封印と解放の序曲(8)
炎はなおも符紋を押さえ続けていた。
全身が震えていた。
まるで、この古の力と拮抗するかのように——
彼の意識を侵食し、飲み込もうとするその力に抗いながら、
炎は、歯を食いしばる。
絶対に、手を離さない。
ドクンッ!ドクンッ……!
心臓の鼓動が、荒々しく響く。
燃え上がるような痛みが、骨の髄まで染み渡る。
だが、それでも——
「……まだだ……!」
彼の瞳に宿る光は、消えていなかった。
——その間も。
巨魔は、確実に近づいていた。
ドォン……ドォン……!!
足を踏みしめるたび、大地が軋み、崩壊する。
それは、確実なる「死」の接近。
カルマの炎が、より激しく燃え上がる。
彼女は一歩も引かず、眼前の脅威を睨みつけた。
そして——
「グオオオオオ!!」
巨魔の爪が振り下ろされる瞬間——
カルマは、迷わず動いた。
「——焼き尽くす!」
彼女の掌から、灼熱の焔が爆発的に弾け飛ぶ!
ゴオォォッ!!
膨れ上がる炎の奔流が、巨魔の視界を包み込む。
紅蓮の熱風が、暴力的な熱量を生み出し、巨魔の顔面を焼く。
「ガァァァアアアッ!!!」
巨魔が、苦痛に吼えた。
その巨体が一瞬よろめく。
カルマは、すかさず炎を増幅させようとする——
だが。
「エン!あとどれくらいかかるの!?」
焦り混じりの叫びが、戦場に響く。
彼女の視線の先——
炎は、なおも符紋に手を押し当てたままだった。
彼の額には冷たい汗が滲み、唇からは血が流れ続けていた。
——それでも、手を離すつもりはない。
「……もう少し……!」
ズズズ……ッ!!
符紋の輝きが、さらに増す。
地面を駆け巡る赤い光が、脈動するかのように大地を染め上げる。
そして——
ドクン……!
その力が、巨魔に届いた。
「……?」
巨魔の咆哮が、変わる。
「……グ……ォ……」
その巨体が、わずかに揺れる。
カルマは、一瞬、目を疑った。
「……何?」
先ほどまで狂乱していた巨魔の動きが、鈍くなっている。
その血のように赤い瞳が——
確かに、変わり始めていた。
怒りに満ちた狂気ではなく、
その奥に、別の何かが見え隠れするような——
「……まさか……」
炎は、感じ取った。
符紋の力が、巨魔に作用している。
だが、それは——
「……封印じゃない。」
彼は、低く呟く。
これは、封印の力ではない。
「これは……解放だ……。」
符紋の紅光が、大地を巡る血のように脈動する。
まるで、巨魔の中に眠る何かを、優しく撫でるように——
「グ……ォ……」
低く、掠れた唸り声。
それは、先ほどの憤怒とは明らかに異なる。
——炎は、確信した。
「こいつは……元に戻ろうとしている……!」
まるで、縛られていた鎖が解かれるように。
怒りの奥にあった、もっと深いものが、ゆっくりと現れ始めていた——。
その瞬間——
炎の脳裏に、途切れ途切れの映像が流れ込んできた。
断片的な記憶が、波のように押し寄せる。
——戦火に包まれた時代。
焰と共に、戦場に立つ一人の女性。
銀の髪、紅い瞳。
燃え盛る戦場の中、その眼差しは堅き信念と深き慈愛を湛えていた。
「エリヴィア……?」
名を呼ぼうとした刹那、彼女の姿が揺らぐ。
まるで、時の砂が流れ落ちるように——
彼女の面影は、霧散していく。
——そして。
炎は、悟った。
この巨魔の正体を——。
ドクン……!
胸の奥が、軋む。
喉の奥から、言葉が漏れた。
「……お前……」
「お前は、かつての仲間だったのか……」
かつて——
エリヴィアと共に戦った戦士。
ある信念を貫くために戦い続け、
その果てに封印され、
時と共に、忘れ去られた存在——。
長き時を経て、怒りと嘆きに囚われ、
ついに黒燈会の手で強制的に解放された。
しかし、それは「救い」ではなかった。
「理性を失い、狂気に囚われた『魔』と化すだけの、呪いの解放だった。」
そして今——
炎は、符紋を通じて感じていた。
この力は、「封印」ではない。
これは——
「……解放するための力だ。」
不完全なまま暴かれた封印。
炎は、それを"本来あるべき形"へと導こうとしていた。
——本当に、救いを与えるために。
カルマは、傍らで彼を見つめていた。
彼の瞳に映る光。
いつも見慣れている翠緑の色ではない。
そこには——
紅く、穏やかで、どこか慈しみに満ちた輝きがあった。
まるで——
神が、すべてを包み込むような眼差し。
カルマは、思わず息を呑んだ。
「……エン、今……何を見ているの?」
彼の姿が、いつもとは違って見えた。
炎は、静かに答える。
「この巨魔は……エリヴィアの戦友だった。」
「かつて、信念のために戦い——」
「……しかし、封印されてしまった。」
「俺が今やろうとしているのは——」
「封印じゃない。」
「——解放だ。」
ドクン……!!
符紋が、眩いばかりの光を放つ。
巨魔の紅い瞳が、その光を映し込む。
そして——
戦士としての、彼の「本当の姿」が蘇ろうとしていた。
カルマの表情がわずかに驚きに変わる。
彼女は、次第に落ち着いていく巨魔を見つめながら、心の中でその変化に気づく。
この力は、単なる解放ではなかった——
それは、**「救い」**だった。
符紋の赤い光が、魔物の体に優しく覆いかぶさり、長年の怨念を洗い流していく。
その光は、まるで浄化のように、邪悪な感情を拭い去り、穏やかな平和へと導くかのように。
カルマの目に映るその光景は、言葉では表せないほどの感動を呼び起こす。
「去って、」
炎の声が、静かに響く。
彼は、巨魔がだんだんと回復していく目を見つめながら、囁いた。
「安息を取り戻すんだ。」
巨魔は、その目に何かを見たように、ゆっくりと炎を見つめ返した。
その瞳には、苦しみが消え去り、代わりに感謝の色が宿っていた。
そして——
符紋の力が、彼を完全に解放する。
彼の体が、次第に透明になり——
フワッ……
その身形が、薄い煙となって空中へ消えていく。
まるで魂が解放され、自由を得たかのように——
最後には、ほんの一筋の微光だけが残り、それもまた消えていった。
カルマは、ただその光景を見守る。
その静けさの中——
炎は、ただじっと目を閉じていた。
だが——
突然、耳の中に二つの声が響き渡る。
一つは、低く柔らかな声。
そして、もう一つは——
もっと低く、粗い、けれども同じ感謝を込めた声。
「……ありがとう……」
その言葉は、確かに彼の耳に届いた——
それは、彼がかつて共に戦った仲間からの、最後の言葉だった。
二つの声は、同時に消えていった。
何も言わなくても、炎はそれを理解していた。
その「解放」が、どれほど深い意味を持つのかを——
巨魔が消えた後の静寂は、まるで時間が止まったかのようだった。
その場に残されたのは、ただの静けさと、彼の胸の中で感じる重い感情だけ。
「……もう、いいんだ。」
炎は、ゆっくりと目を開ける。
そして、心の中で静かに、もう一度だけ呟いた——
「安息を。」
符紋の光が、ゆっくりと消えていく。
それと同時に——
炎の瞳に宿っていた紅い輝きも、次第に色を失い、いつもの翠緑へと戻っていった。
ドクン……
そして——
その瞬間。
全身を貫く鋭い痛みが襲いかかる。
「ッ……!」
まるで、刃が内側から突き刺さるような痛み。
それは、以前のように強烈ではなかったが、十分に彼の体を揺るがすには足りるものだった。
足元が、ぐらりと揺れる。
視界が、僅かに歪む。
——崩れる。
だが——
その瞬間、横から伸びた温かい手が、彼の腕を支えた。
「エン!」
カルマだった。
彼の身体をしっかりと支え、鋭い目つきで彼の顔色を確認する。
「大丈夫?」
彼女の声は低く、それでも確かな心配が滲んでいた。
炎は、奥歯を噛みしめる。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら、
何とか自分の足で立とうとした。
「……平気だ。」
胸に手を当てる。
そこには、まだ鋭い痛みの残滓があった。
だが——
徐々に、それは薄れていく。
「……少し疲れただけだ。」
そう言って、彼はわずかに笑みを浮かべた。
カルマは、じっと彼の顔を見つめる。
その表情に浮かぶ僅かな違和感——
それが、彼の「無理をしている」ことを、彼女に教えていた。
「……本当に、それだけ?」
しかし、彼女はそれ以上は問わなかった。
——その時、ふと気づく。
炎の体にあったはずの傷が——
跡形もなく、消えている。
戦闘中に負った切り傷、打撲、すべて。
「……?」
カルマの目が、一瞬細められる。
明らかに異常な回復力。
魔力を使った治癒の痕跡もない。
炎自身が気づいているのか、それとも——
「……」
彼女は、一瞬だけ言葉を飲み込む。
そして、その違和感を胸の奥に仕舞った。
今は、それを追及する時ではない。
「……とにかく、ここを出るわよ。」
カルマは、炎の腕をしっかりと支えながら、ゆっくりと歩き出した。
「……ああ。」
炎も、その歩みに合わせる。
——今、この場を去ることが先決だ。
だが、カルマは知っていた。
この戦いが、炎に残したものは、単なる身体の傷ではない。
それは——
彼の胸の奥に生まれた、新たな「疑問」。
そして、それが答えを求めるまで、彼の心は決して休まることはないだろう。