#62_暗君
禍々しい巨大な怪物は、土煙を上げて大地を我が物顔で這う。
首の高さが城壁を優に超えていて、体当たりだけで壁は壊されてしまうだろう。
首の一つが見るからに毒だと判断できる紫色の霧を吐き続け、周囲百メートルほどが毒の霧に犯されていた。
実際に目の当たりにするとプレッシャーは尋常ではなく、意気が挫かれそうになる。
浩介が人を超越した力を行使できるからと言っても、心の強靭さまで人を超越したわけではない。
呆然と立ち尽くす。
「(こんなのどうやって相手にしろっていうんだ……俺の手には余り過ぎる)」
まき散らす毒のフィールドのせいで接近できず、せいぜいが石を投げつけるくらいしか思い浮かばない。
拳大の石を全力で投擲したとて、あれほどの巨体にどれほど効果があるのか疑問である。
先ほど芳賀に連絡したが、恐らく自衛隊よりもヒュドラの方が先に王都へたどり着いてしまうだろう。
ヒュドラに対して浩介はあまりに無力過ぎた。
「何とかできませんか?」
浩介の創造する刀は残念ながら生物には効果はないと言っていた。
これまで試したことは無いので本当かどうかは分からない。
それを確認する意味も込めて、刀を創造して柄を逆手に持つ。
やり投げの要領でヒュドラに向けて放つ。
「ふっ!」
音速以上の速度で投げられた刀は、ヒュドラの胴体へ向かって一直線に空を切り裂いて突き進む。
瞬く間に刀の切っ先はヒュドラへ到達した。
しかし、傷を与えるどころかヒュドラの体に吸い込まれていった。
何事もなかったかのように移動を続ける大蛇。
「くそっ。やっぱりビーストの類だったか……」
「どうしてですか?!命中したように見えましたのに……」
「俺の刀は生物には効果がないってことだ」
「そんな……他に何かないのですか?」
首を振って否定する。
だが王女の瞳はまだ諦めていない。
遥か遠くに米粒ほどの大きさに映る王都へ目を向けて、浩介に願い出る。
「私を王都へ連れて行ってください!一刻も早く王都の人々を避難させなくては!」
「わかった。だけど、暗殺者に見つかるとマズイからこの外套を羽織って」
有無を言わせる間もなく羽織っていた外套を王女に押し付け、王女も少しの時間も惜しいといった様子で素早く身に纏う。
再び王女を抱えて疾駆した。
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アレイクシオン城、謁見の間。
城内は数時間前までは人の気配がまばらにあったが、ヒュドラ出現の報を聞いた者たちは我先にと脱兎のごとく逃げ出し、今ではほぼ無人状態。
その僅かに残った者は、謁見の間にいた。
玉座には、豪奢な衣装を身に付けた線の細いこの国の王が落ち着きのない様子で座っていた。
隣の座、王妃が座する場所は空席。
王の前には片膝をついて恭しく相対している二人の男。
一人は祭服に身を包んだバルガント、もう一人は立派な鎧をまとってフルフェイスの兜を脇に抱えた騎士。
騎士が王に切羽詰まった様子で報告する。
「現在、西の森から現れたヒュドラは王都から視認出来る距離まで迫ってきています!開門のご命令を!」
ヒュドラの出現は全ての兵士や貴族の知るところとなっている。
だが、混乱を恐れた王は、一般市民には情報を伏せていた。
騎士は困り顔で狼狽えるだけの王を見て、国が滅ぼうという時でも自己保身しか頭にない人間に忠誠を誓っていたのかと後悔した。
この期に及んでもまだ、開門=死という戯言とも思えるバルガントの言葉を信じ、民の命より己の命を選んでいる。
民を救うには、王を無視して開門させるしかないかと思った時、王が震える声でバルガントに話しかけた。
「バルガント、き、貴公はどうするべきだと思うか?」
「恐縮ですがアレイクシオン王、私は一介の他国の司祭に過ぎません。預言を受けた大司教の命で王をお救いさせて頂いた過去はございますが、さすがに国の命運を左右する発言は差し控えさせていただきたく存じます」
澄まし顔で言ってのけた。
国王の頼みの綱はバルガントだったようだが、遭えなく期待は散った。
諦めきれない王は、縋るようになおも食い下がる。
「そ、そのような事を申すな。余は貴公が頼りなのだっ。そ、そうだっ。な、何か新たな預言はなかったか?なんでも良い、思い出せ」
バルガントは思い出そうとする素振りすら見せずに、間髪入れずに首を振る。
「申し訳ありません。大司教からも、主神マリアスからも私には何も」
「何とかならぬかっ!」
その大声は癇癪に近かった。
かしずく二人は立場は違うが、国王に何を言っても話は進まないというのは共通認識になった。
国王の荒い息だけが謁見の間に響く。
それから数秒もせずに乱暴に扉が開けられ、兵士が慌てた様子で新たな報告を持ってきた。
「緊急事態です!ヒュドラの接近に気付いた住民が、東門とこの城に押し寄せてきています!」
「民には知らせておらぬはずではないのか!どこから漏れたっ」
「地鳴りが王都内にも響いたため、それが原因かと思われます!」
「ああ、なんという事だ……」
玉座に座ったまま頭を抱えて項垂れた。
民草の命を何とも思わないような発言だった。
完全に王に失望した騎士が決断を迫る。
「我が王よ、選ぶ道は二つ。東の城門を開放して民の命を守るか、このまま何もせず破滅するか。もう時間の猶予はありません、ご決断を」
「そんなの分かっておるわ!だが、門を開けてしまえば余が……」
王の頭の中はずっと同じ内容が堂々巡りをしていた。
この王は死ぬまで判断を下せぬと悟った騎士は、ついに王を見限る。
黙って立ち上がり、その無礼を詫びることなく謁見の間から出ていこうとする。
「な、なんだ、どこへ行く!余に断りもなく出ていこうなど無礼だぞ!」
こんな時でも礼儀作法について咎める王。
場違いな言葉を騎士は背で受け、首だけで振り返る。
騎士が王を見る目は、下衆を見るそれだった。
「俺が忠誠を尽くすべき王はここにはいない。喚くなり叫ぶなり勝手にするがよろしい」
「ひっ!」
これまでの人生で怒りを向けられたことのない王は怯え、騎士が報告に来た兵士を連れ出すのを止められなかった。
バルガントも頃合いかと見定め、この場を去る言葉を王に告げた。
「それではアレイクシオン王、これにて私も失礼させていただきます」
「だ、だめだ、貴公は残れ!余を支えるのだ!」
「何か勘違いしておられるようですね。私は預言に従って貴方を救いましたが、私はこの国の民でも貴方の家臣でもありません。
私に命令を下せるのは猊下のみ。弁えていただきたい」
「で、では今から貴公はこの国の民となれ!それならばっ」
「……世迷言を」
そう吐き捨てると、バルガントも謁見の間から出ていく。
必死に呼び止める王の声が虚しく響いた。
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バルガントよりも一足早く謁見の間から退出した騎士は、廊下を足早に移動しながら兵士に命令する。
「これより南と東門を開放する。落ち着いて避難するよう王都内の全住民に通達しろ。私は東門の開門準備を進める」
「はっ!」
駆け足で王城のロビーから外に出ようという時、向かい合うように外からロビーに入って来る二つの人影が現れた。
混乱に乗じて宝物を狙う曲者かと思い、背に携えた剣を抜いて構える。
「誰だっ!」
逆光になって騎士には曲者の顔が見えなかった。
剣を向けられた侵入者は、歩み出て外套のフードをめくって顔を見せた。
「私です!」
その顔を認めた途端、驚愕しつつも心の底から安堵した表情を浮かべて、構えを解いた。
「セレスティア殿下!ご無事でしたか」
「ええ、こちらの御仁のおかげでどうにか」
「そうでしたか。殿下をお守りし、連れ戻してくれた事に感謝する」
自己紹介の時間すら惜しい。
浩介は騎士へ目礼するだけに止めた。
騎士も言葉短く感謝を述べる。
「それで、父上はなんと?」
「ただ嘆くだけで、最後まで門の解放には賛同していただけませんでした。殿下には申し訳ありませんが、私はもう彼を王と仰いでおりません。
これから門を解放し、住民を避難させますが宜しいですか?」
「そのために私は来ました。お願いします」
「はっ!殿下もお早く避難を。民衆はヒュドラの迫る西門とは反対の東門に殺到しています。一方、南門は混乱が少なく、円滑に脱出できるでしょう」
「北門は?」
騎士は首を振って芳しくないと伝えた。
「北門の先は山岳地帯、その先は海と、ヒュドラがそちらへ向かえば逃げ場がありません」
「王族専用の避難通路を使用してもらいましょう」
「それも難しいでしょう。通路の出口はヒュドラが通った道の上です。毒が充満していると思われます」
「……そうですね、分かりました。もう大丈夫です、早くお行きなさい」
「はっ!」
すぐさま駆けだそうとした騎士を慌てて呼び止め、一つ尋ねた。
「あ、待ってください!バルガントは今どこに?」
「恐らく謁見の間かと」
「ありがとう」
王女は頷いてから騎士を送り出し、浩介と共に謁見の間に向かう。
途中、浩介はこんな状況下だというのにバルガントを探す理由をセレスティアに尋ねた。
「ここでバルガントを捕らえておかねば逃げられてしまいます。自国に匿われたら、私たちは手出しできません。バルガントの企みを皆に知らしめ裁くには、ここで何としても捕まえねばならないのです」
「なるほど」
そういう所まで思考が行き届かないのが、辻本浩介という人間である。
年もある程度重ねているが、基本的に複雑な事は苦手だ。
それに比べやはり王女ともなると、そこまで考えが至るようになるのかと感心しながら後ろを付いていく。
程なくして、ひと際大きい扉が見えた。
王女は歩みを緩めることなく扉を乱暴に開け放つ。
広間にいるのはただ一人。
奥の玉座で項垂れていた王は何事かと顔を上げたが、セレスティアを見た途端、顔に生気が戻った。
「セ、セレスティア!今までどこに行っていたのだっ。いや、今はそんな事よりお前の知恵を貸してくれっ」
行方不明だった娘が帰ってきて驚いたのも束の間、すぐに縋るような目をセレスティアに向けた。
対して王女は、玉座に座る自分の親を風景の一部としか認識していないように一瞥だけすると、すぐに周囲にバルガントがいないかと目を配る。
どこかに潜んではいないかと目を光らせて、父親を見ずに言う。
「父上、バルガントはどこに?」
「そ、それよりも余も国も死なずに済む方法を……」
「ここにはもういないようですね。他を探しましょう……その前に父上、一つ伺いたい事があります。王都の門を解放しないのですか?」
「そ、そのようなことより、余と国の事を」
「行きましょう、コウスケ」
セレスティアは、まだ王が言葉を言い切らぬうちに踵を返した。
王女は足早に謁見の間を後にして浩介もそれに続いた。
さすがにあの対応はどうかと思った浩介は、三階のバルガントの部屋を目指す王女の後ろを歩きながら口を出す。
「いいの?生きるか死ぬかって時に、自分の親なのにあんな接し方で」
「王というのは、親である前に王であらねばなりません。己の事しか眼中にないのであれば、あれはもう王に非ず。己が命の為に民に死ねと宣う人間を、私は父とは思いません」
「……難しいな、王族っていうのは」
「そんな事はありません。あれは王になるべき人間ではなかったというだけの話です」
「そう、か……」
確かに、そうかもしれない。
彼が王ではなく一般市民であったなら、そのような考えを持っていても誰から咎められる事もなかったはずだ。
この親子の不幸は、王族として生を受けてしまい、他国に付け入る隙を与えてしまった上にヒュドラという災厄に見舞われた事。
生まれが違っていたら、このような悲劇も起こらなかったのだろうと、詮無いことを思ってしまう。
王女が裏庭側の窓へ顔を向けると目を見開いた。
「バルガント!」
浩介も急いで窓の外を確認すると、裏庭を歩くバルガントの姿が見えた。




