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水上の黄金帯(1)

 深夜の山道は静まり返り、冷気が肌を刺す。風が葉を揺らし、湿った土の匂いが漂う。ヘッドライトの光が闇を切り裂き、車は曲がりくねった道を進む。


 エンは無言でハンドルを握り、夜の奥を見据える。闇のように深い瞳の奥で、思考が静かに渦巻く。マイルズの事故から半日――現場は片付けられているかもしれない。それでも、痕跡が残る可能性に賭けてきた。


 助手席のカルマは、横顔を窓に向ける。果てしない暗闇に思考が引き込まれ、指が無意識にドアを軽く叩く。エンの過去への好奇心と、それを知って関係が壊れる不安――その間で揺れる。


 後部座席で眠っていたアルが身を起こし、耳をピクピク動かす。車内の静寂に彼の呼吸音だけが響き、沈黙を際立たせる。


 車が山道の奥へ進むと、封鎖線が見える。

 エンはブレーキを踏み、エンジンを止め、シートベルトを外してドアを開く。


「着いたぞ。」

 低い声が静寂を破る。


 カルマは眉を動かし、シートベルトを外して外へ出る。

 夜風に肩をすくめ、コートの襟を引き寄せる。足元に車輪の跡と焼け焦げた草むら。

「…やけに死んだ空気ね。」吐き捨てる声に苛立ちが混じる。


 アルが軽やかに飛び降り、尻尾を振って嗅ぎ回る。

 鼻を地面に近づけ、何かを探す。


 エンは車のそばに立ち、周囲を見渡す。

 胸を圧する違和感――マイルズの容態だけでなく、微かな気配が不安を掻き立てる。


「……何を考えてる?」

 エンの静かな声がカルマを引き戻す。


 彼女は焦げた地面を見下ろし、ポケットに手を突っ込んだまま言う。

「どうやってこんな綺麗にやったのかって。何もかも消えてる。」


 エンは路肩へ歩み、しゃがんで焦げ跡を指で払う。

 鋭い目で地面を見つめる。

 アルが焼けた草むらで止まり、尻尾を立てて低く唸る。

「…何か見つけたかも。」カルマが駆け寄り、アルの視線の先を覗く。


 しゃがんで草をかき分けると、焦げた土が凹んでいる。指先に冷気が触れる。

「…魔力の残りがある。」

 地面をなぞり、消えかけた符紋の痕を見つける。

「符紋の跡。でもマイルズのじゃない。攻撃者のだと思う。」


 エンが寄り、しゃがんで地面に手を当てる。

 目を閉じ、数秒後開くと瞳に重い色が浮かぶ。

「攻撃用の符紋だ。高威力の爆裂系…ここが最初の一撃だろう。

 だが、痕跡が少なすぎる。丁寧に消されてる。」


 カルマは鼻を鳴らして笑う。

「やりすぎよね。魔力の痕まで消すなんて、私たちが掴めないとでも思ってるのかしら。」


 遠くから、低く唸るようなエンジン音が響いてきた。

  この時間、この山道に車の音がすること自体珍しいが、それ以上に、その音は重く、圧を感じさせるものだった。


 エンの眉が瞬間的にひそめられる。

  この音は、普通の車のものじゃない――直感がそう告げていた。


 彼はすぐに立ち上がり、カルマの方へ鋭い視線を向けた。

「アルを連れて、すぐ車に戻れ。」

 低く抑えた声には、有無を言わせぬ緊迫感が滲んでいた。


 カルマは目を瞬かせ、すぐ眉を上げて、アルを抱き上げながらからかうように笑った。

「何よ、そんな慌てて。敵の顔も見えてないのにさ。」


 だがエンは答えず、険しい眼差しで山道の奥を睨む。

「いいから早く行け。」

 語気が強く、緊張が露わだ。


 カルマはその気迫に気づいたのか、口を閉ざしてすぐに動き出す。アルは彼女の腕の中にすっぽりと収まりつつも、低く唸るような声を漏らした。小さな体がぴんと緊張し、何かを警戒しているようだった。


 その瞬間、数台の黒い車が猛スピードで現れ、急ブレーキと共に止まる。

  ヘッドライトが一斉に光を放ち、夜の静寂を白光が切り裂いた。道全体がまるで昼間のように照らし出される。強烈な光のせいで、相手の顔は見えなかったが――

 誰なのか、二人には分かっていた。


「見なくても分かるわね。」

  カルマが鼻で笑いながら言った。声にはあからさまな嫌悪と緊張が混じっている。


 先頭の車のドアが開き、光の中から現れたのは――夜行者ナイトウォーカーだった。

  彼の狂気じみた笑い声が、冷たい空気の中を切り裂くように響いた。


「エン!カルマ!まさかお前らが来るとはなァ!なんて素敵な再会だ!」

 その声は甲高く耳に刺さるようで、まるで闇の中に不吉な亀裂を刻むように響く。

  笑い声の奥には、勝利を確信した者特有の昂りがあった。


 エンは即座にカルマの手を引き寄せ、低い声で囁く。

「車に戻れ。逃げるぞ。」


 いつもと変わらぬ冷静な声音――しかし、握られた手の強さが、内心の緊張を物語っていた。

 カルマは眉を動かし、呆れた顔でエンの手を振りほどく。


「逃げる?夜行者って神様か何か?そんなにビビるほどの相手じゃないでしょ。」


 そのまま数歩前に出ると、カルマは両手を広げた。

  次の瞬間、轟音と共に炎の壁が立ち上がり、夜行者との間を赤く隔てた。

  燃え上がる火の粉が夜空を舞い、カルマの顔を照らす。その顔には、挑発的な笑みが浮かんでいた。


「越えてこれるもんならやってみな。」

 そう言って鼻を鳴らす。


 だが、エンの顔から血の気が引くのは、その直後だった。

 火が燃え上がった瞬間、彼の視界に焼きついたのは――あの事故の光景。

  猛火に包まれた車、ねじ曲がった鉄の塊、そして自分の手が火傷で赤く焼けただれた感触。


 身体が凍りついたように硬直し、呼吸が苦しくなる。

  喉が詰まり、胸が押し潰されるような圧迫感。逃れようとしても、身体が言うことをきかなかった。


「……エン?」

 カルマが振り返ったとき、彼女の目に映ったのは、顔を歪めたエンの姿だった。

  普段の冷静沈着な表情が、今は苦悶と混乱に染まり、呼吸は荒く、目は焦点を失っている。


 カルマの表情から笑みが消える。すぐに駆け寄り、肩を掴んで低く声をかけた。

「エン、どうしたの!?しっかりして!」


 エンは歯を食いしばり、揺れる視界を抑え込むように目を凝らす。

  頭の中で火の音が鳴り止まず、現実と記憶の境が曖昧になる。

 それでも――カルマの声が、何とか彼を現実に引き戻した。


 ゆっくりと視線が戻り、目の前には、心配そうに覗き込むカルマの瞳。

「……大丈夫だ。」

 かすれた声で答えたが、額を伝う汗が、言葉とは裏腹に彼の限界を物語っていた。

 カルマがさらに何かを言おうとしたその時、炎の壁の向こうから、耳慣れた声が再び響いた。


「ふふっ……面白いな。」

 夜行者が、炎の向こうに立っていた。火の光を受けて、その顔は不気味に照らされている。

  ゆっくりと手を上げると、まるでその動きに反応するかのように、炎が左右に割れて道を開いた。


 悠々とその隙間を歩きながら、彼は自分の庭を散歩するかのように近づいてくる。

 カルマは拳を握りしめ、声を低くした。

「……こいつ、ただ者じゃない。」


 夜行者の視線が二人をなめ回すように動き、やがてアルに止まった。

 目がぎらりと輝き、口元に狂気を孕んだ笑みが浮かぶ。


「ははっ、これは嬉しい誤算だ!まさか“もう一つの鍵”まで揃ってるとはな!」


 カルマの眉がぴくりと動き、アルを抱きしめる手に力が入る。

  警戒心をあらわにしながら問い返す。


「……鍵?また何をわけのわからないことを言ってるの?」


 エンはすでに姿勢を立て直し、冷たい瞳で夜行者を見据えていた。

  その声は低く、鋭く空気を裂く。


「……何を企んでいる?」


 だが、夜行者は答えず、代わりに喉の奥から笑い声を漏らす。

  その笑いは、まるで何かが始まろうとしていることを示す合図のように、夜の空気に染み込んでいった。

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