#130_不吉な予兆
自衛隊の救護天幕のベッドに浩介は寝かされていた。
サンドラからの説明ではただ無理やり眠ってもらったとだけあったので、とりあえずは聴診器は当てた程度にしてベッドに移動させた。
それから戦闘という名の一方的な蹂躙が始まって程なく経った頃、ベッドの横で寛いでいた柴犬が何かに気付いたように耳をピクリと動かして立ち上がり、何かを警戒しているように呻く。
「グルルゥ……」
睨む方角は戦闘が行われている方角ではなく王都。
ベッドの上の浩介に向かって何度も吠えるが、目を覚ます気配はない。
外にいたドクターは犬の様子がおかしいと気付いて天幕へ入った。
「そんなに吠えて、一体どうしたというの。お腹が空いたのかしら?とりあえずエサを持って来ましょうか」
犬に慣れていないドクターは、どうしても親戚から預かった赤ん坊のあやし方にてこずった時に似た対応になってしまう。
まずは餌を与えてみようと、どこかに犬でも食べられそうなものは無かったかと他の天幕へ向かう。
ドクターの後を追うように犬も共に天幕を出たが、すぐに別方向へ走った。
ほどなくして浩介のいる天幕へ最初に戻って来たのは犬だった。
しかも、何故かキャスター付きのストレッチャーを咥えて引っ張ってきた。
それを浩介のベッドへ横付けすると、犬はベッドの上に飛び上がって浩介の体を鼻先で押しやってストレッチャーへ転がした。
そして再び天幕を抜け出し、今度はどこからかロープを見つけ出してきた。
それをストレッチャーの下に置いた時、ドクターが飯盒に豚肉を入れて戻って来た。
「はーい、お待たせ。あ、水も必要だったかし……え、なにこれ、どういう状況?」
戻っくると、いつの間にかストレッチャーが天幕の中にあり、しかもベッドで寝ていたはずの人物が乗っている。
彼を動かすようにと命令が下ったのだろうかと考えたが、それではドクターに連絡が回ってこないのはおかしい。
すぐに脳裏に浮かんだのは、誰かの良からぬ企ての最中だという事。ドクターが戻ってきたので中断し、どこかに身を潜めているのではないか。
音を立てないよう飯盒を床に置き、そのまま懐の拳銃に手を伸ばす。
狭い天幕では隠れられる場所は限られていて、定番のベッドの下は飯盒を置いた時に覗いたが不審者はいなかった。
もう一か所は、心電計、バイタルチェックに使う人ほどの大きさしかない医療用の機械の裏。
半長靴の歩く音を立てないように、慎重にゆっくりと近づいていく。
ドクターは元は大学病院の医師だったのだが、此度の異世界遠征の人員調整のため、災害派遣特別人事法案の対象人物に選抜されて自衛隊の医官に引き抜かれた。
なので、銃の扱いは素人。文字通り、お守り程度の意味しかない。
心臓をバクバクと鳴らしながら、機材の後ろを警戒する。
あと一歩という所までくると、ええい!と意気込んで素早く裏を確認する。
「……あれ、誰もいない?」
不審者はいなかった。だが、今度は彼が移動した現象の謎が深まる。
銃を仕舞いながら浩介の方を向いて怪訝そうに首を傾げる。
「一体誰がこんなことを?」
「ワンッ!ワンッ!」
いつの間にか浩介の上に犬が乗っていた。
まさか、と有り得ない妄想に失笑して、犬を地面に下ろそうと手を伸ばした。
「ほら、あんまり病人にいたずらしちゃだめでしょ。はいはい、下り……」
犬を掴むはずだったその両手は空を切った。
「……え?」
犬が忽然と姿を消した。腕の隙間を潜り抜けたとか、そんなものではない。
それこそ、あり得ない現象に思考がフリーズして体が固まる。
夢でも見ていたのか?それとも私はずっと犬の幽霊を相手にしていたのか?
「ワンッ!」
ショートしそうな脳に消失した犬の鳴き声。
でも目の前にいない。
何かの音を聞き間違えたか。
「ワンッ!」
もう一度聞こえた。どうやら幻聴ではないらしい。
聞こえてきた方向は、天幕の入口。
目を向ける。
「ワンッ!」
そこに犬はいた。
なるほど、消えたというのは勘違いで、ほんの少し目を離した隙に移動していただけだったかと、多少は無理がありそうだがそう自分を納得させた。
犬はつぶらな瞳で何かを訴えているようにドクターを見据えながら吠える。
犬はロープを咥えてストレッチャーに近寄り、浩介の頭の下に移動して器用にストレッチャーの柵にロープを潜らせた。
ロープの両端を口に咥えて捩る仕草を見せてから、ドクターへ向けて吠えた。
その行動の意図するところを考えて口にする。
「結べって、言ってるの?」
「ワンッ!」
合っているらしい。
犬はロープから少し離れた場所でまた吠える。
早くしろと急かしているのだろうか。
結ばせて何をしたいのかさっぱりだったが、所詮は犬のやることなので大事にはならないだろう。犬の要望通りにロープの端と端を結んで一歩退く。
ストレッチャーに牽引用の輪っかが出来た。
その流れで今度はストレッチャーを激しく揺らし、浩介の体を固定させた。
「まったく気性の荒い子ね。これじゃあ、まるでこの人拘束されてるようじゃない。お願いだからじっとしてい……」
「ワンッ!」
次の瞬間、犬はストレッチャーのロープを咥えると猛スピードで天幕を出ていった。
「……へ?」
雷の如く、瞬く間に遠くへ走り去る犬とストレッチャー。
現実離れした光景に呆けたのも束の間、この後すぐに自分の身に降りかかるだろう災難に底冷えすると、慌てて犬と浩介の後を追って外に出た。
「ちょ、ちょっと待ちなさああいっ!これじゃああたしが怒鳴られるじゃなあああいっ」
しかし、既に姿は遥か彼方。
悲痛な叫びは空へ消え、ドクターは途方に暮れた。
アルスメリア外壁から少し離れた場所に土嚢を積み上げ、それを一つ目の防衛ラインにする作業を指揮している芳賀の無線に一つの報告が入る。
「どうした?」
「いえ、それが辻本氏を看護していた葉山曹長からの報告ですが、どうにも要領を得なくて……辻本氏が犬に連れ去られた、と」
「貴様なぁ、今がどんな時かも分からないほど脳みそが溶けてるんじゃないだろうな。下らん話で呼び出すな」
心底呆れて大仰に溜め息を吐きながら交信を終える。
それを待っていたかのようにすぐに新たな通信が入り、よもや同じ用件ではなかろうなと冗談を考えながら応答する。
「なんだ?」
「戦闘区域外上空をモニターしていた偵察機から報告です。ベースキャンプよりアルスメリアの西南西、ルクル大森林に向けて高速移動する存在を確認。
HQがデータ解析にかけたところ、その正体は……」
嫌な予感がした。
犬が逃げ出したという報告を聞いた直後にこの報告。
馬鹿馬鹿しいと気を重くしながらも、別方面から同じ内容が確認されては無視できない。
まずはHQの出した解析結果を聞こう。
「犬がストレッチャーを牽引する姿、だそうです」
「……は?」
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グラコスは葉月をリディンらに届けるため、雇っていた狩人と私兵を伴って草原の中をひた走っていた。
「さあ、もうすぐ着きますよ。この娘を引き渡せば、平定後の私の地位は約束されたも同然。待ち遠しいですなあ」
「ふぅ、ふぅ、んーっ!」
「おやおや元気ですねぇ。でもどうせ話せないのですから黙っていてはいかがですか?」
「んーっ!」
馬車の荷台に乗せられてグラコスに監視されている葉月は、両手足を縄で縛られ口には布を噛ませられていた。
その目は気丈に目の前のグラコスを睨みつけている。
本当は泣きたいくらいに心細くて怖いのに、腐った貴族に弱ったところを見られるのはプライドが許さない。
しかし、それも何かの拍子にあっさりと切れてしまうほど脆い状態だ。
それを見抜かれないように、必死に相手を睨み続ける。
ほどなくして、馭者台で馬車を操っていたヤグウルの声が聞こえた。
「到着します。ご準備を」
「うむ」
満足そうに尊大な態度で頷いて立ち上がると、衣装に皺や寄れがないか確認して身なりを整える。
それから一分も経たずに馬車は停車し、グラコスは荷台から出て行って何処かへ歩いて行った。
その隙に、荷台の中を見渡して縄を断ち切れそうなものは無いかと探すが、生憎と余計なものは何一つ見当たらない。
それでも諦めきれなかったが、早くもグラコスは二人の男を連れて葉月の前に戻って来てしまった。
一人はマンガで見るようなコスプレじみた鎧を着た騎士、もう一人は見るからに神官だと分かる衣を纏った男。
「それで、お話し申し上げましたのはこの娘でして」
「確かに見た事のない服装と顔立ちだ。どこの国の者と言ったか?」
「ニホンコク、という異世界から来た者の一人らしいですが、どうにも私は胡散臭いと思っていまして。ただ、王女たちが異常なまでの配慮を見せている者の一人というのは間違いありません。ひっひっ」
大司教は下卑た笑いを無視し、短い間だけ思案すると口の端を吊り上げた。
「そうか、そういう事か。こいつは使える。やはり、マリアス様は我らを見放してはいなかった。リディン、すぐに別動隊を引き戻せ。これで勝てるぞ」
「……承知、いたしました」
リディンは大司教のやろうとしている事が手に取る様に分かってしまった。
聖騎士である前に一人の騎士であるリディンは強い忌避感を持ったが、仕える者の命令であれば従うしかない。
悪感情が表に出ないよう、努めて無感情を装って伝令を手配した。
「しかし、凄いですなあ。聖マリアス国というのは、ここまで広範囲を攻撃できる武器まで開発しておられたとは!」
「グラコス卿、用件はこれだけか?」
何も知らないグラコスの言葉は、大司教をはじめにその場にいた聖マリアス国軍兵士の心を逆撫でた。
大司教は語気鋭く言い放ち、強引に退陣を促す。
「は?え、ええ。それで、事が落ち着きましたら私の処遇……」
「手土産に感謝する。もう下がって良いぞ」
明らかに不興を買ってしまったようだ。ここは早々に退散するべきだろう。
愛想笑いしながら軽く頭を下げて、葉月の乗った馬車だけを残して戦線から立ち去る。
大司教は葉月へ振り返って不気味な笑顔を向ける。
「さて、お前には救国の聖女になってもらうとしようか」




