#7_兄妹げんか?
メイドバーを出てネオン光る飲み屋街を抜けて、駅まで続く道の途中にある大きな橋の上。
少しだけ酔いが回っていて、浩介と葉月の歩く速度は気持ちゆっくりになっている。
店を出てからぽつぽつと店内で聞いた話や印象などをお互いに語りながら、少し広めの車道を通り過ぎるタクシーを目で追いかける。
「あんなお店があるなんて知らなかったな」
「探せば色んなものがあるってことだよ」
「楽しかったな。また行ってみようかな」
そこで葉月は少し眉を顰めて兄を見やる。
「お兄は何で外でお酒を飲もうと思ったんだっけ?」
「え?」
急に言葉に少しの棘が含まれた。
あからさまに不機嫌というわけではないが、答えを間違ったらやばいと思わせるものだった。
浩介は慎重に答えるべく起点を思い起こす。
友人がほぼ皆無。彼女がいない。趣味が家の中で完結している。外に出ない。
「えっと、彼女欲しいからだったな」
「そう。で、ああいうお店に来る人たちから、そういうものって期待できるの?むしろ、女子いなかったよね?お兄が彼氏が欲しいっていうなら最適解だけれど」
「男しかいなかった。ジャンルはそれぞれ違うけれど、みんないわゆるオタクだった」
「たまたま今日は女子がいなかっただけかもしれないけれど、出会いを求めるなら凄く分の悪い賭けになるよ」
「もしかしたら、そのうち縁があって、ってこともあるんじゃないか?」
「かもしれないけれど、あたしにはとてもあそこにそんな縁は転がりこんでくるとは思えない。趣味の合う良い知り合いを作りたいっていうなら、これ以上口出しはしないよ」
あの空間は楽しかった。欲を言えば、オープンからクローズまで居座りたい。
メイドも客も面白い人たちばかりだ。
休みの日ごとに入り浸りたいとさえ思う。
そう思っているのに、妹は彼女が欲しいならもう行くなと言っている。
あの店で彼女が出来る可能性はゼロじゃない、むしろ趣味を共有できる最高の人と出会えるかもしれない。その可能性を捨てろと言う。
浩介は少し頭に血が上りつつあるのを自分でも感じていた。
しかし一方で、葉月の言う事は正しいとも思っていた。
出会い目的の女子が、オタクの集まるバーに来るわけがない。出会いが目的でなくても、大半の女子は普通のバーや居酒屋に行く。
絶対的な分母が違うのである。
頭に血が上りつつあってもそれは理解している。だが、依存してしまいそうになるほど楽しすぎて、冷静な思考ができない。
「そういうわけじゃないけれど……ちょっと考えさせてくれ」
葉月は大きなため息を吐き、独り言のように言った。
「失敗したなぁ。別の場所にすれば良かった」
後悔が色濃く滲んだ葉月の言葉は、大きな棘となって刺さった。
感情は自分が正しいと訴えて、頭では妹が正しいと訴えている。
そこに、兄を想ったやり方が間違っていた、と吐露されて慙愧の念が加わる。
その後は言葉を交わすことなく帰宅し、自室に戻ると浩介はただ自分の事が嫌でたまらないという心と一緒にベッドへ沈んだ。
浩介は、どうすればいいのか決められずにいた。
翌日の正午。
昨夜の事を考えてなかなか眠る事が出来なかった浩介は、睡眠不足がありありと見える顔で洗面所へ向かう。
家の中は静まり返っている。親は仕事、葉月は休みと言っていたが、出かけたのだろうか。
葉月の事が気になってはいたが、気まずくて顔を合わせたくないという気持ちの方が大きかった。
結局、浩介が洗顔と歯磨きを終えても家の中で誰かと会う事もなかった。
リビングで食パンをトースターで焼いてマーガリンを塗って、時間的には昼の朝食を摂った。
食べ終えて、使ったバターナイフと皿を洗いながらふと、思い出だした事があった。
「そういや、もうすぐストックしてた本、全部読み終わっちまうな」
この後は本の買いに行こうと決める。
もともと浩介は活字を読まない人間だった。
それがふとした気まぐれで、とあるアニメの原作小説に手を伸ばしたところ、今ではすっかり小説好きの中年である。
それまでずっとゲームやアニメくらいしか趣味のなかった浩介が、読書を好むようになるなど家族の誰が予想することができただろうか。
そして、その読書が浩介のこれまでの価値観を大きく変えた。
アニメは放送時間という制約がある都合上、登場人物の心理描写をこと細かに表現する時間はほぼない。
どうして彼らは、彼女らはそういう発言や行動をしたのか。
それを丁寧に描写しているアニメは数少ない。
小説では、これでもかというくらい登場人物の内面を、繊細な表現を用いたり様々な比喩表現を用いて読者に伝えてくる。
だからといって、アニメと小説ではどちらが優れているかという話ではない。
小説にはできなくて、アニメにしか表現できないものがある。
想像ではなく目で見ることができるのがアニメ。
鮮烈さやスピード感、場の雰囲気を視覚化するには非常に優れた文化である。
セリフも、小説では自分の想像で再生されるが、アニメでは声優の卓越した演技によって感情に訴えかけてくる事などざらにある。
どちらが優れているというわけではなく、どちらも等しく素晴らしい文化だ。
浩介はアニメも好きだが、劇中の色々なものを読み解く能力は高くない。
だが、心理描写の豊富な小説を読み始めた事で、視野が広がったように思えた。
どんな客に対してもフラットに接することが出来るようになったのは、そのおかげであった。
しかしそれは副産物に過ぎず、浩介が小説を読んでいるのは『面白いから』ただそれだけである。
「ポイントカード、財布に入ってたかな」
必要なものをポケットに入れ、軽自動車を書店まで走らせる。
その間に、浩介は想像とも呼べないものを考えていた。
書店で運命的な出会い、ないかなぁ。
自分の趣味がきっかけで運命が変わればなぁ、と小さな妄想をしてしまうが、そんなのはアニメのヒロインが現実に現れるくらい有り得ない事は知っている。
そしてやはり、書店に行ったとしても運命の出会いを果たすことなく、いつも通りレジをしてくれた女性店員と「ポイントカードありますか?」「駐車券はお持ちでしょうか?」などのやり取りをして終わった。
時刻はまだ十六時を少し過ぎた頃。
帰宅して玄関で靴を脱ごうとした時に、家を出た時にはなかった妹の靴が出ていた。
昨日は雰囲気は悪くはなったが、ケンカといえるほどではない。それでも顔を合わせ辛い。
だが、無視するわけにもいかず、靴を脱ぎながら普段通りに帰宅した事を報告する。
「ただいま」
「おかえりー」
葉月はリビングにいるようだ。
買い込んだ本を運ぶため自室へ向かう途中、リビングの中から呼ばれた。
「お兄、ちょっといい?」
「お、おう」
廊下に重たい買い物袋を下ろし、身一つでリビングに入る。葉月はソファに座ってスマホを見ていた。
昨日の今日だ、浩介を呼ぶ理由は一つしかない。
「どうした?」
荒ぶった感情も、寝れば治まる浩介。
今は昨日とは違い、随分と冷静に考えられるようになっている。
なので、自身がメイドバーに固執しすぎていたのも自覚しており、改めて葉月と面を合わせると視野が狭くなっていたあの時の己が恥ずかしい。
スマホを見ていた葉月は顔を浩介に向けて、いつも通りの表情でいつも通りに言葉を返す。
「そんなトコに突っ立ってないで、こっちに座ってよ」
「おう」
言い終えると、再びスマホに視線を落としていた。
葉月の不機嫌は今も続いているのだろうかと危惧していたが、声色は普段通りなので杞憂だったみたいだ。
L字型のソファに斜向かいに座る。
ぶっきらぼうにならないよう、努めて普段通りを装って訊いた。
「なに?」
普段通りに喋ったはずだが、言葉のチョイスを間違えてしまった。
「なに」ではなく、「どうした」と言うべきだったと後悔しても、覆水盆に返らずである。
怒らせてしまったか、と気まずそうにする浩介に葉月は答える。
「昨日の事なんだけど」
気を揉む浩介とは裏腹に、葉月は別段その事に腹を立てる様子はなかった。しかし、目を合わせずに浩介の横の空間をぼうっと見ている。そして、眉間に薄っすら皺が寄っている。
口調も心なしか、硬く聞こえた。
「昨日はごめん、言い過ぎた。お酒のせいにしたくないけど、言うにしてももうちょっと考えれば良かったと思ってる」
仲直りの言葉だった。
葉月の言い分は正しいと思っていたから、葉月が謝る必要はない。むしろ、ダメ出しされる覚悟だった。
浩介は自分が悪いと思っていたように、葉月も悪いと思っていた事があったようだ。
「いや、俺の方こそごめん」
葉月の謝罪の後に浩介もすぐに謝った
条件反射で言ったように聞こえてしまったかもしれないが、嘘ではない。
本来なら浩介から謝るべきだと頭の片隅で考えていたのだが、変なプライドや意気地のなさが邪魔してしまっていた。
謝るのは勇気のいること。
妹にここまでさせたのだから、この後くらいはきちんと年上らしくするべきだと思った。
「本当なら俺から謝るべきだったんだけど、ごめん」
「あたしも悪かったし、いいよ」
「葉月が気を利かせて連れ出してくれたのに、色んな理由をこじつけていい人に出会えるかもしれないって駄々こねるようなこと言って。そういうのは、お前に対して誠実じゃなかった」
葉月はいつの間にか浩介の目を真っ直ぐに見ていて、黙って話を聞いていた。
思いつめて考えた言葉を聞いてもらうと、これまで思い至らなかったことが喋っている最中に沸いてくる。
「あそこでは色んな人の色んな話が聞けて楽しかった。でも、それは多分あの場所じゃなくてもあるものだって、今お前と話してて思った。あの店は居心地は良いけど、まだ俺はその店しか知らない」
一人で考えるには限界がある、というわけではないけど、人に話を聞いてもらうことがこんなに大事だったんだと思い知った。
「俺はまだ視野が狭い。だから目先の心地良いものに固執してしまったんだと思う」
そして、自分自身を見つめることも少しはできた。
「これから色んな経験をして、そうしてやっと年相応の大人になれるんだろうな。まだ先は遠そうだけど」
「お兄」
兄の謝罪を真剣に聞いていた妹の眼差しは、柔らかくなっていた。
そこにはもう、罪悪感だとか気まずさだとかは一切なく、兄妹特有の慈しむような優しい光が灯っていた。
そして、葉月はこう言った。
「考えすぎ」
「うぇ!?」
浩介は、そんな馬鹿なとでも言いたくなるような顔をして、葉月はけらけらと笑う。
笑いが収まりつつあると、葉月は元気よくソファから立って冷蔵庫へ向かった。浩介はそれを目で追いながら思う。
とにかく、まあ仲直り出来て良かった、と。
葉月は冷蔵庫から、ケーキでも入ってそうな持ち手の付いた箱を持ってきて、テーブルの上に置いた。
「まぁ、あれですよ、昨日の事はこれで手打ちということで」
言いながら葉月は持ち手を解いて箱を開けた。
二人で中を確認する。
「これは、シュークリーム?」
「そ。ケーキは流石に高すぎるし、これくらいがちょうどいいでしょ?」
何故か葉月は得意げな顔を見せてくる。
こいつには敵わないな、と思うのであった。