#110_思い出の家
丑三つ時。
占い師たちは月明りの下、港から伸びる一本の獣道を歩く。
人が使わなくなって久しい小径は、右へ左へと緩やかにカーブを描き小さな林へ繋がり、その先は簡素な一軒家に繋がっていた。
母親はこの道の途中で殺された。
マリーレイアの心を、鋭利な葉やささくれた枝が肌と心に少しの傷を付ける。
でも、そんな小さな痛みだけで我が家へ帰れるのだ。
やがて林を抜けると、小屋を少し大きくした程度のこじんまりした家が見えた。
マリーレイアは足を止めた。
少女が覚えている家の中の最期の光景は、父親が大量の血を流して絶命している場面。
もう大丈夫だ、取り乱したりはしない。
そう思っていたのに、家を前にすると父親があの時のままなのではないかと考えてしまい、足が地面に縫い付けられてしまった。
「……やはり、他を探すか?」
気遣って占い師は提案したが、マリーレイアは弱弱しく首を横に振った。
「他に行くところないかもしれないから、ここが一番いい……」
本当は中を見るのが怖い。けれど、声に震えを混じらせながらもみんなのためにと気を奮い立たせている。
少女を気遣って、シスターが浩介を担いだまま優しく言った。
「私が先に中を確認しても良いですか?」
マリーレイアの顔がシスターへ向く。
「そうじゃな、良からぬ輩が勝手に住み着いてしまっているやもしれぬ。よいか?」
誰かが勝手に住み着いてる。先とは違う種の怖さが生まれた。
マリーレイアはそんな事など考えもつかなかった。
家の中はあの時のままのはずだとそう思い込んでいた。
誰か知らない人が勝手に家の物を使っていたりすると思うと、不気味さと気持ち悪さがこみ上げる。
そんな事にはなっていませんように、と祈る。
「……うん」
シスターはドアの前に立ち、そっとドアを開けた。
蝶番が錆付いた軋む音を立てながらゆっくりと外側へ開き、隙間から中の様子を窺う。
マリーレイアがその隙間から中を覗けないようにシスターは体で遮り、占い師の危惧したならず者が潜んでいないか耳を済ませ、目を凝らす。
ざっと見回すと、長年人の手が入らなかったせいで埃が至るところに目立つ。
さすがに父親の遺体は放置されてはいなかったが、床には広く黒く変色した箇所があり、そこが惨劇の場所だと一目で分かった。
教会は遺体の処理はしたが、他の処理は一切しなかったようだ。
マリーレイアは今のこの家を受け入れることが出来るのだろうかと、シスターは心を痛めながらどう伝えるべきかと頭を悩ませた。
何年も経過してしまった血の跡なので、水で洗い流せたり雑巾で擦って落ちるとは考えにくい。
いっそ床を破壊してしまおうかとも考えたが、住み心地が一気に悪くなってしまう。
下手に誤魔化すよりも、ありのままを伝えた方が良いような気がした。
「家の中に不届き者はいません。変わった所はほとんどありませんので、掃除をすればすぐに住めます」
占い師はシスターの言い方に引っ掛かりを感じて片方の眉を少し上げた。
「ほとんど?という事は、何かあったと?」
「ええ、その……」
言い淀み、申し訳なさそうに盗み見る。
マリーレイアは目を閉じて掌を握りしめ、聞く覚悟が決まると瞼を開けて僅かに声を震わせた。
「……おしえて、ください」
それでもシスターはわずかに逡巡して一度口を開けては閉じたあと、目を合わせて言った。
「父君の流した血の跡が、そのまま残ってます」
「っ」
覚悟はしていてもショックは受ける。
息をすることを忘れた口元に手を当てた。
そのまま何も考えられず固まってしまったが、再び呼吸を思い出すと手を胸の前で握った。
まだ息は少し荒いがパニックに陥るまでは至らず、シスターは安堵した。
「大丈夫ですか?草か何かで覆いましょうか?」
「だいじょうぶ、入ろう」
「……わかった。じゃが無理はするでないぞ」
「うん」
シスターが先に中に入り、続くマリーレイアは静かに目を閉じて息を吸い込むと、決死の思いを持って片足を踏み入れた。
ゆっくり息を吐きだして目を開ける。
窓から僅かばかりの月明りが差す家の中は、思い出の中とは違って温もりを全く感じず、住人であるはずの子を拒絶するようにどこか冷たかった。
窓の桟やテーブル、食器棚に降り積もった埃が過ぎ去った時間の長さを物語り、自分一人だけが世界から置き去りにされたようだ。
「マリーレイア様、一旦出ますか?」
心配する声を聞いて、今は一人じゃないと思い出す。
そして、自分が向き合うべきものは思い出ではなく、乗り越えなくてはならない痛ましい過去の痕跡。
無かった事にしたくても、絶対に変えられない現実に刻まれた証拠。
「……シスターさん、体で隠してくれてるけど、その先にあるんだよね?」
シスターはマリーレイアの視界を塞ぐように目の前に立って、最後の防波堤となっていた。
その守りを自ら取り払おうと声を上げたのだった。
「……はい」
この先に父親の命の残滓がある。
浅く息を吸って深く吐く。
出来るだけ心を静まらせてから言った。
「ありがとう。私にも見せて」
と言っているが、本当にあれを見せても良いものかと不安が渦巻いてなかなかその場から動けない。
こんな子供に、こんな辛いものを見せるのは間違っているのではないか、と。
そんな風に顔を背けて苦悩するシスターの袖を引っ張って目を合わせさせると、マリーレイアはしっかりと頷いた。
いつの間にか一番辛いはずの当人はシスターよりもしっかりしており、観念して彼女を意思を尊重して前を開けた。
窓から差し込む月光が、床に染みついた父親の一部だったものを儚く照らし出していた。
「……パパ」
あれからずっと夢に出てきて、一向に色褪せてくれない最期の光景がフラッシュバックした。
ただ、それだけだった。
意外とすんなり受け入れられた様子に、シスターと占い師の心配は杞憂に終わる。
そのことに一番驚いたのは本人だったろう。
「うん、思ってたよりもだいじょうぶ。じゃあ、掃除する?」
「……そうしましょうっ」
「ワンッ」
ひとしきり覚悟もしていたし、きちんと現実を受け入れるために過去とも向き合ってきたからか、幼さの残る瞳にはもう脆さは消えていた。
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早朝。
聖騎士率いる聖マリアス国の軍は、総員で落とし穴地帯の攻略を始めていた。作業の進捗状況は目を瞠る速さで更新されていく。
その功労者の一人、聖騎士ナナリウス。
彼は兵士を将棋の駒の歩のように横一列に並ばせると、端から順番に歩かせた。
ローラー作戦である。
ナナリウスが何かを察知すると、
「第四部隊、止まれっ!その先だ……第八部隊、止まれっ!前に二つ並んで仕掛けてあるぞっ」
と命令する。すると、言った通りの場所にあっさりと落とし穴が見つかった。
まるで、落とし穴の設置個所が見えているような采配。
昨日の苦戦が嘘のように順調に進んでいた。
そして、日が中天を少し過ぎた頃には、落とし穴地帯を完全に攻略してその向こう側に全軍が辿り着いた。
「ふう、疲れた。今日の俺の仕事、これで終わりで良いよね」
そう言ったナナリウスの声からは覇気が失われていた。
ただ落とし穴の位置を教えていただけだが、その顔は疲弊の色がありありと見える。
「助かった。敵襲のない間は休んでくれて構わない」
「やったぜ~」
着ている鎧も一層重く感じているのだろう、張り詰めていた気が緩んでだるそうに背中を丸めた。
上半身を支える足にも疲労がきているらしく、力ない足取りで後方の荷馬車まで歩いて荷台へ転がり込んだ。
リディンは目の前の広大な平地を鋭く見つめた後、後ろに控えている大軍へ告げる。
「しばらくは罠もないだろう。だが、昨日一日で思い知らされたように敵は一筋縄ではいかない。常に警戒し、細心の注意を払って進軍せよ!」
威厳ありつつも人を惹きつける大音声に兵士たちは応!と答え、ひたすら遮蔽物が一つもない平原を進む。
進む道には罠もないが、目を楽しませるものも一切無い。
それでも兵士たちはリディンの命令通り、鼠一匹見逃すまいと気を張らせて慎重に行軍していく。
結果としてリディンの警戒は徒労に終わるのだが、誰の口からも文句は出なかった。
そのうちに日も落ち、見渡す限り何もない見晴らしの良い場所でテントを張って野営をする。
「で、今どの辺りなんだ?」
焚火の前で腰を下ろし、地図を広げて現在地を確認していたシャルフにカイラスは声をかけた。
「周りに目印となる物が存在しない以上は正確な位置は特定できないが、海岸線と落とし穴があった草原との距離を考えると、恐らくこの辺りだと思う」
どかっと隣に胡坐をかいたカイラスの質問に、広げた地図の一点を指して答えた。
首を伸ばして指の差す場所を見て、ほう、腕を組んで声を漏らす。
姿勢を戻した。
「早ければ明日の昼頃にはこの、アルスって村に着きそうだな」
「ああ、道中に罠が張られていない事を祈るばかりだが」
「大丈夫だろ。草原を抜けてからはここまで何もなかったじゃねえか。多分、やつらが次に何か仕掛けてくるのは……」
目を細めてちらりとシャルフの持つ地図を見遣ってから、神妙に言った。
「この、アルス村だ」
「ああ」
帳の落ちた暗い世界の中、小さくとも力強く燃え盛る薪がぱちんと鳴った。




