表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/166

封印と解放の序曲(8)

 エンはなおも符紋を押さえ続けていた。


 全身が震えていた。

 まるで、この古の力と拮抗するかのように——


 彼の意識を侵食し、飲み込もうとするその力に抗いながら、

 エンは、歯を食いしばる。


 絶対に、手を離さない。


  ドクンッ!ドクンッ……!


 心臓の鼓動が、荒々しく響く。

 燃え上がるような痛みが、骨の髄まで染み渡る。

 だが、それでも——


「……まだだ……!」


 彼の瞳に宿る光は、消えていなかった。


 ——その間も。

 巨魔は、確実に近づいていた。


 ドォン……ドォン……!!


 足を踏みしめるたび、大地が軋み、崩壊する。

 それは、確実なる「死」の接近。


 カルマの炎が、より激しく燃え上がる。

 彼女は一歩も引かず、眼前の脅威を睨みつけた。


 そして——


「グオオオオオ!!」


 巨魔の爪が振り下ろされる瞬間——

 カルマは、迷わず動いた。


「——焼き尽くす!」


 彼女の掌から、灼熱の焔が爆発的に弾け飛ぶ!


 ゴオォォッ!!


 膨れ上がる炎の奔流が、巨魔の視界を包み込む。

 紅蓮の熱風が、暴力的な熱量を生み出し、巨魔の顔面を焼く。


  「ガァァァアアアッ!!!」


 巨魔が、苦痛に吼えた。

 その巨体が一瞬よろめく。


 カルマは、すかさず炎を増幅させようとする——

 だが。


「エン!あとどれくらいかかるの!?」


 焦り混じりの叫びが、戦場に響く。


 彼女の視線の先——

 エンは、なおも符紋に手を押し当てたままだった。

 彼の額には冷たい汗が滲み、唇からは血が流れ続けていた。


 ——それでも、手を離すつもりはない。


「……もう少し……!」


  ズズズ……ッ!!


 符紋の輝きが、さらに増す。

 地面を駆け巡る赤い光が、脈動するかのように大地を染め上げる。


 そして——


  ドクン……!


 その力が、巨魔に届いた。


「……?」


 巨魔の咆哮が、変わる。


  「……グ……ォ……」


 その巨体が、わずかに揺れる。

 カルマは、一瞬、目を疑った。


「……何?」


 先ほどまで狂乱していた巨魔の動きが、鈍くなっている。


 その血のように赤い瞳が——

 確かに、変わり始めていた。


 怒りに満ちた狂気ではなく、

 その奥に、別の何かが見え隠れするような——


  「……まさか……」


 エンは、感じ取った。


 符紋の力が、巨魔に作用している。

 だが、それは——


「……封印じゃない。」


 彼は、低く呟く。


 これは、封印の力ではない。


「これは……解放だ……。」


 符紋の紅光が、大地を巡る血のように脈動する。

 まるで、巨魔の中に眠る何かを、優しく撫でるように——


  「グ……ォ……」


 低く、掠れた唸り声。

 それは、先ほどの憤怒とは明らかに異なる。


 ——エンは、確信した。


「こいつは……元に戻ろうとしている……!」


 まるで、縛られていた鎖が解かれるように。

 怒りの奥にあった、もっと深いものが、ゆっくりと現れ始めていた——。


 その瞬間——

 エンの脳裏に、途切れ途切れの映像が流れ込んできた。


 断片的な記憶が、波のように押し寄せる。


 ——戦火に包まれた時代。

 焰と共に、戦場に立つ一人の女性。


 銀の髪、紅い瞳。

 燃え盛る戦場の中、その眼差しは堅き信念と深き慈愛を湛えていた。


「エリヴィア……?」


 名を呼ぼうとした刹那、彼女の姿が揺らぐ。

 まるで、時の砂が流れ落ちるように——


 彼女の面影は、霧散していく。


 ——そして。


 エンは、悟った。


 この巨魔の正体を——。


  ドクン……!


 胸の奥が、軋む。

 喉の奥から、言葉が漏れた。


「……お前……」


「お前は、かつての仲間だったのか……」


 かつて——

 エリヴィアと共に戦った戦士。


 ある信念を貫くために戦い続け、

 その果てに封印され、

 時と共に、忘れ去られた存在——。


 長き時を経て、怒りと嘆きに囚われ、

 ついに黒燈会の手で強制的に解放された。

 しかし、それは「救い」ではなかった。


「理性を失い、狂気に囚われた『魔』と化すだけの、呪いの解放だった。」


 そして今——

 エンは、符紋を通じて感じていた。


 この力は、「封印」ではない。

 これは——


  「……解放するための力だ。」


 不完全なまま暴かれた封印。

 エンは、それを"本来あるべき形"へと導こうとしていた。


 ——本当に、救いを与えるために。


 カルマは、傍らで彼を見つめていた。


 彼の瞳に映る光。

 いつも見慣れている翠緑の色ではない。


 そこには——

 紅く、穏やかで、どこか慈しみに満ちた輝きがあった。


 まるで——

 神が、すべてを包み込むような眼差し。


 カルマは、思わず息を呑んだ。

「……エン、今……何を見ているの?」

 彼の姿が、いつもとは違って見えた。


 エンは、静かに答える。


「この巨魔は……エリヴィアの戦友だった。」


「かつて、信念のために戦い——」


「……しかし、封印されてしまった。」


「俺が今やろうとしているのは——」


「封印じゃない。」


「——解放だ。」


 ドクン……!!


 符紋が、眩いばかりの光を放つ。

 巨魔の紅い瞳が、その光を映し込む。


 そして——


 戦士としての、彼の「本当の姿」が蘇ろうとしていた。

 カルマの表情がわずかに驚きに変わる。


 彼女は、次第に落ち着いていく巨魔を見つめながら、心の中でその変化に気づく。


 この力は、単なる解放ではなかった——

 それは、**「救い」**だった。


 符紋の赤い光が、魔物の体に優しく覆いかぶさり、長年の怨念を洗い流していく。

 その光は、まるで浄化のように、邪悪な感情を拭い去り、穏やかな平和へと導くかのように。


 カルマの目に映るその光景は、言葉では表せないほどの感動を呼び起こす。


「去って、」


 エンの声が、静かに響く。

 彼は、巨魔がだんだんと回復していく目を見つめながら、囁いた。


「安息を取り戻すんだ。」


 巨魔は、その目に何かを見たように、ゆっくりとエンを見つめ返した。

 その瞳には、苦しみが消え去り、代わりに感謝の色が宿っていた。


 そして——

 符紋の力が、彼を完全に解放する。


 彼の体が、次第に透明になり——


  フワッ……


 その身形が、薄い煙となって空中へ消えていく。

 まるで魂が解放され、自由を得たかのように——


 最後には、ほんの一筋の微光だけが残り、それもまた消えていった。


 カルマは、ただその光景を見守る。


 その静けさの中——

 エンは、ただじっと目を閉じていた。


 だが——

 突然、耳の中に二つの声が響き渡る。


 一つは、低く柔らかな声。


 そして、もう一つは——

 もっと低く、粗い、けれども同じ感謝を込めた声。


「……ありがとう……」


 その言葉は、確かに彼の耳に届いた——

 それは、彼がかつて共に戦った仲間からの、最後の言葉だった。


 二つの声は、同時に消えていった。

 何も言わなくても、エンはそれを理解していた。

 その「解放」が、どれほど深い意味を持つのかを——


 巨魔が消えた後の静寂は、まるで時間が止まったかのようだった。

 その場に残されたのは、ただの静けさと、彼の胸の中で感じる重い感情だけ。


「……もう、いいんだ。」

 エンは、ゆっくりと目を開ける。


 そして、心の中で静かに、もう一度だけ呟いた——

「安息を。」


 符紋の光が、ゆっくりと消えていく。


 それと同時に——

 エンの瞳に宿っていた紅い輝きも、次第に色を失い、いつもの翠緑へと戻っていった。


  ドクン……


 そして——

 その瞬間。

 全身を貫く鋭い痛みが襲いかかる。


「ッ……!」


 まるで、刃が内側から突き刺さるような痛み。

 それは、以前のように強烈ではなかったが、十分に彼の体を揺るがすには足りるものだった。


 足元が、ぐらりと揺れる。

 視界が、僅かに歪む。


 ——崩れる。


 だが——

 その瞬間、横から伸びた温かい手が、彼の腕を支えた。


「エン!」


 カルマだった。


 彼の身体をしっかりと支え、鋭い目つきで彼の顔色を確認する。


「大丈夫?」

 彼女の声は低く、それでも確かな心配が滲んでいた。


 エンは、奥歯を噛みしめる。

 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら、

 何とか自分の足で立とうとした。


「……平気だ。」


 胸に手を当てる。

 そこには、まだ鋭い痛みの残滓があった。

 だが——


 徐々に、それは薄れていく。


「……少し疲れただけだ。」

 そう言って、彼はわずかに笑みを浮かべた。


 カルマは、じっと彼の顔を見つめる。

 その表情に浮かぶ僅かな違和感——

 それが、彼の「無理をしている」ことを、彼女に教えていた。


「……本当に、それだけ?」

 しかし、彼女はそれ以上は問わなかった。


 ——その時、ふと気づく。


 エンの体にあったはずの傷が——

  跡形もなく、消えている。


 戦闘中に負った切り傷、打撲、すべて。


「……?」

 カルマの目が、一瞬細められる。


 明らかに異常な回復力。

 魔力を使った治癒の痕跡もない。

 エン自身が気づいているのか、それとも——


「……」


 彼女は、一瞬だけ言葉を飲み込む。

 そして、その違和感を胸の奥に仕舞った。


 今は、それを追及する時ではない。


「……とにかく、ここを出るわよ。」

 カルマは、エンの腕をしっかりと支えながら、ゆっくりと歩き出した。


「……ああ。」

 エンも、その歩みに合わせる。


 ——今、この場を去ることが先決だ。


 だが、カルマは知っていた。


 この戦いが、エンに残したものは、単なる身体の傷ではない。


 それは——

 彼の胸の奥に生まれた、新たな「疑問」。


 そして、それが答えを求めるまで、彼の心は決して休まることはないだろう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ