#134_開け放たれたパンドラの壺
アルスメリア城地下、巨大な宝石の部屋。
セレスティアは声の出せない少女に、宝石の前の石板に手を置くように説明を始める。
「えっと……そういえばこの子の名前、聞いてませんでした。なんと呼べば……」
呼び方に困ると、少女は何やら指で床をなぞり始めた。
もしかして、と思って屈む少女の斜め後ろで同じく屈むと、指が描く線を目で追った。
「あ……り……す。アリスって言うのですね」
アリスは振り返ってセレスティアへ向けて屈託のない笑顔で頷いた。
自然とセレスティアも笑顔になり、少し打ち解けようと無駄話をしてしまう。
「私の名前にもあなたと似た名前が付けられているんですよ。セレスティア・イーリス・アレイクシオン。イーリス、アリス。ね、少し似てない?」
アリスははにかんだような笑顔を浮かべる。
表情の変化を見て、為すべきことを成さなればと気を引き締める。
「アリス。あなたにはこの国を助けられる力があるの。それは兵隊さんのように戦うものではなくて、あなたのお母さまがアリスを守るような、そういうもの」
自衛隊が戦闘を肩代わりしてくれている間はセレスティアは何もすることが無かったが、サンドラと教皇が現れてようやく自分にもすべきことが出来た。
それは今起きている戦いとは無関係ではあったが、国防という点においては同じ。
アリスに手伝ってもらえれば、ゴーストやビーストの発生を抑えられるかもしれない。
これまで突発的に出現する魔物は、王国や貴族が派遣する傭兵や兵士によって討伐されてきた。
甚大な被害こそ出ていないが、それでも怪我人や命を落とす者が全くいないわけではない。
国内の貴族がこぞって離反して戦力は激減。今や侵攻する敵軍を止める事はおろか、魔物に対する防衛力も心もとなくなってしまった。
現在の国内の兵士は全て住民の警護および魔物の警戒に割いており、それが全てで余剰戦力などなかった。
「街の外には怖い魔物がいっぱいいるのは知ってる?それをこの国から追い出せる力なの」
この国にも教皇と同質の力が備わるのなら、もう魔物を警戒する必要はなくなり、その分の兵士や傭兵を他に回せる。
セレスティアが保有する兵の総数を考えれば、これは非常に大きい。
「アリスがその力を使えるようになれば街に魔物は絶対に来ないし、みんな安心すると思うの」
こんなのは詭弁だ。本心は醜い。
自分本位の願望のために、まだ物事を深く考えることが出来ない幼いこの子を利用しようとしている。
「お友だちもそうだし、あのお姉さんもすごく喜ぶと思う」
アリスへ放つ一言一言が、全て自分の心に刃となって返って突き刺さる。
国を守るためには、民を守るためには一人の無垢な少女を言葉巧みに誘導するしかない。
この世界にはまだない、トロッコ問題。
大勢の人を救う代わりに純真な一人の少女を犠牲にするか、はたまたその逆か。
セレスティアとしては良心の呵責にさいなまれるが、女王となればそもそも選択の余地はない。
それでも希望はある。
「でも、もしかしたらこの後はずっと辛い毎日になるかもしれない。そうね、このサンドラさんのようにアリスの体に他の人が入り込んだり……だから、無理にしなくてもいいのよ」
サンドラと教皇マリーレイアは一つの体に共存している。
本人たちに自覚はないかもしれないが、今の状態は酷く体力と精神を摩耗するはずだ。
そうなったのは、聖マリアス国の聖石にスピリットというものが存在し、それと同化したことによるものだと聞いている。
ならば、精神体の存在が確認されていないこの国の聖石とならば、この子はこの子のままで変わらずいられるかもしれない。
甘言が口から出る度に心が抉られるが、一縷の望みが叶う事を切に願う。
「?」
まだ幼い頭脳には、一つの体に二つの精神が同居するというのがいまひとつ分からないらしく、可愛らしく首をちょこんと傾けた。
セレスティアが子供と接する機会は街に下りた時だけなので、子供が理解しやすいように説明するのは難事であった。
そこに助太刀が入る。
「まったく、子供の扱いが下手くそじゃのう。見てられぬわ。娘、つまりはこういう事じゃ」
サンドラはセレスティアが言わんとすることを実演して見せる。
「え、わ、わたし?急に代られても……。なんじゃ、相手は同じような年ごろじゃろう。どう言えばよく伝わるか分かるじゃろうて。……ぜ、全然ちがいます、こまります……。とまあ、こんな感じじゃ」
一人二役演じているような姿を見せてから、サンドラは言葉を付け加える。
「娘。おぬしの口を別の人が使う。つまりは、余計疲れる。そして、喋っていない間のおぬしは体も自由に動かせず、勝手に手足が動く。おぬしはそれを見ているしかない。どうじゃ、理解できたかの?」
「……?」
少しは呑み込めたようだが、決断を迫るにはまだ理解が及ばないらしい。
「実際にやって見せた方が良いか。娘、ちと後ろから手を借りるぞ」
そう言ってアリスの後ろに回り、二人羽織りの恰好でサンドラは両手を掴んだ。
そして、手を無造作に動かす。
「ほれ、自分で動かしたいように動かしてみい」
アリスは言われた通り、サンドラが適当に動かし続けている腕に力を入れて思うように動かそうとする。
しかし、力の差がありすぎて自由を取り返せない。
すぐに諦めてサンドラを見上げた。
「おぬしはわしに掴まれた手を自由に動かせなかった。その力を手に入れれば、それが当たり前になってしまう。それでも良いかとあの者は聞いたのじゃ」
「……」
アリスは自分の手を見て何か考えているみたいで、時折ちいさな指を握ったり開いたりして動かしていた。
その様子をセレスティアとサンドラは黙って見守り、やがて少女は頷いた。
「本当に、いいのね?」
再度頷いたその目は無垢なままで、覚悟の欠片も窺えない。
リスクを理解していないようにも見えるが、幼い子供に今以上に理解させるのは無理だろう。
そして本来、このような重大な話はまず親に説明すべきなのだが、家にはいなかった。
どこかに避難しているのかもと思って貴族の館へ一つ一つ足を運んだが、とうとうここに来るまで見つけられなかった。
アリスに親はどこにいるのかと尋ねても、首を傾げるだけ。
ゆえに、この国の行く末を左右し得る決断を幼子に委ねるしかなかった。
そんな罪悪感と葛藤していると知らないアリスは、同じ目をしながらもう一度こくりと頷いた。
「……本当に分かっておるのか疑問じゃが、親が見つからぬのではもうこれ以上の問答は無理じゃろう」
「はい……」
本当はそんな体にさせたくはない。
でも、そうしなければ例え聖マリアス国が撤退したとしてもその後、国力の激減したこの国がどうなるのか分からない。
少しの危険も排除しなければ、戦えるものが少ないこの国はちょっとしたことで滅びてしまう。
だから、やってもらわなければならない。
心苦しくて顔を歪めてしまうが、ついにアリスに告げた。
「それでは、あの台座の上の石板、平べったい石の上に手を置いて」
こくりを頷いて、小さな歩幅で歩いていく。
代われるものなら代わってあげたいと、その背中を見て思う。
石板の前までたどり着いて振り返った。
これを触ればいいの?と訊いているようだ。
セレスティアは頷いた。
石板に手を乗せるべくアリスが腕を持ち上げた瞬間、強烈な光が部屋を覆った。
「な、何っ?!」
「くっ、どうしたというのじゃ……いや待て、この光はよもやっ!」
すぐに光は収縮し、その中心には浩介と共にいた女性が立っていた。
その姿を見てサンドラは驚きに目を見開いた。
「主様っ!封印を破られたのですかっ!」
積年の願いが成就したかのような喜びを見せたサンドラを無視して、主と呼ばれた女性は現れるなりすぐさま切羽詰まった声で叫んだ。
「っ!だめっ、その子を止めてっ!」
その子と言われ、二人は同時にアリスへと振り向いた。
ぺちっ。
同時に、小さな手のひらが冷たい石に触れる音が小さく聞こえた。
「?」
女性の制止は間に合わず、アリスの手は石板に乗った。
途端、少女の体は薄く青く光り、その身から暴風が発生し、セレスティアは吹き飛ばされて壁に打ちつけられた。
「かはっ!」
サンドラと女性は自身の持つ能力でなんとか耐え凌ぐ。
「主様っ、これはどういう……っ!」
「一足遅かったみたいだね……サンドラちゃんも良く知ってる、アイツが出てくるよ」
「アイツ?」
一瞬、女性が誰の事を言っているのか分からなかったが、この暴風のように吹き荒れる力の奔流の正体に思い至ると、すぐに悪夢でも見ているかのように顔色が青ざめた。
「まさかっ!アレは確かにこの世から消し去ったはずではっ」
「しぶとく一部分だけ、この世界にしがみついてたみたいだね」
「っ!では、わしがあの娘を見た時に感じた違和感はアレの残滓だったと……」
己の失態に絶望する。
少女から発する暴風はとぐろを巻いて二人の前に集約する。
過去に消し去ったはずの存在が今、復活しようとしている。
いや、復活した。
その暴風の渦は人のシルエットとなり、声を発した。
「くくっ、本当に人間とは愚にも付かぬどうしようもない害虫から変わらぬのだな。せっかく長い猶予を与えていたというに、まるで進歩が無い。まだ塵芥の方が余程存在価値がある」
その声は耳に届いているようにも聞こえるがその実、空気を伝っていない。
つまり、音ではなく脳へ直接発信していた。
浩介たちが使う念話と同じ要領だが、その呼びかけた範囲は尋常じゃない規模だった。
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王城の客室、辻本夫婦の様子。
「何?この声、どこから聞こえるの?」
「……葉月、無事でいてくれ」
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アスルメリアの四つの門付近に待機する自衛隊員たち様子。
「通信か?」
「いや、周波数に感無し。どうなってるんだ……」
その中で伍代と橋本は顔を見合わせると、互いの脳裏に浮かんだものに間違いは無いと確信する。
「何者なんだ……」
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聖マリアス国、薬屋の店内の様子。
「へい、いらっしゃ……なんだ、空耳か。にしては、やけにはっきり聞こえたが……」
店のドアを乱暴に開け放って、一人の婦人が飛び込んできた。
「ちょっとちょっと!今の聞こえた?なんだかみんな混乱してるみたいだよ」
「そんな大声でもなかったよな……」
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アレイクシオン国内、聖マリアス国軍。
「なんだ、今の声は?」
「おい、お前なにか言ったか?」
「いや。そもそも、俺あんな事言わねえよ」
兵士たちは口々に、お前か?俺じゃないと言い合う。
そんな中、大司教だけは驚喜に満ちて天を仰いでいた。
「これはまさしく……マリアス様のお声に違いない!我らの信仰が届いたのだっ」
「本当かねぇ。慈悲の神様があんなこと言うとは思えねえけどな……」
カイラスは小声で懐疑的に返し、他の聖騎士たちは大司教を横目で見遣るだけだった。
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草原の中。
「今の声、どこかで……」
突然話しかけられたような声がして浩介は足を止める。
葉月にもこの声に心当たりがあったのか、浩介よりも先に思い出した。
「お兄っ!あれだよ、カラオケで自衛隊の人から聞かせてもらった、あの声っ」
「ああっ!そう、それだっ」
喉のつっかえが取れたように得心したが、新たな疑問が浮かび上がる。
葉月も同じことを思ったようだ。
「だけど、どこにいるんだろう。近くで聞こえたような気がしたけど」
先程の聞こえ方には覚えがある。
「念話だな。テレパシー。だけど、さっきの声は俺たちに向けたものじゃないよな……」
一人ではなく、多数へ向けての念話。
明らかに人類を敵視した言葉。
生まれて初めて感じる、明確な嫌な予感。
「葉月、もう少しスピードを上げる」
「えっ」
浩介は一刻も早く女性の元へと行かなければならないと感じ、葉月を抱えて草原を疾く駆けだした。




