封印と解放の序曲(9)
遠くに立つ狩人たちは、ただ茫然とその光景を見つめていた。
目の前で起こった出来事——
それは、彼らの理解を超えていた。
彼らは、あの暴走する巨魔を倒すために、何度も攻撃を仕掛けた。
あらゆる武器、符紋、呪術。
それでも、誰一人として、あの魔物の動きを止めることはできなかった。
だが——
「何だ……あの光は?」
符紋が紅く輝き始めた瞬間、何かが変わった。
あれほど狂暴だった巨魔が——
沈黙した。
暴れ狂っていた獣が、まるで安らぎを得たかのように。
そして——
その巨体は、静かに、煙のように消えていった。
「……な、なんだ……?」
狩人たちは、言葉を失った。
彼らの視線が、一人の存在へと集まる。
カルマ。
彼女の存在は、すでに彼らの間で警戒されていた。
その強大な魔力、得体の知れない能力。
そして今——
「……あれは、あの女の力なのか?」
ゴクリ……
誰かが、生唾を飲み込む音が響く。
「悪魔……」
誰かが、低く呟いた。
「やはり、噂は本当だったか……」
狩人たちの間に、ざわめきが広がる。
「まさか、魔物を……"消滅"させることができるのか?」
「魔力の制御を超えた何か……?それとも、未知の術か?」
「こんなことが……人間に可能なのか……?」
——そして、次第に。
その"驚愕"は、"警戒"へと変わっていく。
「おい、楽観視するな。」
低く、警戒する声が響く。
「この女の力が、果たして俺たちにとって"味方"である保証はどこにある?」
「いや……むしろ、敵になったらどうする?」
緊張感が、空気を張り詰める。
まるで——
"目の前の存在が、人間ではない"かのように。
——だが、その中心にいるカルマは。
涼しげな顔で、炎を支えたまま、ただ静かに狩人たちを見つめていた。
その唇には、うっすらと——
「微笑み」が浮かんでいた。
巨魔が消え去ると同時に、辺りは静寂に包まれた。
夜の闇が、遺跡の廃墟に静かに降り立つ。
ほんの数分前まで、暴虐の咆哮と戦いの衝撃が響き渡っていたはずの場所。
しかし今、そこには——
何事もなかったかのような沈黙が広がっていた。
「……ッ。」
炎は、わずかに息を整える。
疲労が体にのしかかるが、意識は決して緩めなかった。
彼の視線は鋭く、警戒を解くことはない。
——まだ、終わったわけじゃない。
カルマは、そんな彼の様子を感じ取りながらも、何も言わずにそっと支える。
彼女の動きは、あくまで自然に。
しかし——
彼女の冷静な表情の裏側では、周囲の狩人たちを注意深く観察していた。
少し離れた場所——
狩人たちの囁きが、夜風に紛れて聞こえてくる。
「……やはり、あの女の力……」
「異質すぎる……」
「あれは本当に人間の魔力なのか?」
視線が、時折カルマへと向けられる。
それは、警戒、猜疑、あるいは……恐れ。
——だが、そんな空気の中。
すでに狩人の何人かは、意識を「本来の目的」へと戻していた。
「黒燈会の連中はどうなった?」
「さっきの儀式……まさか、まだ続いているのか?」
彼らは、再び"敵"の存在へと意識を切り替え始めていた。
カルマは、ゆっくりとまばたきをする。
そして、炎の腕を軽く引いた。
「……今が、いいタイミングね。」
炎も、それに頷く。
「ここを出るぞ。」
彼の声は低く、疲労を滲ませながらも、その意思は揺るがなかった。
カルマは微かに口角を上げると、彼を支えながら歩き出す。
——できるだけ、目立たぬように。
彼女の足取りは、静かで、しかし確実だった。
他の狩人の意識が逸れるその隙を突き、
二人は遺跡の影へと溶け込んでいく。
「……ッ!」
カルマは、僅かに足を止めた。
炎も、それに気づき、視線を前へ向ける。
二人が向かおうとしていた遺跡の出口——
その先に。
「待っていたぞ。」
黒燈会の男が、立ちはだかる。
黒き法衣をまとい、その影のような姿が遺跡の暗闇と溶け合うように佇んでいる。
その目には、冷たく、計算された光。
「……どうやら、ここを通す気はなさそうね。」
カルマは、小さく息をつきながら呟く。
炎は、わずかに眉を寄せると、
静かに、しかし確実にその男を見据えた。
「君たち……随分と手際がいいな……」
闇に包まれた遺跡の廊下。
黒燈会の男は、冷笑を浮かべながらゆっくりと歩み出る。
「だが——ここは、好きに出入りできる場所じゃないんだよ。」
カルマは、そんな男を一瞥すると——
口元に、僅かに微笑を浮かべる。
「……ただの残党が、随分と偉そうね。」
その瞳には、冷ややかな光が宿る。
「こっちは、悠長に付き合ってる暇はないのよ。」
黒燈会の男は、その言葉にカッと目を見開く。
「ククッ……ハハハ……!」
狂気じみた笑い声が、廊下に響く。
「舐めるなよ……!」
彼は、一瞬で短剣を振り上げる。
符紋が光を放ち、血のような赤い軌跡を描きながら猛然と二人に襲いかかる!
しかし——
——その瞬間。
バンッ!!
銃声が、響いた。
「……ッ!?」
男の動きが、一瞬で止まる。
全身が、小刻みに震え始めた。
彼の肩には——
青白い符紋の光を放つ弾痕。
「……これで、いいだろ。」
炎は、静かに銃を下ろす。
その手には、符紋銃。
放たれたのは——
「麻痺符紋弾」
相手の行動を封じる、一撃。
男の体は、その場に硬直する。
カルマは、その光景を眺めながら、微かに口角を上げた。
「……やっぱり、あなたって容赦ないのね。」
彼女は、そっと炎の肩を叩く。
「……ますます、気に入ったわ。」
その言葉に、炎はわずかに眉を寄せるが——
何も言わずに、ただ静かに息を整える。
二人は、そのまま遺跡の奥へと消えていった。
闇の中へ。
——次なる目的地を目指して。
遺跡を抜け出し、森の中へと足を踏み入れる。
炎とカルマの足取りは、次第に緩やかになっていった。
彼らを包むのは、静寂と、夜の冷たい空気。
夜空に広がる満天の星が、戦いの余韻を遠ざけるかのように瞬いていた。
あの狂気に満ちた戦場から離れ、ようやく、二人は一息つくことができた。
カルマがふと足を止め、炎の横顔を覗き込む。
「……大丈夫?」
その声には、わずかながらも、珍しく柔らかい響きがあった。
「さっきの反動、結構キツそうだったけど。」
炎は、息を整えながら、ゆっくりと顔を上げる。
「……思ったより、マシだ。」
彼の視線は、夜空へと向けられていた。
どこか遠くを見つめるように。
「ただ……あの時見えた記憶の断片が、どうにも気になる。」
カルマが、片眉をわずかに上げる。
「記憶?符紋が起動した時の?」
「……いや、それだけじゃない。」
炎は、目を細めながら、ゆっくりと呟く。
「……"悲しみ"、みたいなものを感じた。」
「それに……"呼ばれている"ような感覚。」
カルマの瞳が、一瞬揺れる。
「呼ばれている?」
炎は、僅かに肩をすくめながら続ける。
「まるで……俺自身が、"あの戦場"にいたかのような感覚だった。」
「でも、それは"俺の記憶"じゃない。」
カルマは、黙って彼の言葉を聞いていた。
彼女の表情に、ふとした思案の色が浮かぶ。
「……それって、つまり?」
炎は、短く息を吐き出すと——
ふと、脳裏に浮かぶ名前を口にする。
「……エリヴィア。」
彼の声は、驚くほど静かだった。
それは、確信ではない。
ただ、あまりにも自然に、その名前が浮かんだ。
「……あの記憶は、彼女のものかもしれない。」
「もしくは、彼女の"力"が俺に影響を及ぼしているのか……」
カルマは、その言葉に対し、すぐには答えなかった。
代わりに、じっと炎を見つめる。
その視線には、冷静さと、わずかな警戒が入り混じっていた。
やがて、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もし、それが本当なら——」
「あなたは、あなたでいられるのかしら?」
炎は、その言葉に一瞬だけ目を見開いた。
「……?」
「その力が、本当にエリヴィアのものだったとして——」
「あなた自身の意志は、どこにあるの?」
カルマの声は、どこか静かだった。
「もし、その力に飲み込まれたら……あなたは"炎"のままでいられる?」
炎の瞳に、一瞬、迷いの色が浮かぶ。
だが、すぐに彼は目を伏せ、夜の闇の中へと視線を落とした。
「……わからない。」
低く、息を漏らすように答える。
「ただ……確かなのは——」
「この力は、俺を変え続けている。」
その声には、静かな確信があった。
「俺がハンターになった理由も、本当に"狩るため"だったのか、今はもうわからない。」
「もしかすると——"この力"が、俺を動かしているだけなのかもしれない。」
二人の間に、沈黙が落ちる。
夜空の星は、何も語らずに瞬いていた。
カルマは、その横顔をじっと見つめながら、心の中で静かに考える。
彼女は、これまで何度も「強さ」を求める者を見てきた。
だが——
"自分が何者かすらわからないまま"、力に導かれている者など、そうそういるものではない。
そして、彼の未来は。
——どこへ向かうのか、誰にもわからない。
「……。」
カルマは、小さく息を吐くと——
ごく自然な仕草で、炎の肩を軽く叩いた。
「考えすぎても、答えなんて出ないわよ。」
彼女は、いつもと変わらぬ調子で微笑む。
だが、その笑みの奥には。
彼女自身にも説明のつかない、微かな不安が隠されていた。
「ま、少なくとも——」
「あなたが"自分を失う前"に、私は止めるから安心しなさい。」
彼女の声は軽やかだった。
しかし、その言葉の裏には——
"もし、本当にそうなったら"、という。
彼女自身にも割り切れぬ想いが、確かに存在していた。