封印と解放の序曲(7)
炎とカルマは、目の前で繰り広げられる光景に息を呑んだ。
儀式は、すでに完了していた。
バチッ……バチバチッ……
最後の符紋が、微かな光を放ったかと思うと——
一瞬の沈黙。
次の瞬間、光は完全に消滅した。
「——グオオオオオオオッ!!」
咆哮が、遺跡全体を揺るがした。
魔物が完全に覚醒したのだ。
血のように赤い双眸がゆっくりと動き、辺りを見渡す。
そして——
破壊が始まった。
ズドォォォォン!!
巨体が動くだけで、遺跡の石柱が音を立てて崩壊していく。
分厚い壁は鋭利な爪に引き裂かれ、無数の裂痕を刻みながら、粉々に砕け散った。
飛び散る瓦礫、響き渡る轟音。
この場にあるすべてが、魔物の怒りによって蹂躙されていく。
だが——
その破滅的な光景の中で、炎はふと胸に込み上げるものを感じた。
……悲しみ?
何故、こんな状況で——
目の前にいるのは、圧倒的な破壊をもたらす怪物のはず。
なのに、その姿を見つめるたび、胸の奥が締めつけられるように痛む。
まるで、遥か昔に失われた記憶が、心の奥底から囁いてくるかのように——。
「……これは、一体……?」
炎は無意識のうちに呟いていた。
すると——
カルマが彼の横で、低く囁くように言った。
「……この魔物……何なの?」
彼女の声には、普段の余裕はなかった。
あるのは、言葉にならない驚愕と——
僅かな、畏敬の念。
魔物の力は、確かに圧倒的だった。
だが、それだけではない。
ただの魔物ならば、彼女も何度も相手にしてきた。
それでも、今目の前にいる存在には、何かが違う。
圧倒的な力の裏に、何か……説明のつかない"意志"のようなものを感じる。
そして——
その時、耳障りな笑い声が響いた。
「フフ……ハハハハハッ!!」
祭壇の上。
黒袍の男が、勝ち誇ったように高笑いを上げていた。
その手には、青白く輝く水晶の容器。
不気味な光が脈動するように揺れ、魔物の力と共鳴していた。
「見ろ!ついに、この巨魔は我が手に落ちた!」
男は両手を広げ、陶酔したように叫ぶ。
「この力を手にした黒燈会は、もはや敵なし——」
「世界は我らのものとなる!!」
……だが。
彼の言葉は、最後まで続かなかった。
魔物の視線が、ゆっくりと男を捉える。
猩紅の瞳に、冷徹な光が宿る。
「……?」
男が、一瞬、違和感に気づいた。
だが——
遅かった。
魔物の巨大な腕が、ゆっくりと持ち上がる。
刹那——
ドグシャアアアッ!!
黒袍の男の体が、一瞬で押し潰された。
血飛沫が弾け、骨の砕ける音が響く。
壁一面に鮮血が飛び散り、肉片が崩れ落ちた。
……たった一撃。
男は、断末魔を上げる暇すらなかった。
沈黙。
その場にいた黒燈会の構成員たちは、凍りついたように動けなくなった。
先ほどまで勝ち誇っていた彼らの表情は、恐怖に歪んでいた。
「バ……バカな……」
「な、何故……」
誰かが、震える声で呟く。
——そして、ようやく気づく。
魔物は、誰の命令にも従っていない。
それはただ——
己の意志のままに、存在しているのだ。
巨魔の瞳が、ゆっくりと周囲を見渡す。
次の瞬間——
その視線が、炎とカルマへと向けられた。
炎とカルマは、同時に目を見開いた。
「……ッ!!」
圧倒的な怒りと憤怒を纏い、魔物は咆哮する。
それは、もはや誰にも支配されぬ存在——
己の意思のままに、破壊を振りまく災厄だった。
ドォンッ!!
魔物の一撃が、祭壇を覆う巨大な柱を粉砕する。
崩れ落ちる瓦礫、舞い上がる塵埃。
黒燈会の構成員たちは、次々と吹き飛ばされ、断末魔の叫びが遺跡全体に響き渡る。
「ぎゃああああ!!」
「ひっ……うわああっ!!」
ズシャアッ!!
魔物の鋭い爪が、逃げ惑う信徒を一瞬で引き裂く。
ドガァンッ!!
その一撃で、祭壇周囲の壁は砕け、崩落していく。
カルマは眉をひそめ、素早く状況を分析した。
「……厄介ね。」
「この魔物、完全に制御を振り切ったわね。」
彼女は周囲を見渡しながら、冷静に結論を下す。
「このままでは、私たちまで巻き込まれる。」
「早くここを——」
しかし——
隣にいる炎は、微動だにしなかった。
カルマが思わず彼を振り返ると——
彼の視線は、ただ魔物に釘付けになっていた。
「……エン?」
彼の目に宿るのは、恐怖でも警戒でもない。
それは——
言葉にできない、深い悲しみ。
炎は、胸の奥で感じるこの感情の正体を探ろうとする。
これは、自分のものなのか?
それとも——
どこか遠い記憶の残響なのか?
「……この魔物……何なんだ?」
彼の心の中で、答えのない問いが響く。
カルマは彼の異変に気づき、声をかけようとした——
その時。
炎が、低く呟いた。
「……俺、感じる。」
カルマが息を呑む。
「何を?」
「この符紋……まるで、俺を呼んでるみたいだ……。」
カルマが戸惑いの表情を浮かべた、その刹那——
彼女の目に映る炎の瞳が、一瞬、異なる色を帯びた。
「……あなたの目……」
普段の深い緑の瞳の奥——
一瞬、微かに紅い光が揺らめいた。
「……ッ!」
カルマが何かを言いかけた瞬間——
炎は、まるで何かに導かれるかのように、遺跡の中心へと走り出した。
「エン!?」
彼は迷いなく、ある一点へと向かう。
それは——
地面に刻まれた、古き符紋。
炎は膝をつき、そっと手を伸ばした。
まるで、それが「どう動かすべきものなのか」
本能的に理解しているかのように——
指先が符紋に触れた、その瞬間。
——ゴォォォォォッ!!
符紋が、脈動を始める。
微細な震えと共に、暗紅色の光が地面を這うように広がる。
まるで、眠っていた血脈が目覚めるように——
一筋の紅光が、遺跡全体を駆け巡る。
そして、それらは繋がり——
——ひとつの陣を形成した。
カルマは息をのむ。
遺跡そのものが、生き物のように動き始めたのだ。
符紋が、刻一刻と書き換えられていく。
赤き光が脈動し、まるで鮮血のように大地を流れ始めた。
それはまるで、遺跡そのものが再び命を宿し、生きようとしているかのようだった。
炎は、歯を食いしばりながら符紋を押さえ続けた。
その瞬間——
ドクンッ!
全身に、耐え難いほどの魔力が逆流する。
まるで、荒れ狂う濁流に飲み込まれるかのような圧迫感。
血液が煮えたぎるように熱くなり、身体の奥から焼き尽くされるような感覚。
「……ッ!!」
ゴボッ——
喉の奥から、鉄の味が広がる。
気づけば、唇の端から血が滲んでいた。
呼吸が乱れ、額には冷たい汗が浮かぶ。
だが——
それでも炎は、手を離さなかった。
「……エン……!」
隣で見つめるカルマの瞳が、僅かに揺れる。
彼女は手を伸ばそうとした。
だが——
——もし、ここで魔力を注げば?
何が起こるか、誰にも分からない。
「……っ。」
一瞬の迷い。
それでも、彼女は拳を握りしめた。
「エン……!」
低く呼びかける。
彼女の声には、滅多に見せることのない焦燥と無力感が滲んでいた。
その時——
グオォォォォ……!!
響き渡る、低く唸るような咆哮。
巨魔の瞳が、符紋の光を映し込む。
次の瞬間——
その紅い視線が、炎とカルマの元へと向けられた。
ドォン……ドォン……!!
大地が揺れる。
圧倒的な質量を持つ巨体が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
一歩、また一歩——
そのたびに、遺跡の床が砕け、空間そのものが歪むような錯覚さえ覚えた。
——圧倒的な威圧感。
それは、死がすぐそこにまで迫っていることを示していた。
カルマは、静かに息を整える。
次の瞬間——
彼女は、炎の前に立った。
「……来るなら、来なさい。」
両手を広げ、指先に焔を灯す。
ボウッ……!
燃え盛る炎が、周囲の闇を赤く照らす。
今、この場でできることは、一つだけ。
——炎が、儀式を終えるまで、時間を稼ぐこと。
カルマは歯を食いしばり、巨魔を睨み据えた。
「……死ぬなら、せめて派手にやらせてもらうわよ。」
彼女の心臓が、高鳴る。
——次の瞬間、巨魔が襲いかかる。