水上の黄金帯(4)
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、淡く部屋を照らしていた。
炎は重いまぶたをゆっくりと開き、疲れの残る体を起こす。
一晩中の眠りでは癒しきれない倦怠感がまだ全身に残っていた。
額に手を当て、ぼんやりとした思考を整理しようとする。
だが、昨夜の出来事はまるで重石のように胸にのしかかり、簡単には拭い去れなかった。
部屋を出てリビングへ向かうと、最初に目に入ったのは、わずかに開かれたカルマの部屋のドア。
中は空っぽで、人の気配もない。
テーブルには空になったマグカップが一つ置かれていた。それが、彼女がすでに出かけたことを物語っている。
炎は眉をひそめ、リビングを一瞥した。
カルマのこうした行動は珍しくはないが、今の状況で無言で出ていくのは気にかかる。
「……また、勝手に動き出したか。」
小さく呟いたその声は、苛立ちよりも心配が滲んでいた。
椅子の脇に目を向けると、キッチンの方からアルがのんびりと歩いてくる。
大きなあくびを一つし、炎の足元にすり寄ってきた。
カルマがアルを連れて行かなかったことも、さらに不安をかき立てる要因だった。
炎は眉間を揉み、押し寄せる思考を抑え込むように目を閉じる。。
だが、頭の中には次々と昨夜の出来事が蘇り、心を落ち着かせる暇もない。
マイルズの持っていたファイルは、すでに“漏洩者”の手に渡っているかもしれない。
それが意味するのは――状況が、さらに悪化していくということだ。
マイルズ本人は未だ昏睡状態。短期間で目覚める見込みは薄い。
そして、エリヴィアの記憶の中に浮かび上がった“リア”という名と、あの古びた写真。
全ては断片的で、どこから手を付ければいいのかも分からない。
リアの過去――エリヴィアとの繋がりをアイデンに調べさせたが、結果はまだ遠い。
夜行者の存在も、依然として不穏な影を落としている。
アルに見せた異常な興味、そしてあの“もう一つの鍵”という言葉……今後、何が起きてもおかしくはない。
炎は無言のままテーブルの前に腰を下ろし、長年使い続けているノートパソコンを開く。
古びたその機体は、処理能力こそ乏しいが、記録と情報整理には十分だった。
画面が点き、地図ファイルが開かれる。
画面上にはいくつかの重要なポイントがマークされていた。
以前の倉庫、アレスの儀式跡地、そしてまだ未調査の場所――そのすべてが、過去の断片を繋ぐ可能性を持っている。
このマップは、エリヴィアの意識に残っていた情報だけでは足りず、炎が独自に補完して作り上げたものだった。
パスワードは、彼自身の誕生日――それにエリヴィアの執着が透けて見える。
炎はマウスを操作し、未探索エリアを拡大していく。
「漁村港」と書かれたポイントでカーソルが止まった。
目を細めながら、その名前に見覚えがないことに気づく。
地図の注釈には、「低密度住宅区」と「高リスク区域」という二つのタグしか表示されていない。
更なる情報を得ようと、検索エンジンを開いて「漁村港」を入力する。
すぐに複数の画像と情報が画面に並ぶ。
水面に張り出すように建てられた古びた棚屋。
複雑に入り組んだ木製の桟橋。
鏡のように静かな海面に囲まれた、都会とはまるで異なる時間が流れるような漁村の風景。
「……ここか。」
低く呟きながら、炎は目を細めて写真を見つめる。
その横には「漁村港塩田遺跡」に関する簡単な紹介があった。
かつてこの地域の主要な産業だった塩田は、今では廃墟となり、文化的遺構として扱われている。
いくつかの石碑や古代の構造物が点在し、解読不能な符紋が刻まれていると記されていた。
炎は小さく息を吐く。
ただの歴史的価値ではなく、この場所が何か“重要な過去”と結びついている可能性を、直感が告げていた。
「……進むべきか。」
彼は誰に問うでもなく、静かに呟いた。
視線を地図に戻し、ゆっくりとノートパソコンの蓋を閉じる。
だが、完全には閉じず、手のひらをその上に置いたまま、しばらく動かなかった。
アルは静かに炎の足元に寄り添い、尾をゆるやかに揺らす。
まるで彼の胸の内に渦巻く迷いを感じ取っているかのように、じっと見守っている。
ふと、アルが顔を上げた。
その透き通るような瞳が、まっすぐ炎を見つめている――まるで、「決めるのは君だ」とでも言いたげに。
その瞬間、机の上のスマートフォンが不意に震えた。
炎は視線を落とし、表示された名前にわずかに眉をひそめる。
画面には「アイデン」の文字。
自分で登録した覚えはない。カルマの仕業だろう。
「……また余計な真似を。」
小さくぼやきながらも、炎は着信を受けた。
通話の向こうからは、低く落ち着いたが、どこか命令口調の声が響く。
『エン。昨夜の件は覚えているな。俺は言ったはずだ。今、お前はギルドの監視下にある。どんな行動を取るにも報告が必要だ。そして――単独行動は禁止だ。』
炎は眉間に皺を寄せ、わずかに苛立ちをにじませた声で返す。
「それが、わざわざ電話してきた理由か?」
アイデンは炎の態度に動じることなく、冷静に続けた。
『マイルズの部下が、お前の同行申請を済ませている。今、おそらく近くにいるはずだ。もしどこかへ向かうつもりなら、彼らと合流しろ。』
机を指先で軽く叩きながら、炎はしばし黙り込む。
やがて、低く、冷ややかに言い返す。
「……行き先まで監視される立場か。」
アイデンの返事には、微かに溜息混じりの疲労感があった。
『これは一時的な措置だ、エン。今の状況では、どんな油断も命取りになる。理解してくれ。』
数秒の沈黙の後、炎は短く答えた。
「……分かった。」
通信が切れる。
スマホを静かに机に置き、炎は長く息を吐いた。
そのとき、足元でアルが優しく頭を擦り寄せてきた。
彼の感情に反応するように、そっと寄り添っている。
「……分かってる。動くしかない。」
炎は静かに呟き、立ち上がる。
視線が自然とカルマの部屋のドアへと向くが、そこに彼女の気配はない。
「……護衛付きだろうが、主導権は渡さない。」
その眼差しに迷いはない。
コートを手に取り、腕を通すと、足元のアルに語りかける。
「行くぞ、小さな相棒。今日はまだ……やることがある。」