#102_少女の過去(1)
そこは、まるで宇宙のように漆黒。
少女の足元には、輝く幾何学模様が彼女を中心に円を描いて、それがメリーゴーランドみたいに回っていた。
目の前には、薄く青く光る靄が浮かんでいる。
いや、この暗黒が満ちる空間では距離感など当てにならない。
それが目の前にあるのか、それとも遥か前方にあって巨大なものなのか判別が付かない。
どちらにしろ、心が空っぽで自身の生死すらどうでもいいと感じている少女には、すべてに興味もなければ関心もない。
それ以前に、その瞳は何一つ視ていなかった。
この暗黒と少女の瞳が宿す暗黒は似て非なるもの。瞳は暗黒を深めて凍り付くほどに冷たい。
「まさか、ここに来るのがあの者ではないとは。少女よ、何があった?」
空間全体に響き渡る声。
剛毅で実直なその声に、少女は何の反応も示さない。
暫く待つが、少女が口を利く気配はない。
「非常に困ったな……」
二言目は弱気な独り言。
次は気まずそうに語り掛ける。
「このままではいつまで経っても埒が明かない。少女よ、すまないが少し記憶を読ませてもらう。責めは後でいくらでも受けよう」
ゆっくりと薄く青い靄が腕のように伸びて、少女の頭を覆った。
瞬間、少女の顔が引っ張られたように上方を向き、そのまま意識を失った。
「ねえ、ママ、これほしい」
「それ昨日も買ったでしょ。ほんと、フルーツが大好きなんだから」
「かってぇ」
「また明日ね。ご飯が食べられなくなっちゃうからね」
「だいじょうぶ、たべれるもん」
夕焼けの中、海沿いの露店前。
小さな娘と母親のよくあるやり取り。
買い物かごを持つ反対の手で少女と手を繋ぎながら、困ったように母親は笑う。
その光景に露店の主人も慣れたもので、微笑ましく行く末を見守っている。
今日は何も買っていかないと分かっている店主に、母親は頭を下げながら娘を説得する。
「マリちゃん、あんまりママを困らせないで。じゃないと泣いちゃうかも」
そう言ってしゃがみ込み、両手で目元を覆ってえーんえーんとウソ泣きを始めた。
小さな体を使って意思を伝えていた少女はピタリと動きを止めて、不安そうな顔になった。
「……かえろ。ママ、かえろ」
「ぐすん、ぐすん、マリちゃん、フルーツはいいの?」
「いらない。ママかえろ」
少女は母親の袖を引っ張る。
母親はウソ泣きを止め、店主へ申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
店主は晴れやかな笑みを浮かべ、右手を振って気にするなと示す。
母娘は他愛ない言葉を交わしながら、郊外から少し離れた場所に建てた我が家に着いた。
ドアノブを回して家の中へ入ろうとした時、目に飛び込んできた有り得べからざる光景が別世界のように見えた。
「……え」
焦点の合わなくなった目でか細く漏れた声。
それに答えるように、家の中から声が聞こえた。
「いやあ、お待ちしてましたよ奥さん。それと、マリーレイアちゃん」
ネジの壊れたオモチャのように、声のした方へ顔を向ける。
背中に剣が刺さって血を流して倒れている男性に、哀悼の祈りを捧げている高位の神官。その隣に立つ一人の聖騎士の姿。
出迎えの言葉は神官のものだった。
「ママ、おうちはいらないの?」
「っ!マリちゃんっ!」
まだ幼い愛娘の声で我に返り、母親は一目散に少女を抱えて助けを求めようと走り出した。
少女は母親の肩越しに家の中の様子を見た。
そして見てしまう。
血で朱に染まる床、背中に剣を突き立てられ倒れていた父親を。
「ねえ、パパいっぱい血がでてる。おいしゃさんにつれていかないと。ママ?」
「マリちゃん……」
まだこんな幼い子にどうやって説明したらいいか分からず、ただ娘の名前を呼ぶ。
直後、走っている母親の背後に聖騎士が現れて何かを振り下ろした。
「ぁ……」
母親は娘を投げ出して地に伏した。
乱暴に地面に落とされた娘は、その痛みに泣き出しそうになった。
「うぅ、い、痛いよ、ママ……ママァ……ママ……?」
いつもならすぐに駆け寄ってきてくれるのに、今は何だか遅い。
どうしたのかと振り向くと、父親とお揃いの恰好で地面を朱に染めていく母親の姿。
ほとんど力の入らないその身は、それでも娘を守ろうと腕を伸ばしていた。
何が起きているのか分からないが、投げ出された自分よりも母親の方がずっと苦しい思いをしていて、それでも自分を求めているのだと分かった娘は、擦りむいた手足の痛みを堪えながら近寄ろうと必死に立ち上がった。
瞬間、母親の伸ばした腕と顔が弾かれたように僅かに上へ仰け反ると、突然眠ったかのように手も顔も地面に付いた。
「すまない」
夕焼けの寂しい光を反射する剣が、今度は倒れた母親の背中に突き刺さっている。
一拍遅れて、少女は理解した。
「……ぅうああああああっ、ママァーッ!ママッ、ママーッ!」
こんなの本当じゃない、夢なんだと思いたくても、周りの草木の匂いや地面の感触、血の臭いと擦り傷の痛みがそれを許さない。
まだ一緒にいたい、まだ抱っこしてもらいたい、まだお話したい、まだ一緒に遊びたい、まだ甘え足りない、まだ……まだ……
感情がぐちゃぐちゃに混ざった慟哭。
聖騎士は少女の背後に回り込んで、涙や鼻水で濡れた歪んで開いている口の中に何かを放り込んで飲ませた。
瞬く間に、少女は眠りに落ちた。
目が覚めた時、そこは知らない部屋だった。
目の前には、人の背丈の二倍近くある緑色に光る大きな宝石。
有無を言わせず無理やり立たされ、宝石の手前にある石の台に手を乗せられた。
すると、宝石が明滅した。
「おおっ、仰る通りでありました」
「疑っていたのか?」
「い、いいえ、滅相もございませんっ。まさか、歴代の猊下選定の場に立ち会えるとは思ってもおりませんでしたので、つい興奮してしまい……」
「お前はこの教団の為、この国の為によく尽くしていた。私はその献身に報いたに過ぎない。今のその地位も自分で掴み取ったものだ、誇れ」
「は、有難きお言葉!」
目覚めたが前後の記憶が混乱し、もうこの世にはいないはずのいつも私を守ってくれる母親の姿を求めた。
「……ママ、どこ?」
手を押さえつけられたまま振り返って母親の姿を探すが、真後ろに立つ大人二人が邪魔でよく見えない。
掴まれている手を振り払おうと力を籠めるが、大人に敵うわけがない。
心細くなって堪らず泣き出してしまう。
「マ、ママぁ……どこ?ママっ……」
ついには大声で母親を求めながら泣き出す。
涙で滲む視界。
世界で一人ぼっちになってしまったのだと思うと辛く悲しくなり、悲鳴に似た泣き声が部屋の中に広がる。
「うるさくてたまりませんな」
「仕方あるまい。私の後を継ぐものとなるのであれば、いくら候補とはいえ多少の強引な手はやむを得ん。この父親も、教団の決定を拒まなければ無駄に命を落とす事もなかっただろうに。しかし、何故母親も殺めた?」
「それは……このやり方を周囲の人間に言いふらされては困ると思い、咄嗟に……」
教皇はため息を吐き、それとなく諫める。
「もう少し落ち着いて対応してもらいたかったが、起こってしまったものはどうしようもない。
この両親は、教会への奉仕を希望した、という筋書きにするしかあるまい。
この娘は、修験者見習いとして我々に預けられたとしておく」
父親はこの人たちに殺された。
母親も殺された。
でも、私は生きている。
どうやらこれからずっと、両親を殺したこの人たちに育てられていくらしい。
そう考えた途端、私の心の一部が凍り付いたように感じた。
それからの日々は、地下にある豪奢な部屋を自室として宛がわれて、一日の大半はそこで過ごすようにと言いつけられた。
日に一回、この大きな宝石の前に連れて来られてはプレートに手を乗せるという仕事があったけど、それ以外は自室内で過ごさないといけなかったが、残りの時間は自由に使えた。
お絵描き用の道具が欲しいと言えば与えられ、ご飯のお代わりを頼めば持って来てくれる。
外で遊ぶことも友達も作れなかったけれど、地下通路ですれ違う人やご飯を持って来てくれる人は優しくしてくれた。
そのおかげで不自由さはあまり感じなかった。
その中にたまに大きな宝石の部屋で会う、短い時間だけど話し相手になってくれる不思議な人がいた。
頭からすっぽりとフードを被って、鼻から下も隠しているおかしな女の人。
だけど、不自由ながらも自由な日々は案外早く終わりを告げた。
「おなかすいた」
何時まで経ってもご飯が運ばれてこない。
どうしたのかと思って、外にいる誰かにご飯を頼もうとドアを開けようとしたが、開かない。
「なんで?」
何かが引っ掛かっているかもしれず、力を入れてドアノブを回すがビクともしない。
このまま死ぬまで閉じ込められてしまうのかと怖くなり、慌ててドアを叩いて外に呼びかける。
「ねえ、あけてっ。おなかすいた!ごはん!だれか!」
しかし、誰の声も返ってこない。
これからここでずっと一人だと思うと、恐怖と不安が際限なくこみ上げて嗚咽が漏れる。
助けを求める声はドアの外まで聞こえているはずなのに、誰も私を助けようと部屋に入ってこない。
どれほどの時間泣き叫んだだろう。涙は出尽くして、喉は渇いて痛みを伴い始めている。
体力も気力も使い果たし、半ば気絶するように床の上で眠りに落ちた。
「……っ……」
自身の掠れた声で目を覚ました。
どれほど眠っていたかも分からない。
ぼうっとしている頭のまま上半身だけ起こしてドアに目を向けると、いつの間にかコップ一杯の水とパンとスープが銀色のトレイの上に置いてあった。
飢えていた体は食料を見た瞬間に覚醒して、食べ物に飛びついた。
瞬く間にそれを平らげ、おかわりを求めてドアを開けようとしたがやはり閉ざされたまま。叩いて叫んでも誰も様子を見にこない。
お絵描き用の紙も底を突き始めていたので、それも頼みたかったけど今は無理そう。
次に持って来た人にご飯のおかわりと紙を頼もうと、ドアの前に座って待ち続けた。
けれど、何時間待ってもドアは開いてはくれない。
待つのも疲れて眠ろうかと思ったその時、ついにドアの外で人の話し声が聞こえた。
「あけて!ごはんください!あと、おみずも!おえかきのも!あけてください!」
ここぞとばかりに叫び、力を込めてドアを叩いて助けを求めるが、その声は私の存在に気が付いていないように通り過ぎて行った。
「……なんで?」
この時、私はほんとうに世界で一人ぼっちになってしまったのだと思った。
心の一部がまた凍り付いたのが分かった。




