#135_世界の終りの始まり
紫の聖石輝く狭い小部屋の中で吹き荒れた暴風は、人のシルエットを成すとピタリと止んだ。
が、そのあやふやなシルエットからは風が漏れ出している。
さわさわと頬を撫でる風は心地よく感じるが、発生源は邪悪な笑い声で喉を鳴らしている。
不気味な風。
風のシルエットを生み出したアリスは、気を失ってその場に倒れ込んでしまった。
サンドラが憎々し気にシルエットを睨み、しかし同時にその目には恐れも見て取れる。
それはまさに、仇敵に対する畏怖。
「ヒトガタっ……!」
ヒトガタと呼ばれたシルエットを前に、女性とサンドラはアリスを気にかけられる余裕がない。
敵意を剥き出しにして身構える。
「今更蘇って何をしようというのかな。まさか、二万年前の続きをしようっていうんじゃないよね」
女性が気丈を着飾っているのは、引き攣った頬を見れば明らかだ。
ヒトガタもそれを当然見透かしており、茶化す様に言う。
「これはこれは、懐かしい顔が揃っているではないか。まさか貴様らに歓迎される日が来ようとは。それだけでも長い年月を待った甲斐はあるか」
「寝起きにしてはよく頭が回るじゃないか。でもまだ寝足りないんじゃない?二度寝したらどうかな」
「お気遣い痛み入る。が、私を呼び起こしたのは他でもない、貴様たちが贔屓にしている人間どもだ。ならば、その願望を叶えてやるのが私の責務。そも、彼らが望まなければ私が目覚めることはなかったのだ。
私を敵視するのはお門違いだ」
「アンタはやる事の度が過ぎるんだ。大人しく黙ってこの世から消えるか、もう一度封印されて欲しいんだけどね」
「これは異なことを。それでは人間たちの願いを叶えられないではないか。慈悲深き神と崇められているからには、人類に慈悲を与えるのが責務。実に神らしいだろう?」
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話だけを聞けば、尊大な神が降臨したように思えるが、この世界の全人類の本能はこの声は危険だと警鐘を鳴らす。
聖マリアス国の兵士全員も例外なく凶兆と恐れる中、大司教だけは驚喜した。
「やはりこのお声はマリアス様で間違いないのだ!皆も聞いただろう、慈悲深き神と御自らお示しあそばされたっ。我々の戦いが神の御心に則ったものであると証明された今、恐れるものはない!奮い立てっ」
拳を握り振り上げ目を血走らせ、口角泡飛ばしながら檄を飛ばすその全身は異様な驚喜に満ちていた。
マリアス神と疑わず叫ぶ姿に、兵士たちも少しずつ感化されて喊声が上がり始めた。
が、神と断じていた者がまるで大司教の言葉を聞いていたかのような一言を付け加えた。
「ああ、すまない言葉が足りなかったな。正確には、私が気まぐれで作った虚像の神が崇められている、だな。実に愉しませてもらったよ。存在しない神を二千年以上も崇拝し続ける人間の信念というのは、呆れを通り越して賞賛に値する」
「……は?」
勇往邁進と決起して振り上げた数多くの腕が僅かに下がる。
耳を疑う言葉。
信仰心の高い一般兵にとって、人生をかけて信じていたものが嘘っぱちだったという話。
生まれた時から教会へ足繁く通い、教会に牙を向ける者には慈悲の心を持って征伐してきた。
その行いの全てをマリアスに捧げ、死後はマリアスの元へ逝けるようにと。
そんな神など最初から存在していなかった。
マリアスは虚像で実在しないと彼の者は言う。
これまでずっとマリアス神の教えに従ってきた者は皆、何かの冗談かと疑う。
「そんなはずはない。だったら、教皇様の預言の説明が付かないじゃないか」
「そうだそうだ、教皇様は他国の水面下で進行していたマリアス教への襲撃作戦を、預言を基にしてそれを阻止されたではないか!他にも我らを害しようとしてきた者たちの企みを預言の力で未然に防げた」
抗議の声をあげる。
というより、真実かどうかは関係なく、自分たちの信じているものは確かなものなのだと信じたかっただけなのかもしれない。
前教皇が成した預言の奇跡を列挙し、多くの兵士に信仰の熱が生まれた。
やはりマリアス様はおられる、それが真実だ、と火照った脳がマリアス虚像説を否定する。
大司教も追随して声を荒げて叫ぶ。
「その通りだ諸君!聞こえてきたこの声は、マリアス様がお与えになった試練。我々の想いを試されておられるっ。惑わされるな、この悪魔の囁きを乗り越えた先にこそ、真のマリアス様のお慈悲が給われるであろうっ」
これで何度目だろうか、喊声が上がって士気が戻る。
そこへ例の声がした。
「いやはや、ここまで妄信が過ぎると清々しい」
どういう理屈か、彼らの言葉は届いていた。
大司教は首を左右に巡らせて周囲を睨みつけながら声の元を探す。
「どこだ、どこにいる!武力では敵わぬからと野次を飛ばして気晴らしとは卑怯極まりないぞっ」
「私としては、貴様ら人間が信じようが信じまいがどうでもいい。話したのは、余興の始まりに丁度いいと思ったからに過ぎん。それよりも、貴様らの願望が叶えられるのだから歓喜に打ち震えたらどうだ?」
「先ほどから言っているその、我らの願いというのは何だ!バルガント奪還の事を言っているのかっ」
「告げてしまえば、貴様らは自らの願いを否定するだろう。私としては、願望が何であるかを教えずとも何も問題はないだが、それこそせめてもの慈悲だ。だが、簡単に教えるだけでは面白くない。ゲームをしよう」
何故か大軍勢の全ての人間は、敵と定めたものの声に耳を傾けていた。
いや、この大地に生きるすべての人類が聞かずにはいられなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
聖石輝く部屋では、変わらず女性とサンドラは一時たりとも相手から目を離さない。
ここまで黙って大司教とのやり取りを聞いていたが、つい余計な口を出してしまう。
「随分とお優しいじゃないか。何か悪い物でも拾って食べたのかな?」
「哀れな子羊には、これくらいの情けが丁度いい」
ヒトガタは彼女の言葉に短く返した。
余計な口を挟まれては興が削がれる、そう示すように間を置かずにヒトガタは話す。
「まず、私は二万年前にこの世界の大地、そして生物に対して殺戮の限りを尽くした。今の貴様たちに分かり易く言い換えれば、永業の魔物が私だ。
人類絶滅まであと少しという所で、この女をはじめとした数名の者たちに阻止された。
この女らは私を完全に消滅させたと思い込んでいたようだが、私の欠片は塵にも等しいほどだがこの世に僅かに残った。
それからの長い年月この世界を見てきたが、今日までずっと人間は何度も同じことを繰り返し、それが種としての本能なのだと悟った。
そして私はいくつかの要因が重なった時、手を差し伸べてやろうと決めた」
その、いくつかの要因が重なって永業の魔物は復活してしまった。
サンドラは一つ思い至った。
「まさか、そこの娘か!」
「一つは。だが、その少女をこの場に導く要因が必要だろう?では、それが何かという事だが……」
ヒトガタには目も口も無いはずなのに、どうしてかセレスティアを見て嘲笑しているような気がする。
絶対的支配者を前にしているような恐怖を感じていた彼女の声は、震えを抑えきれていなかった。
「私、ですか?」
機嫌を損ねれば殺される、そう怯えながら声を絞り出した。
「正解だ。と言いたいところだが、それだけでは足りぬ。直接手引きしたのはこの国の女王だが、そこに至るまでの経緯を遡れば正答を導き出せるはずだ。
全人類の中で、その要因の一つでも分かるものは答えるがいい」
「アンタの遊びに付き合う義理はない。今度こそ大人しく無に還りなっ!」
問答無用とばかりに、女性は会話中ずっと練り上げていた力を巨大な光の玉に変え、それを更に槍の形に変えると渾身の力で投擲した。
「おちおちゲームもさせてくれぬとは、無粋な女よ」
苛立つ台詞とは裏腹に、口調は穏やか。
ヒトガタは虫を払うように手を振っただけで、光の槍は霧散した。
「くっ、駄目かっ……」
「さて、ここまでが問題文。
正解できれば手心を加えてやろう。不正解や回答できなかった場合、私が答えを教えるごとに貴様らが魔物と呼ぶものたちを五万体呼び出そう。
最初の場所はそうだな……まずは、聖マリアス国。そこが相応しかろう」
標的が自国と聞かされた大司教は肩を震わせた。
「……ふっ、ふっはっはっはっ!いくら威張って見せたところで、最後は底が知れたな悪魔っ。我が国に教皇が不在だったのは先日までの話。
今はどこにおられるか知らないが、確かにその座を継承した者が存在しているっ。つまり、我が国に魔物が入り込む隙など在りはしないのだよ、残念だったなっ」
勝ち誇った笑いでヒトガタの落ち度を嘲る。
戦場の空気がそうさせたのか、本国にいた時のような怜悧さは失われていた。
聖騎士たちは白い目を向けているが、一般兵の大半は大司教の感情を露わにして怯むことなく敵に立ち向かうその姿に心打たれ、意気揚々に大司教を称える。
教皇の崩御を一般に公表しなかった事実を見落としたまま。
シャルフがその光景を見て感じたままの印象を口にした。
「このまま新しい宗教でも作れるんじゃないか?」
「信仰の在り方についてとやかく言う気はねえが、熱に浮かされてるだけだろ」
「今はそんな事は問題ではない。大司教の口から出たあの言葉。兵たちは気付いていないが、我らが欺かれていた何よりの証言。後で問い詰める必要がある」
目を合わせて頷き合うが、カイラスには何のことだかさっぱりの様子だった。
呆れたシャルフが説明する。
「大司教がこっちに合流する直前、広場で演説をしたと聞いただろ。
本来、教皇が崩御したとなればその場で大々的に公表しなくてはならない話だが、最後までガルファと修道士見習いの少女の誘拐だけに焦点を絞っていて、一切その件には触れていなかったらしい。
つまり、ここに至るまで大司教は教皇の崩御を隠蔽していたんだ。何か裏があるのは確実だろうね」
「なんだとっ?あの野郎っ、信者を騙してたってのかっ」
遥か前方の空を見上げながら優越感に浸っている大司教に、聖騎士たちは賊でも相手にしているような眼差しを向ける。
忠臣と信じていた存在にそのような目を向けられていると気付かないまま高笑いをしているが、脳裏に響いてくる次の言葉でそれはぱたりと止むことになる。
「教皇がいれば魔物が近寄れないだと?笑わせる。貴様らが教皇と呼ぶ者らは、浄化装置を作動させるための部品に過ぎない。
浄化装置とは聖石。この世界の生物が死した時に発生する死のエネルギーが魔物へと変化する事を防ぐために作られたもの。
今の私には死のエネルギーを別の世界から調達する事が可能だ。聖石の浄化能力など、今の私には無いも等しい。
もう一度問う。この状況を作り出した要因が何であるか、一つでも答えられる者は口に出すといい。」
「で、でたらめを言うなっ!そんな神でもない貴様が、出来るはずはないっ」
魔物を意図的に呼び出すなど荒唐無稽に思えたが、同時に心のどこかであの言葉は本当かもしれないとも思っていた。
それでも戦場に立ったことで気分が高揚し自制が利かず、根拠もなく強気に出る。
嘘つき呼ばわりされたヒトガタだったが、苛立ちを見せるでもなく憐れみを感じさせる声で言った。
「そうか。信じぬならば仕方あるまい。貴様が閉じ込められているその中に呼び出せば、それが真か嘘か、骨身に滲みるだろう」
言い終えると同時に大空壁の内側に異変が起こった。
地上、中空、上空の至る場所で直径二メートル程の漆黒の渦が音もなく無数に現れた。
「な、なんだ、これは?」
大司教、聖騎士兵士問わず、誰もがそう呟いたあと渦の中から細く白い何かが伸びてきた。
骨だった。
他の渦からは筋骨隆々の獣の腕や獅子の顔が現れた。
それらは全て、誰も遭遇した事のない魔物たちの群れだった。




