封印と解放の序曲(2)
「エリヴィア……?」
アイデンはその名を聞き、驚いたように目を細めた。
「本当に、夜行者がその名前を口にしたのか?」
炎は静かに頷く。
「間違いない。戦闘中は余裕がなかったから深く考える暇もなかったが——」
彼は少し言葉を切り、思い返すように視線を落とした。
「……確かに、あいつはその名に異常な執着を見せていた。」
アイデンは羊皮紙をそっと机に置き、組んだ指の上に顎を乗せるようにして考え込む。
「エリヴィア……」
彼はその名を口にする。
まるで、それ自体が何か遠い記憶を呼び覚ますかのように。
「秘匿された文献の中で、彼女は『堕ちた戦神』と記されている。おそらく、かつて神界において重要な存在だったのだろう。伝承によれば、彼女は神界内で勃発した戦乱の中、他の神々とは異なる道を選び——」
アイデンは指先で机を軽く叩きながら続けた。
「……人間と魔物の共存を支持した。
その信念ゆえに、彼女は神界から追放された存在とされている。」
彼の声は淡々としていたが、その中にはわずかな疑念が滲んでいた。
指先が無意識のうちに羊皮紙の端をなぞる。
「ただ、彼女に関する記録は極端に少ない。残されているのは、ほんの断片的なものだけだ……。」
炎は腕を組み、思案げにアイデンを見た。
「……もし夜行者が彼女の名を出したのなら、
あいつが求めていた“力”は、エリヴィアに関係しているのか?」
「……単純な話ではないかもしれない。」
アイデンの表情に、微かな躊躇いが浮かぶ。
「エリヴィアについての記述は断片的で、ほとんどが不完全な古文書にしか残されていない。
だが、その信仰は、当時の神々の秩序を根本から覆すほどの力を持っていたとも言われている……。」
彼はそう言いながら、ゆっくりと炎の方へと目を向ける。
「ただ、彼女が最後にどうなったのか——その行方は、未だに謎に包まれている。」
アイデンの視線が鋭さを増す。
「だがもし、夜行者の言った“エリヴィアの贈り物”が実在するのなら……」
彼は炎をじっと見つめる。
「——お前の中には、彼女が遺した“何か”が眠っているのかもしれない。」
炎は沈黙したまま、心の奥に波紋が広がるのを感じていた。
——心の中で響いたあの声、異常な自己再生能力。
そして、夜行者の執着。
もしそれらが**「エリヴィアの贈り物」**と関係しているのだとしたら——?
「……彼女が何を企んでいたにせよ。」
炎は冷ややかに口を開く。
「この力が、夜行者みたいな狂人のものになることはあり得ない。
だからこそ、俺はエリヴィアについてもっと知る必要がある。」
語気には、固い決意が滲んでいた。
エリヴィアの伝説に興味はなかった。
だが、夜行者がここまで異常に執着するほどの力——
それが自分の中に眠っているのだとしたら、決して偶然ではない。
そして、もしも彼のように“この力”を狙う者がまだいるとしたら——
いずれ、もっと厄介な存在が現れるかもしれない。
しばしの沈黙が流れた。
アイデンが考え込むように炎を見つめ、ふと口を開く。
「……じゃあ、炎。
そもそも、その力を自覚したのはいつなんだ?」
彼の声には、探るような色が滲んでいた。
「どうやって、それを手に入れたのか。
何か、覚えていることはあるか?」
炎は一瞬、言葉に詰まる。
長い睫毛が伏せられ、記憶の奥底を探るように視線を落とした。
だが——
「……はっきりした記憶はない。」
小さく首を振る。
「過去の記憶は、断片しか残っていない。
たまに、ふとした瞬間に映像のように蘇ることがあるが……どれも曖昧すぎて、はっきりとは見えない。」
言葉を切り、少しの間、間を置く。
そして、淡々と言い放った。
「……それどころか、自分がどうしてデビルハンターになったのかすら、分からない。」
——その一言に、アイデンとカルマは思わず目を見開いた。
「……ただ、うっすらとした感覚はある。」
炎は静かに口を開いた。
「まるで、これが最初から俺の生活の一部だったかのように。
考えるまでもなく、ただ当たり前にそこにあるものとして——。」
その声は冷ややかで、事実を淡々と述べているようだった。
だが——
翠緑の瞳がわずかに翳る。
まるで、その奥底に無数の答えのない問いが沈んでいるかのように。
アイデンは小さく息をつき、探るような眼差しを向けた。
「つまり、お前自身、この力がなぜ宿っているのか分からない、ということか。」
炎は言葉を発さず、ただ微かに頷く。
アイデンは続ける。
「だが、それはお前にとって“自然”なものだった。
まるで、生まれた時からそうであることが決まっていたかのように。
……もしかすると、この力はすでにお前の存在の隅々にまで染み込んでいて、逃れることすらできないものなのかもしれない。」
炎は遠くを見つめた。
そこには何もないはずなのに、まるで何かを探すような目つきだった。
「……そうかもしれないな。」
かすかに笑うように唇を動かすが、その表情にはどこか影が差している。
「この力が何なのか……俺には分からない。
だが、選択肢が与えられたことはない。
“それが存在する”という事実だけが、最初から俺の中にあった。」
「……だから、深く考える気にもならなかった。」
カルマはじっと炎の横顔を見つめていた。
何かを見透かすように、しかし言葉にはしない。
いつもの気まぐれな笑みは、ほんのわずかに影を潜めていた。
「……もしかして、それって。」
低く、囁くような声だった。
「**“呪い”**なんじゃないの?」
その言葉が、静かな空気の中に漂う。
三人の間に沈黙が落ちた。
まるで、その考えを否定することすらできないかのように——。
炎の脳裏に、ふと昨夜の戦いが蘇る。
——あの微かで、遠く響く声。
夜行者との死闘の最中、確かに聞こえた。
「……ごめんなさい……」
優しく、それでいて哀切を帯びたその囁きは、間違いなく——
エリヴィアの声だった。
炎は眉を寄せる。
あの一言が、ただの錯覚だったとは思えない。
なぜ彼女は、自分に謝罪を?
この力と、自分の間には、一体どんな因果があるのか——?
「……?」
そんな炎の表情の変化を見逃さなかったのは、カルマだった。
彼女は軽く眉を上げ、好奇の色を浮かべながら、炎へと身を寄せる。
「ねえ、炎。ちょっと気になったんだけどさ——」
彼女はじっと彼を見つめる。
「お前の記憶って、いつから連続したものになったの? いつから“自分”を持ち始めたの?」
突然の問いに、炎は瞬きをする。
そして、カルマを一瞥し、ふっと微かに笑った。
「……そうだな。」
「強いて言うなら——お前と出会ってからだ。」
カルマの目が、わずかに見開かれる。
しかし、すぐに口元をゆるめ、楽しげに笑みを浮かべた。
「へえ?」
「それじゃあ、私はお前のラッキーチャームってわけ?」
「……深読みするな。」
炎はそっけなく言いながら、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「ただの偶然だ。」
カルマはくすりと笑った。
だが、その瞳にはどこか真剣な色が宿っていた。
——炎の言葉は、決してその場しのぎの戯言ではない。
彼は、おそらく無意識のうちに、自分自身の変化を感じ取っている。
彼女と出会ったことで、断片的だった記憶に、わずかでも“連続性”が生まれたのかもしれない。
炎という存在が、ただの“力を持つ者”から、“炎という個”になり始めた証として——。