水上の黄金帯(8)
一行は小道を辿り、塩田遺跡へとたどり着いた。
ここは開けた地形で、四方を広大なマングローブ林に囲まれている。
湿地帯は陽光を反射し、静かで美しい光のヴェールを纏っていた。
マングローブの細長い根は、まるで蜘蛛の巣のように絡み合い、柔らかな泥土の上に深く根を張っている。
遠くの水面では数羽の水鳥が低く飛び、一羽のクロツラヘラサギ――黒い顔の珍しい鳥がマングローブの間に止まり、こちらの様子を警戒するように見つめていた。
クレイドはしゃがみ込み、泥水で汚れた金属片を拾い上げる。
軽く裏返して確認しながら、少し落胆したような声を漏らした。
「ただのゴミくずっぽいな。昔は小さな加工場か何かがあったんだろうけど、今じゃもう何も残ってねぇな。」
セナはマングローブの縁へと歩き、そっと粗い樹皮に触れる。
まるで何かを感じ取ろうとしているようだった。
「生態系はそれなりに保たれてるけど……魔力の残滓はまったく無い。」
コールはやや高い場所に立ち、塩田全体を見渡していた。
眉間に皺を寄せながら呟く。
「たしかに……ただの遺跡にしか見えねぇな。場所、間違えたんじゃねぇのか?」
炎は木製の柱に寄りかかり、マングローブの奥を鋭く見つめながら思案する。
指先で木の表面をなぞりながら、何かを思案しているようだった。
やがて、ぽつりと一言。
「……ここが本命じゃないのかもな。」
クレイドは立ち上がり、手の泥を払って苦笑する。
「ってことは、また無駄足ってわけか。他に何かありそうな場所は?」
炎は答えず、代わりに足元にいるアルに目をやった。
魔獣は耳をぴくりと動かしながら、何度も湿地の奥の方へ視線を送っている。
まるで、そこに何かを感じ取っているかのように。
その様子を見たクレイドが、ふと思い出したように言う。
「そういや、さっき村の人が言ってなかったか? ここは夕暮れ時に『妙な風景』が浮かぶって。」
セナもマングローブの木に寄りかかりながら頷いた。
「『水上の黄金帯』とか言ってたわね。日没の時間に何かが見える、とか。……もしかしたら、今はまだ見えてないだけかも。」
遠くに立つコールも、視線を巡らせながら呟いた。
「この静かな土地に“何か”があるとしたら……それは、夕方にしか現れない異変かもしれねぇな。」
彼は少しの間を置き、炎に視線を向ける。
「どうする? 日が落ちるまで待ってみるか?」
炎はしばし黙し、マングローブの奥を見つめたまま小さく頷いた。
「せっかく来たんだ。……見ていこう。」
クレイドはその返答を聞くと、片眉を上げて笑った。
「決まりだな。ちょっと軽食でも買ってくるか、暇潰しにさ。」
セナは呆れたようにため息をつき、冷たく言い放つ。
「……もうちょっと仕事に集中しなさいよ。」
「“万全の状態で任務に臨む”ってやつさ。」
クレイドは気にも留めず笑い、手を振って立ち去った。
コールは炎の方に向き直り、警戒心を込めて尋ねる。
「お前は? 村に戻って休むつもりは?」
炎は首を振り、低く答えた。
「俺はここに残る。何か、感じられるかもしれない。」
アルの耳がぴくりと動き、地面を嗅いだかと思うと、静かに炎の足元へと身を丸めた。
まるで、これから何かが始まることを、察しているかのように――。
夕暮れを待つ間、周囲のマングローブ林と塩田は、いつにも増して静けさを湛えていた。
時折吹く海風が、塩気を含んだ湿った空気を運んでくる。
コールは一本のマングローブにもたれ、水のボトルを手に遠くを見つめ、静かに息をつく。
しばらく黙っていたが、ふと視線を炎へと向け、探るような口調で口を開いた。
「なあ、エン……正直に言うと、ずっと疑問だったんだ。なんでマイルズが、お前を信頼してたのか。」
炎は足元のアルの様子を確認していたが、その言葉に顔を上げ、わずかに眉を寄せた。
「……本人は何も言ってなかったのか?」
コールは肩をすくめ、少しばかり悔しそうな表情を見せる。
「聞いたさ。でもあいつ、多くは語らなかった。ちょうど例の裏切り者の話に関わり出した頃だったからな……感情も揺れてたんだろう。もしかすると、何かを“感じ取って”たのかもしれねぇ。だから、お前に声をかけたんじゃないかって。」
炎の目がわずかに陰り、返事を返すことなくアルの背を撫で続ける。
その仕草は、思索の深みに沈み込んでいるようだった。
しばらく沈黙が流れた後、コールの口調が少しだけ柔らかくなる。
「今、お前のことを疑ってる奴も多い。中には“お前こそが裏切り者だ”なんて言う奴もいる……だが、俺は違う。マイルズの判断は、そう簡単に誤らねぇ。あいつは、信じる価値があると思った相手しか近づけない。」
炎は低く冷静に問い返す。
「……マイルズとは長い付き合いだったのか?」
コールは頷き、懐かしむように目を細めた。
「ああ。俺がギルドに入って間もない頃、命を救われたんだ。まだ何も分からなかった俺に、戦いのイロハを叩き込んでくれた。あいつはいつも言ってた。“ハンターの世界では、信頼は武器より強い”ってな。」
炎は視線を上げ、まっすぐにコールを見つめながら問い返す。
「……だから、お前は“信頼”ってだけで、俺と組む覚悟を決めたのか?」
コールは少し苦笑し、肩を軽くすくめた。
「ま、そういうことだな。ただ……お前、相当とっつきにくいぞ。遺跡でお前を車に放り込んだ時、目を覚ましたらぶん殴られるんじゃねえかって思ってた。」
炎の口元がわずかに緩み、かすかに冷笑を浮かべる。
「……お前らの態度も、かなり乱暴だったけどな。」
「しゃーねぇだろ。あの時は切羽詰まってた。」
コールが苦笑しながら肩を回すと、少し真面目な声で続けた。
「夜行者を追ってきたが、あいつには何度も逃げられてる。正直、打つ手がなかった。でも、マイルズが“お前に任せる”って言った時、俺も腹を括ったんだ。」
彼の視線がマングローブの深部をかすめるように動いた後、また炎に向き直る。
「……けど、今日一日一緒に動いてみて思ったが、お前って案外悪くない奴だな。無口すぎて話になんねぇけど。」
炎はちらりと彼を見て、淡々と返す。
「話すことがないだけだ。」
「……そりゃそうか。でもよ、あのカルマって娘、よくお前と長く組んでられるな。あんな無表情、ぶん殴りたくならねぇのか?」
炎の眉がわずかに動き、声にはほのかに諦めの気配がにじむ。
「……忍耐力が、お前の想像より上なんだろう。」
その返しにコールは一瞬きょとんとしたが、すぐに大声で笑い出す。
「……ははっ!いいじゃねぇか。エン、お前案外面白いな。もっと素を出せばいいのに。そりゃカルマがついてくるわけだ。」
炎は答えず、アルの頭を撫でながら遠くの塩田に視線を戻した。
「……今はやるべきことをやる。それ以外のことは、後でいい。」
コールの笑みが徐々に消え、表情も少しだけ硬くなった。
彼は鼻の頭を軽くこすりながら、低い声で言葉を継ぐ。
「……それでさ。もうひとつ、聞いておきたいことがあるんだ。――“裏切り者”の件、お前、何か掴んでるんじゃねぇのか?」
炎の視線がわずかに鋭くなったが、声はあくまで冷静だった。
「……なぜそう思う?」
「お前、マイルズと会ってるだろ?あいつの性格からして、よほど信頼してるか、確信がない限りそんな話はしねぇ。」
コールの視線には、明らかな“探り”の色が混じっていた。
「――で?そいつは誰だ?」
炎は数秒沈黙し、やがてまっすぐにコールを見返した。
「……知らない方がいい。」
その答えに、コールの眉がぐっと寄る。
「どういう意味だよ、それ。」
「知れば、マイルズと同じく狙われる。」
炎の声は低く、どこか疲れた響きを含んでいた。
だがその奥にあったのは、現実を見据えた冷徹な判断だった。
「今の状況で、標的が増えるのは最悪だ。」
コールはしばし黙り、炎の目をじっと見つめていたが……
やがて静かにため息をつき、肩の力を抜いた。
「……面倒な男だよ、ホント。いいさ、もう聞かねぇ。ただ……お前がどう動くにせよ、マイルズの“選択”を無駄にすんなよ。」
炎は何も答えなかった。ただ、遠くの塩田を見つめるその瞳には、深く沈んだ思考の色が宿っていた。
彼は知っている。
コールの疑念は必然であり、今はまだ答えを出すべき時ではないということも。
――黄昏が来るまで、もう少しだ。