埋められない隙間 (1)
カルマは夢から目覚め、窓から差し込む陽光に目を細める。
体を起こすと、久々の穏やかな感覚に戸惑った。
目が完全に覚めてから、ふと気づく——
こんなにもぐっすり眠っていたなんて。
警戒心を忘れるほどで、意外でもあり、受け入れがたいとも思えた。
身支度を整え、部屋を出る。
リビングに朝の光が差し込み、空気にコーヒーの香りが漂う。
テーブルを見ると、炎がノートパソコンでキーボードを打っていた。
横に湯気立つカップがあり、髪は濡れ、肩にバスタオルがかかっている。
シャワーを浴びたばかりのようだ。
足音に気づいた炎が顔を上げる。
エメラルドのような瞳が彼女を一瞥したが、何も言わず画面に戻る。
カルマは数秒立ち尽くし、口元に笑みを浮かべてからかう。
「早起きだね。昨夜眠れなかったとか?」
炎は目を離さず、淡々と答えた。
「よく眠れた。ただ、早く起きただけだ。」
その調子はいつも通りの落ち着いたものだった。
カルマは炎の向かいの椅子を引き、肘をついて頬杖をつくと、興味津々に彼を見つめながら言った。
「で? 早起きしたハンターさんは今何をしてるの?
あの偽ハンターの件を調べてる?それとも昨日の情報整理?」
炎の指が一瞬止まり、視線を彼女に移す。
「昨日の記録をまとめてる。あとで必要になるかも」
彼はスクリーンを指で示した。
カルマは眉を上げ、口角をわずかに上げて冗談めかして言う。
「ふぅん…感覚だけで動くタイプかと思ってたけど、意外としっかりしてるね。
記録なんてアイデンの仕事かと思ってた。」
炎は応じず、黙々とキーを叩き続ける。
その冷静さと集中力に、カルマはなぜか胸の奥が静かに落ち着いていくのを感じた。
カルマは椅子に背を預け、大きく伸びをしてから軽い口調で尋ねる。
「それで、今日はどうする? 夜行者や闇紋会が仕掛けてくるのを待つだけ?」
炎は手を止め、平坦な声で返す。
「整理が終わったら、次を考える。」
その様子に、カルマは小さくため息をつく。
どこまでも冷静な炎の姿が、時に彼女にはもどかしく映ることがあった。
「ほんと不思議だわ、君って。」
カルマは呟くように言った。
「昨夜はあんなに重い話をしてたのに……
今朝になったら、まるで何もなかったみたいに平然としててさ。」
炎の眉がわずかに動いたが、それ以上何も言わない。
昨夜の会話には触れず、ただ静かに沈黙を選んだ。
カルマは姿勢を正し、視線を彼へ向けた。
「ところで、今日ちょっとギルド本部に行ってくるわ。」
炎が顔を上げ、画面から視線を外す。
そのまま眉をひそめて尋ねる。
「何の用だ?」
カルマは腰の魔刃に手を当てながら言う。
「昨日、この子を初めて実戦で使ったんだけど……ちょっと気になる点があってね。
使い心地は悪くないけど、調整が必要かも。次に不具合が出たら困るし。」
炎の視線が魔刃へと落ちる。
しばらく見つめた後、低く問う。
「アイデンたちに?」
「うん。彼ならすぐ対応してくれるし、どうせあの武器はギルド製。
私が行かなきゃ誰が修理費出すのよ?」
炎は数秒考え、ノートパソコンを閉じる。
声は冷静だが重みがあった。
「行くなら早く行って戻れ。
今の本部は安全じゃない。」
カルマは肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべて言う。
「安心して。気をつけるよ。
誰が手を出せるっての。やってみなって感じでしょ?」
そう言って、彼女は軽やかに立ち上がり、装備を整え始める。
最後に振り返って言う。
「そうだ、アイデンに伝えたいことがあれば今のうちよ?
私は無料の伝言係じゃないんだから。」
炎は首を横に振り、背もたれに身を預けながら、冷ややかに答える。
「特にない。」
カルマは笑って肩をすくめ、ドアへ向かう。
「じゃ、行ってきまーす。
すぐ戻るから心配いらないわよ。」
ドアを開けると、朝の光がまぶしく差し込み、彼女の背中をやさしく照らす。
その姿は軽やかで、どこか頼もしささえ感じられる。
だが、その瞬間——
背後から炎の低く静かな声が届いた。
「……気をつけろ。」
「了解、冷血な相棒さん。ちゃんと直した魔刃、持って帰ってくるから。」
扉が閉まり、リビングには再び静寂が戻る。
炎の視線はファイルへと落ち、眉をひそめて思考に沈む。
ふと視界の端でスマートフォンの画面が点灯するのが見えた。
手に取ってロックを解除すると、見慣れない番号からのメッセージが表示されていた。
──「マイルズだ。話がある。角のカフェで待っている。」
その文面に、炎はわずかに眉を動かす。
このタイミングで、そしてこの言い回し——彼個人への意図的な誘いのようだった。
マイルズ?
名前は知っている。だが、彼が俺に直接連絡してきた上、自宅近くを指定してきたのは異常だ。
自然と警戒心が湧き上がる。
スマートフォンをテーブルに戻し、無表情のままカップのコーヒーをひと口啜る。
目線は再びメッセージへと戻るが、その内側では既に様々な可能性が浮かび上がり、沈んでいく。
「……マイルズ。何のつもりだ?」
低くつぶやいたその声は、誰に聞かせるでもなく、彼自身への問いだった。
炎は立ち上がり、タオルを無造作に投げ捨て、ジャケットを手に取る。
視線がキャットタワーに向かう。
アルは丸まって眠り、小さな体は尻尾でくるまれ、無防備だった。 呼吸に合わせて胸が上下し、耳がピクリと動く様子は夢を見ているようだ。
炎はそれを見つめ、口角を動かす。
「お前には似合わないほど呑気だな…」
声は嘲るようで、どこか優しさを含んでいた。
装備を確認し、ホルスターに銃、内側の鞘にナイフ。
手に馴染む重みを確かめ、ドアノブに手をかける。
「そのまま呑気に寝てろ。」
呟いてドアを開け、外へ出る。
建物に残ったのはアルの寝息と柔らかな陽光だけだった。




