まだ終わりじゃない (下)
「リアのことだけど……」
アイデンがふと思い出したように呟き、炎に視線を向けた。その声には、どこか沈んだ響きがあった。
「数日前に、彼女と少し話したんだ……」
──アイデンの意識は数日前へと戻る。
◆
そのとき彼とリアは、ひとつの小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。テーブルの上にはまだ湯気の立つ紅茶が置かれ、漂う香りだけが静寂の中に微かな温もりを残していた。
空気は張り詰め、まるで沈黙が何かの真実を待っているかのようだった。
アイデンは眉をひそめ、両手を組んでテーブルの上に置き、真正面からリアを見据える。
「今なら……もっと話してくれるか? 君とエリヴィアの関係、そして――なぜ夜行者に力を貸したのか。」
リアの表情は穏やかだったが、どこか疲れた影が差していた。指先でゆっくりとカップの縁をなぞりながら、しばし黙考する。そして、静かに息を吸い、かすかな憤りを帯びた声で語り始めた。
「エリヴィアは……私にとって、ただの神ではなかった。彼女は私の“姉”だった。人生で最も大切な存在のひとり。」
「姉……?」アイデンは眉を軽く上げ、驚きを隠せずに聞き入った。「でも君たちは……」
「そう。私たちは純粋な神でも、純粋な魔でもない。――混血なんだ。神と魔の間に生まれた存在。三界の狭間を彷徨う、居場所のない種族。」
リアは淡々と語り始めたが、次第に瞳に深い記憶の色がにじみ、その声に抑えた感情が滲み出した。
「幼いころ、エリヴィアは私たちの守護者だった。皆が彼女を敬い、私は……姉として慕っていた。三界の共存は可能だと、彼女はそう信じていた。私たちの存在がその証明だと。」
「けれど、その理想は……私たちを滅ぼす火種になった。神界の内乱が起き、エリヴィアは神々に背を向けた。そして……私たちも“裏切り者”として追われるようになった。怪物、異端……その末路は、死と追放だけだった。」
アイデンは無言で耳を傾け、その顔には徐々に深い皺が刻まれていった。
リアの声が低くなり、怒りの感情が滲み出す。
「そして地上で彼女を見つけたとき、私は……愕然とした。目の前にいたのは、あの理想に燃えていた姉ではない。責任から逃げ、ただの“人間”として生きようとしていた、臆病者だった。」
彼女は皮肉げに笑う。
「そのとき、夜行者と出会った。彼は言った――『エリヴィアはすべてを捨てた』と。最初は信じられなかった。でも、人間界の混乱、魔界の欲深さ、神界の偽善……すべてが、彼の言葉を裏付けていた。」
アイデンは静かに机を指で叩き、低い声で訊ねる。
「それで……“闇紋会”に加担し、“神殺しの刃”を作り出したと?」
リアは頷いた。その声は冷たくも、どこか自嘲的だった。
「彼女を……憎んでいた。裏切られたと感じた。理想に殉じることなく、結局は逃げたその背中が、許せなかった。でも同時に……私はずっと知りたかった。なぜ彼女は、逃げるという選択をしたのか。」
アイデンは背もたれに寄りかかり、大きく息をついて言った。
「リア……君が憎んだ“エリヴィア”は、もういないのかもしれない。動機がどうであれ、夜行者に与したことで、俺たちはほとんど壊滅寸前だった。」
リアは目を伏せ、紅茶に視線を落とす。カップを握る手が震え、表面が微かに波立った。
「分かってる。私がしたことは取り返しのつかないこと……でも、これが、私にできる唯一の“復讐”だった。」
「なら、今はどうするつもりだ?」アイデンの声が鋭さを増す。「このまま歩みを止める気か? それとも……何か償うつもりか?」
リアは顔を上げ、しばし視線を交わしたあと、静かに言った。
「今はまだ分からない。でも……一歩ずつ進むしかないんだ。」
アイデンは目を細め、静かに頷いた。その瞳には複雑な思いが宿っていた。彼女の言葉には、まだ語られていない真実が潜んでいる――それは明白だった。だが今は、エリヴィアの選択が残した影と向き合うように、彼女の沈黙を受け入れるしかなかった。
◆
カルマはその言葉に少し沈黙し、やがて低く問い返す。
「それで彼女、夜行者と手を組んで、“神殺しの刃”を作ったのは、エリヴィアへの復讐のためってこと?」
アイデンは頷いた。
「そうだ。ただ……彼女の話を聞いていると、エリヴィアを憎んでいるだけじゃなく、自分自身のことも許せてないように感じた。裏切られたと思ってる。でも……それでも、なぜ彼女がああいう選択をしたのか、心の奥では知りたがってるんだと思う。」
炎の表情が複雑に揺れ、低く呟いた。
「そこまで憎んでても、結局は忘れられない……だから、彼女はまだここに残ってるのかもしれない。」
カルマは皮肉気味に肩をすくめる。
「まったく複雑な関係ね。憎しみの果てに、まだ相手の答えを求めてるなんて……まるで愛と憎しみの極端な交差点。」
アイデンは苦笑して肩をすくめた。
「愛と憎しみは、元々表裏一体なのかもしれないな。リアの葛藤がまさにそれだよ。」
炎はしばらく指先で机をトントンと叩きながら思考を巡らせ、やがて顔を上げた。
「他に何か言ってたか? これからどうするかとか。」
アイデンは首を振って軽く息をつき、落ち着いた声で答えた。
「明確には言ってなかった。ただ、まだ憎しみを捨てきれないけど、今は少し考える時間が必要だって……夜行者の影響を完全に断ち切れるかは、正直わからない。」
カルマが真剣な目で炎を見る。
「……じゃあ、彼女は今、敵ってこと?」
「現時点では、敵とは言えないだろうな。」アイデンは静かに返す。「けど、油断はできない。リアは夜行者ほどの暴走はしないが、内面があまりにも不安定だ。誰かに利用されれば、また同じことになる。」
炎は頷いた。
「……分かった。どんな選択をされてもいいように、こちらも準備しておこう。」
カルマは手を伸ばし、アルの柔らかい毛を撫でながら目を細め、力強く呟いた。
「もうあんな狂気には、二度と関わりたくない。」
アイデンは立ち上がり、長いため息をついた。
「何にせよ、今回生き残れただけでも奇跡だよ。」
そう言って、炎の顔をじっと見つめる。その視線は、彼の赤く染まった瞳に注がれていた。
「……エン、お前の目。やっぱり変わったな。エリヴィアの力……今でも使えるのか?」
炎はわずかに首を振り、視線を机の上の空のティーカップに落とした。
「……もう、感じない。あの日、彼女は俺の中からいなくなった。結界もその時に消えた。」
アイデンは眉を上げ、一瞬黙った後、冗談めかして言った。
「そりゃ、不便だな。」
だがその心中では、別の疑問が渦巻いていた。――力は消えた。だが、なぜ彼の目は赤いままなのか? この現象の意味は? だがそれを今問いただすのはやめておいた。
炎は肩をすくめて淡々と言った。
「力がないなら、最初に戻っただけのこと。何も不便じゃないさ。ただ――また夜行者みたいな奴が出てきたら、その時はまた立ち上がるさ。」
その言葉に、カルマがドンと彼の肩を叩き、鋭く笑った。
「何人来ようが、全部ぶっ飛ばしてやるわよ。」
炎は彼女を見て、ふっと笑った。
「その時は頼りにしてる。」
アイデンは少し眉をひそめ、二人のやり取りを見やった。
「……三界共存ってやつ、エリヴィアの理想だったけどさ。本当にそんなこと、実現できるのかね。」
彼はそう言って、窓の外の夜空を眺める。声は低く、どこか諦めを含んでいた。
「人間同士ですら争いが絶えない。そこに異界の存在が加わったら……収拾がつくと思うか?」
炎はその問いに、静かに目を細めて答えた。
「無理だって決めつける理由にはならないだろ?」
カルマも続く。
「難しいとは思う。でも……エリヴィアはやろうとした。私の父も信じていた。それが失敗だったとしても、試そうとした人がいたなら――私たちも試してみるべきなんじゃない?」
アイデンは少し目を細め、軽く息をついた。
「……そうかもな。ただ、そんな人間はほんの一握りだ。」
炎は窓の外を見つめながら、静かに呟いた。
「一握りでも、いればいい。――もしかしたら、ここにいるのかもしれないな。」
その言葉に、アイデンは目を見開き、そして小さく笑った。
「相変わらず他人に責任押し付けるのは上手いな、エン。」
カルマもにやりと笑い、少しからかうように言った。
「もし三界共存が実現したら、エンは確実に歴史に名前残すわね。」
アイデンは二人を交互に見て、ふとリアの言葉を思い出す。そして真面目な口調で続けた。
「そういえばリアが言ってた。人間と魔族の恋なんて、珍しいことじゃないって。愛があれば、種族の壁なんて超えられるんだってさ。」
カルマは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに炎を見て、目を逸らして平静を装った声で返す。
「……ふーん。よくある話みたいね。」
アイデンは肩をすくめて笑いながらも、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「本当にそんな人たちがいるのなら……共存という未来は、案外遠くないのかもしれない。俺たちは、ここに残って、そういう“挑もうとする者たち”を支えられるかもしれない。あるいは――彼らの子供たちを。」
炎は少しだけ眉を上げてアイデンを見やり、穏やかに言った。
「意外と、使命感あるじゃん。」
アイデンは小さく笑い、真剣な眼差しを二人に返した。
「でも本当に、お前たち二人こそがその“例外”になれる気がする。種族を超える者の、最初の一歩だ。」
カルマは顔を赤らめ、目を逸らしてむっとした声で言い返した。
「変な名前つけないでよね。」
炎は肩をすくめ、静かに笑った。
「それでいいさ。」
アイデンはそんな二人を見て笑いながら、机の上の書類を指で弾いた。
「ま、お前たちの好きにすればいいさ。俺は……後ろから見守ってるよ。いつか、本当に奇跡が起きるかもしれない。」
窓の外には、静かに深まる夜。だが室内はどこかあたたかく、笑い声と共に、再び始まる日常の気配が満ちていた。
アルは寝返りを打ち、しっぽで机をぱたぱたと叩く。まるで――このやり取りに、満足しているかのように。
炎の赤い瞳が夜空を映し、そこにはエリヴィアの理想と向き合う、未来への小さな火種が宿っていた。
-- デビルハンター (全話終)--
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
物語の結末は少し王道で、どこかベタなところもあるかもしれませんが、個人的には「ここで終われて良かったな」と思っています。
長編を書くときに一番怖いのは、やっぱり“未完”だったり、“尻すぼみ”だったりしますからね(笑)
とにかく、無事に最後まで走りきれて、ホッとしています。
この物語『デビルハンター』は、実は自分が20年前に書いた作品が原型なんです。(うわ、年齢バレそう……)
連載するにあたって、色々と手を加えました。
特にスマートフォンの存在とか、街の風景の描写とか、今の時代に合わせて結構変えたところもあります。
そして――この最終章のタイトル「まだ終わりじゃない」。
これに深い意味があるのか?と言われれば……はい、実は続きも少し考えています。
もし機会があれば、またどこかで続きをお見せできれば嬉しいです!
この物語が気に入ってもらえたら、ぜひお友達にもオススメしてもらえると嬉しいです。
改めて、ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました!