、光を遮り、音を呑み込んでいく。
ここには、滅多に人が来ない。
静寂が支配するこの場所で、唯一聞こえるのは、廃墟の隙間を吹き抜ける風の音だけだった。
崩れかけた倉庫の外壁には、長年の風雨に晒された跡が残る。
湿った苔が壁の隅々にまで這い上がり、錆びついた鉄と朽ちた木材の匂いが入り混じる。
まるで、忘れ去られた墓地に足を踏み入れたかのような感覚だった。
──ここに、標的がいる。
炎は前に立ち、じっと倉庫を見つめていた。
夜風が短く整えられた白髪を揺らし、暗闇の中で翡翠色の瞳が冷ややかに光る。
その眼差しには一切の動揺がない。
まるで、闇の向こうに潜む何かを見透かそうとしているかのように。
一方、その隣に立つカルマは、どこか気楽そうだった。
彼女の長い赤髪が風に乗って揺れ、まるで闇夜に揺らめく炎のように映る。
前髪の一筋は淡い黄緑の光を帯びており、角度によって瞳の色が変わる。
時にはエメラルドの輝きを、時には金色の輝きを映し出し、どこか妖しく、不敵な雰囲気を纏っていた。
カルマは、身体にぴったりとフィットした黒いレザーの装束を身にまとい、鍛え抜かれたしなやかな肢体を包み込んでいる。
背中に畳んだ悪魔の翼の輪郭が微かに浮かび上がり、今にも広がりそうな気配を漂わせていた。
彼女は腰に手を当て、余裕のある笑みを浮かべながら言った。
「……お化け屋敷って感じがしない?」
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
この不気味な静寂すら、彼女にとっては遊びの一環に過ぎないのかもしれない。
炎はカルマの軽口に応えず、じっと目の前の錆びついた鉄扉を見据えていた。
扉には、まるで鋭い爪で引っかかれたような無数の傷跡が刻まれている。
そこから滲み出る、得体の知れない不穏な気配。
「……情報によると、最近この倉庫への異常な出入りが確認されている」
低く落ち着いた声で言いながら、炎は微かに身構えた。
口調こそ冷静だが、その視線の奥には確かな警戒心が宿っている。
軽率な行動は命取りになる──それをカルマに釘を刺すように、慎重な口調で告げた。
二人は霧に包まれながら、静かに闇に沈む倉庫を見つめる。
まるで、その奥深くに潜む「何か」が、こちらを窺っているかのように。
すると──
建物の中から、かすかな話し声が聞こえてきた。
──何かを企んでいるような、急かされたような、不穏な響き。
炎とカルマは即座に目を合わせ、無言で意思を確認する。
そのまま、息を潜めて身を屈め、倉庫の影へと滑り込もうとした──その時。
後方から、何者かの足音が近づいてくる。
小さく、しかし焦ったような軽い靴音。
それを聞いた瞬間、炎は反射的に振り返る。
霧の中に、痩せた男の影が浮かび上がった。
夜の闇に紛れながらも、その厚いレンズの眼鏡がぼんやりと光を反射している。
──アイデンだ。
彼は慎重に足音を殺そうとしていたが、その動きにはどこかぎこちなさがあった。
緊張のせいか、それともただ単に不器用なのか、微妙に足元がふらついている。
「……アイデン?」
炎は声を潜めながらも、わずかに眉をひそめる。
本来、今回の任務は極秘行動のはずだった。
だが、まさか研究員の彼まで巻き込まれるとは思っていなかった。
そんな炎の困惑をよそに、カルマは口元を抑え、くすくすと笑った。
その瞳には、興味深げな光が宿っている。
「ふーん……もしかして、悪魔の観察にでも来たの?」
「案外、肝が据わってるじゃない?」
彼女は小声でそう囁きながら、愉快そうに炎を見た。
夜の静寂に交わる、思わぬ乱入者。
状況は、さらに複雑になりそうだった──。
その時、建物の中にいた黒燈会の構成員が、外の異変に気付いたようだった。
いくつもの黒い影が、素早くアイデンの方へと動き出す。
炎は小さく息を吐き、静かに言った。
「……やるぞ。アイツに巻き込まれる前にな。」
カルマの唇が愉悦に歪む。
彼女の手のひらに微かな光が集まり、魔力がゆっくりと形を成し始めた。
炎と共に、奇襲を仕掛ける準備を整える。
アイデンに気を取られている黒燈会の構成員たち。
その隙を逃さず、炎とカルマは闇の中から電光石火のごとく飛び出した。
炎は迷うことなく符紋の刻まれた拳銃を構える。
標的は、アイデンに接近している黒燈会の構成員。
──引き金を引く。
青い光弾が夜を切り裂いた。
弧を描くように走る光が、一直線に標的の肩を撃ち抜く。
「ぐっ……!」
銃弾を受けた男が苦悶の声を上げ、そのまま後方に倒れ込む。
地面に崩れ落ちたまま、驚愕の表情で視線を向けた。
カルマも負けじと魔力を放つ。
指先から放たれた魔力の波動が、もう一人の黒燈会の構成員を正確に捕らえた。
「っ……!」
魔力の直撃を受けた男は、バランスを崩して後退する。
その瞳に浮かぶのは、明らかな恐怖。
彼は悟ったのだ──自分たちは、手強い相手に狙われてしまったのだと。
「うわぁっ!」
アイデンが驚いた声を上げる。
炎とカルマの姿を確認すると、安堵の表情を浮かべたものの、その顔にはまだ焦りが残っていた。
「エン! 本当に俺、実験体にされるところだったんだぞ!」
炎は冷ややかな視線を向け、銃を構えたまま淡々と答えた。
「……お前な、もう少し大人しくしてろよ。いつもトラブルばっかり引き寄せやがって。」
カルマは楽しげに笑い、軽く肩をすくめる。
「アイデン、あんた選ぶ場所のセンスあるわね。こんな危険な拠点にのこのこやって来るなんて……。もしかして、お宝でも嗅ぎつけた?」
アイデンは気まずそうに眼鏡を押し上げ、声を潜めながら言った。
「いや、ただ偶然彼らの秘密を知っちゃっただけで……。でも、ちゃんとお土産も持ってきたぞ。」
そう言って、懐から数枚の羊皮紙を取り出す。
その瞳には、どこか誇らしげな光が宿っていた。
「ほら、これ……俺たちが探してた情報かもしれない。」
炎はちらりと羊皮紙を見たが、次の瞬間、倉庫の奥で新たな影が蠢いた。
──増援か。
黒燈会の構成員たちが、こちらへと次々に集結する。
敵の視線は鋭く、明確な殺意が滲んでいた。
カルマの笑みが、ふっと消える。
その手のひらに、橙色の炎がゆらりと灯った。
「……どうやら、お喋りの時間は終わりみたいね。」
熱を帯びた魔力が、空気を震わせる。
炎は敵の動きを冷静に見極めながら、アイデンを一瞥した。
「……いいか、今度こそ慎重に動けよ。俺たちの足を引っ張るな。」
アイデンは苦笑しながらも、すぐに数歩後退し、慎重に身を隠す。
その様子を見て、カルマがくすりと笑った。
「いい子ね。そのままそこでじっとしてなさい。」
そして、迷いなく手を振り下ろす。
燃え盛る炎が、黒燈会の構成員たちの前に壁を作った。
「──さあ、楽しい時間の始まりよ。」
カルマの声が戦場に響き渡り、炎とカルマは絶妙な連携で敵を圧倒していく。
符紋の銃弾と魔法の奔流が交差する中、黒燈会の構成員たちは次々と倒れていく。
敵の勢いが徐々に弱まり、二人は静かに前進を始めた。
アイデンは無言のまま、二人の後を追いかける。
お互いに目配せしながら、次の行動を決めるために足を止めた。
夜の闇に包まれた建物の中で、新たな局面が待ち受けていた──。