埋められない隙間 (9)
カルマは住居に戻り、窓辺に降り立つ。
窓が開いており、彼女はそれを広げて中へ滑り込む。
部屋の明かりは点いておらず、薄暗い。
だが悪魔の彼女には光は不要だ。夜目の効く視界で、室内の輪郭や配置を正確に把握できる。
着地した瞬間、彼女は部屋に漂う異様な空気を感じ取った。いつもより重く、圧迫感すらある。
視線が室内を走り、隅にうずくまる人影を捉える――
言うまでもなく、炎だ。
アルがいつの間にか姿を現し、カルマの足元に静かに寄り添っていた。
小さな身体は緊張しており、尾がわずかに持ち上がっている。
まるで炎の様子に不安を覚えているようだった。
アルは「ニャ」と一声鳴くと、部屋の隅に頭を傾けて示した。
「エン?」
カルマは控えめに呼びかけるが、返事はない。
彼女はゆっくりと歩み寄る。足取りは静かで安定しており、アルもぴたりと寄り添ってついてくる。目は鋭く、炎の状態を警戒しているようだった。
近づくほど、カルマは異常を感じる。炎は膝を抱え、顔を上げない。
部屋には彼女の足音と携帯のバイブ音だけが響く。
床のスマホが一瞬光り、すぐ震えが止まる。
画面を覗くと、30件以上の不在着信が表示され、その異様さに不安が募る。
「おい、エン。」
彼女はしゃがみ、柔らかく探る声で呼ぶ。
「どうしたの?」
炎の肩が震え、ようやく気づいたようだが、目を上げた瞳は焦点が合わず、何かに押し潰されそうな虚ろさを帯びてる。
再び顔を伏せ、完全に沈黙する。
アルが炎の膝に前足を乗せる。慰めるように。
だが炎は反応せず、膝を抱えて沈み込む。
「エン、大丈夫?」
カルマは声をかけ続ける。明らかに心配がにじむ。
「マイルズが負傷したの。アイデンが、あんたを呼んでって。何か、助けが必要らしい。」
「マイルズ」の名に、炎の体がビクッと反応する。
急所を突かれたように両手で頭を抱え、苦しげな呼吸を漏らす。
白くなるほど力が入った指先が、彼の苦悶を物語る。
「おい、エン!」
カルマが肩に手を置き、動揺した声を上げる。
だが彼は頭を抱えたまま、声も出さず、何かを堪えてるようだ。
アルは膝に飛び乗り、体を丸めて寄り添う。
温もりで心をほぐそうとしてるようだ。
カルマの視線が炎の腕に落ち、息を呑む。
両腕に火傷の痕がある。赤くただれ、焦げた跡が残る。
つい先ほど負ったばかりの傷だ。
(これが、いつものエン……?)
胸の奥に得体の知れない不安が広がる。
いつも冷静な炎が、今は押し潰されるようにうずくまってる。
信じられない思いで、火傷と顔を交互に見つめる。
そして頭をよぎるのは、マイルズの車が転倒し炎上したというニュース。
(まさか…)悪い予感が膨らむ。
「エン、その傷……何があったの?」
カルマは抑えた疑念を込めて、慎重に問いかける。
炎は体を震わせるが、言葉は返らない。
アルが「ニャ」と鳴き、脚を一周して膝に身を寄せる。
カルマはさらに疑念と不安を募らせつつ、感情を抑えて続ける。
「現場にいたの? マイルズの車…あの火、あんたが…?」
沈黙――しかしその沈黙こそが、何より雄弁だ。
炎の表情に浮かぶ苦悩と葛藤、それがすべてを物語っていた。
「エン、本当のことを話して」
カルマの声は真剣で静かだ。
「私はアイデンじゃない。深く詮索する気もない。
ただ……関係あるかどうかだけ教えて。」
炎はゆっくり両腕を解き、視線が焦点を取り戻し始める。
彼女の言葉が何かに触れたのか。彼は何度も息を吸い込む。
指先が焦げた腕を見つめ、淡い光が灯る。
火傷が見る間に癒える。裂けた皮膚が再生し、肌が滑らかさを取り戻す。
彼は顔を覆ってた手を外し、眉間を押さえ、体を起こす。
表情から苦しみが消え、冷静さが戻る。
「少しはマシに見えるようになったわね。」
カルマは腕を組み、立ち尽くす。声に心配が滲む。
「でも、誤魔化させるつもりはない。エン、何があったの?」
炎は黙し、カルマを見つめた後、疲れたように言う。
「……何でもないよ。アイデンが俺を呼んだって、言ってたな?」
カルマは静かに頷く。彼の言葉を鵜呑みにしないが、責める気もない。
ただ状態と隠された真実が気になる。
炎は視線の意味を理解したのか、息をついて言う。
「分かってる。少しだけ……時間をくれ。」
アルを膝から下ろし、壁に手をついて立ち上がる。
動きはぎこちなく、完全には回復してない。
彼は服を手に取り、浴室へ向かい、水道をひねる。
冷たい水が顔を流れ落ち、意識を現実へ引き戻す。
数分後、炎が部屋に戻る。表情に落ち着きが戻るが、眉間の疲労感は残る。
彼はカルマに目を向け、静かに言う。
「……歩きながら話そう。」