封印と解放の序曲(10)
二人は、夜の森を歩き続ける。
それぞれの心に、言葉にはできない思いを抱えながら——。
しばしの沈黙のあと——
カルマが、ふっと肩をすくめながら口を開いた。
「ま、少なくとも——生きてるなら、ちゃんと食べなきゃね。」
彼女の声は、いつもの軽やかな調子に戻っていた。
「さっきの戦闘でだいぶ消耗したでしょ?このままじゃ、体がもたないわよ。」
炎は、その言葉にわずかに眉を上げると——
「……でも、"焦げてるのか生なのかわからない"のは勘弁な。」
淡々と、そう言い放った。
「……ッ!!」
カルマの顔が、ピクリと引きつる。
「……あれは"事故"よ!!」
「それに、食べられないことはなかったでしょ!?というか、そもそも文句言える立場?」
——そう。
焦げた表面の下が、なぜかまだ半生だったという、謎の料理。
炎は、口元に微かな笑みを浮かべながら——
「……それなら、パンでいい。」
「あんたねぇ……!」
カルマは、思わずムッとした顔をしてみせるが——
その目の奥には、確かに笑みが浮かんでいた。
——夜風が、そっと二人の間を吹き抜ける。
そのまま、ふざけたやり取りを続けながら、二人は並んで歩き出した。
夜の静寂に包まれながら、炎とカルマの姿は次第に闇の中へと溶け込んでいった。
彼らの足音が徐々に遠ざかり、まるで先ほどの死闘が夢のように消え去っていく。
だが——
彼らが夜の闇へと姿を消した、その瞬間。
「……フッ。」
遠くの暗闇の中。
いくつもの影が、密やかに潜んでいた。
そのうちの一人——
黒いレザージャケットを纏う男が、ゆっくりと視線を落とす。
彼の手に握られた通信機が、かすかに紅い光を点滅させていた。
その光が、男の表情をわずかに照らす。
「……面白いな。」
男は、低く呟いた。
「知らぬ間に、"核心"へと足を踏み入れているとは。」
その声には、抑えきれない興奮と、どこか含みのある冷笑が滲んでいた。
「報告しますか?」
すぐ傍らで、もう一つの影が問いかける。
それは、慎重な口調だった。
——だが、その言葉は、次の瞬間、短く遮られる。
「必要ない。」
黒衣の男は、冷たく言い放つ。
「今はまだ、"観察"の時だ。」
彼の瞳には、計算された鋭い光が宿る。
「……黒燈会は、すでに動き始めた。」
「そして、我々はただ"獲物"が罠に落ちるのを待てばいい。」
冷たく、確信に満ちた声。
「この二人のハンター——」
「まだ、使い道があるかもしれない。」
そう言い終えると、彼は通信機の光を消し、ゆっくりとその場を離れた。
——静寂が、再び夜を支配する。
まるで、そこに誰も存在しなかったかのように。
だが、その影は確かに"存在の痕跡"を残していた。
それは、この都市に渦巻く新たな陰謀の兆し——
◆ ◆ ◆
炎とカルマは、静かな夜に戻った。
しかし、彼らの帰宅を迎えたのは——
「まだ、いるのか?」
部屋のドアを開けると、アイデンが机に向かって埋め込まれている姿が目に入った。
テーブルの上には、あらゆる種類の書類、書籍、符紋のノートが無秩序に広がり、未だに飲まれていない数杯のコーヒーがその横に積み重なっている。
アイデンは、完全に時間が過ぎるのを忘れてしまったように、資料を手にして深く集中している。
アイデンの存在に気づくと、炎は大きく息をつき、軽く目を閉じながら言った。
「お前、まだ帰らなかったのか?」
突然の声に、アイデンは驚いて顔を上げる。
厚い眼鏡をかけ直し、少し驚いた様子で問いかける。
「お、お帰りなさい。どうだった?何か進展はあったか?」
カルマはそのまま椅子に座り、少し誇張気味に言った。
「調査した結果、予想以上のことが分かったわ!」
彼女は炎を見ながら、目で合図を送る。
炎は、簡潔にこれまでの出来事を話し始める。
「黒燈会が仕掛けた儀式、符紋の発動、そして巨魔が現れた後の混乱……」
炎は、その全てを淡々と説明する。
そして、彼がいかにして符紋を書き換え、巨魔を静め、最終的に消滅させたのかについても触れる。
アイデンはその説明を真剣に聞きながら、目を見開いていく。
「符紋を書き換えた……?封印された魔物を解放させた……それが、君の体内の力によって?」
アイデンは、興味津々で低く呟く。
炎は少し黙り込んだ後、頭の中でその瞬間のことを思い出していた。
あの時、符紋を変える瞬間——
その衝動に、ほとんど逆らえなかった。
「……その時、何かが導いていた気がする。」
彼は、その時の感じを少し反芻しながら言った。
「自分から積極的に符紋を変えたわけじゃない……でも、何かが体を動かして、その力を注ぎ込んだ。」
彼は眉をひそめ、その制御できない感覚を思い出す。
「本当に、意味もわからない符紋だったけど——本能的にやり遂げたんだ。」
アイデンはその言葉を静かに受け止め、少し考える様子を見せた。
「それは……」
彼は、手にしていた資料を机に置き、少し考え込みながら口を開いた。
「君が触れたその力、確かに……ただ事じゃないな。」
その言葉には、無意識に深まる警戒感と、少しの興奮が交じっている。
「君の体に流れるその力が、どうも『異常』だ。」
アイデンはしばらく沈黙した後、重々しい表情で続けた。
「ただの力じゃない、君が今体験しているのは——何かもっと大きな何かの影響だ。」
「だが、その力を持つことが、君にとってどんな結果を招くかはわからない。」
カルマも少し眉をひそめ、沈黙の中でアイデンの言葉を受け止めた。
この一連の出来事が、ただの偶然ではないこと——
そして、炎の身に宿る力が、次第に彼をどこかへと導いていることを、カルマは深く感じ取っていた。
二人は言葉少なに、今後のことを考えながら、しばし黙っていた。
——しかし、その場の静けさの中でも、何かが確実に動き始めていることは感じ取れていた。
アイデンはじっと炎を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
彼の目には、好奇心と困惑が入り混じった光が浮かんでいた。
「……その力は、単に君自身のものではないように思える。」
アイデンは指先で机を軽く叩きながら、慎重に言葉を選ぶ。
「何か別の"意志"が影響を与えている可能性は?」
彼の視線が鋭くなる。
「もしかすると——君は"何者か"と共鳴したのではないか?」
「共鳴?」
カルマが腕を組みながら、炎を横目で見る。
「つまり、エンの中にある力が、何者かの意識によって動かされた……ってこと?」
「それとも、もっと根本的な話で——エンの中に"別の意志"が宿っているとか?」
炎は、しばらく黙ったまま考え込んだ。
その瞬間の感覚——
符紋を"改変"したあの刹那、確かに、彼自身の意志ではなかった。
だが、それが誰のものだったのかは、まるで霧の向こうに隠されたように掴めない。
「……"意志"か。」
彼は、低く呟く。
「確かに、あの時は"導かれていた"ような感覚だった。」
カルマが、じっと彼を見つめる。
炎は、拳を握りしめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それが誰のものなのか……俺の力そのものなのか、それとも"俺とは別の何か"なのかはわからない。」
彼は一度息をつくと、まるで他人事のように静かに言った。
「……ただ、一つだけ言えるのは——」
「この力には、"使命"があるらしい。」
だが、その口調には、どこか冷めた響きがあった。
カルマは、その言葉の違和感に気づいた。
「……"使命"があるって、まるで他人事みたいな言い方ね。」
炎は、僅かに肩をすくめる。
「だって、"俺の使命"じゃないからな。」
「もしこれが、誰かの未練の残滓だとしても……俺はそれを背負うつもりはない。」
「俺はただ、たまたまこの力を持ってるだけの"代役"だ。」
アイデンは、その言葉を静かに聞きながら、何かを考えているようだった。
だが、彼が次の言葉を発する前に——
——グゥゥゥ……。
沈黙の中、突然不穏な音が部屋に響き渡る。
カルマが瞬きしながら音の発生源を探す。
そして——
「……アイデン?」
アイデンの顔が、一瞬硬直する。
「……ッ!」
彼の手が、さりげなく腹元を押さえた。
「……聞かなかったことにしてくれ。」
カルマは、耐えきれず吹き出した。
「なによ、あんなに真剣な顔してたのに……結局、お腹すいてただけじゃない。」
「さっき、私たちが"何か食べるべき"って言ってたの、結局一番必要なのはアイデンだったってわけね?」
炎は、静かに息をつきながらスマホを取り出した。
「……まぁ、食うのも大事だ。」
彼は画面を操作しながら、無表情のまま言う。
「注文した。」
アイデンは、少し驚いたように炎を見る。
「……お前が頼んだのか?」
炎は淡々と答える。
「代金も払った。あとは受け取るだけだ。」
アイデン:「……え?」
炎は、ゆっくりとアイデンの方へ視線を向ける。
「だから、お前が取りに行け。」
「……ちょっと待て。」
アイデンは、思わずスマホを覗き込む。
そこには——
「支払い済み」 の表示。
アイデン:「……。」
アイデン:「……。」
アイデン:「……くそっ。」
「奢ってもらった以上、文句は言えないな。」
カルマは、肩をすくめながら微笑んだ。
「行ってらっしゃい、これはいい運動になるわよ。」
「ったく……せめて感謝くらいしろよな。」
アイデンは、ぶつぶつと文句を言いながら、外へと向かった。