ヒューストン家の惨劇とその後の顛末
ヒューストン家の惨劇。
そう呼ばれる事件の犯人である一人の貴族女性は、貴族牢に収容されている。
事件の概要としては、ヒューストン家の跡継ぎの結婚初夜。
跡継ぎが初夜を行うとて、新妻の待つ夫婦の寝室に入った。
そこでことに及ぼうとしたところ、新妻の隠し持っていた大振りのナイフで喉や胸を突かれ、断末魔を上げる間もなく死亡。
彼が事切れた際の物音と、扉の外にまで匂ってきた血の匂いに、異常事態を察して入室した見届け人が、純白のネグリジェを鮮血に染め、血に染まったナイフを手に無表情でいる新妻と、事切れて倒れ伏した跡継ぎを発見した。
状況からしても犯人で、犯行を自白した新妻――ニーナは、この結婚に反対だった。
理由として、跡継ぎであったジョージには、初めての顔合わせの時より見下され、蔑まれてきたからであるという。
容姿、性格、家柄、何もかも全てを否定し、踏みにじる発言を繰り返す彼のことを、両家共に「照れ隠しの一環」として受け入れるように促されてきた彼女は鬱屈した感情を抱えるようになる。
一度たりとも人間として尊重されず、それなのに愛されていると思えと強いられてきた彼女は、結婚から逃れられぬと分かった時点で、己の家の抱える衛兵に痩身のための運動と称して武器の取り扱いや体の鍛え方を学んだ。
初夜の床に入るその前の段階で夫となるジョージを確実に殺害し、解放される。そのためだけに。
そして犯行は完遂された。
初夜に使う部屋にはあらかじめナイフを隠しておいた。
先に部屋に入り、待機するのはニーナだと分かっていたからだ。
そうしてしおらしく待っているフリをし、実際に部屋に来た時にはナイフが見えないように気を配っただけ。
事をなそうとジョージが覆いかぶさろうとしたところでナイフで喉を突いた。
油断していたのだろう。ここまで大人しかったニーナが反抗するとなど、思わなかったに違いない。
一撃で仕留めたと油断せずに喉をそのまま何度も突いて、とどめとして心臓のある辺りも二度刺している。
吹き出す血が弱まったことで殺害できたと確信し、また力なく伏せてこようとする体を払いのけた。
その亡骸が床に落ちた音と、室内に噎せ返るほど充満した血の匂いで見届け人が入ってきた、というわけである。
この事件が世に知られた時、犯人であるニーナを擁護する声は大きかった。
特に同年代の令嬢や夫人からの声が大きく、実際にジョージがニーナを過剰に虐げていたという証言が届けられたのだ。
また、令息たちからも同じような証言があり、友人知人であった者たちはその態度を諫めたとも。
本来であれば彼女には何らかの処罰が下る予定だった。
しかし、思いつめさせたのは誰か?となった時、被害者となったジョージと、ジョージの両親、ニーナの両親が対応を間違えたことが発端であるとなると、ニーナ一人に全ての責を負わせるとなることに王家は疑問を覚えた。
司法院としてはニーナを処刑することを想定していたが、王は情状酌量の余地がないかと問い合わせてきたのだ。
別段、王は情に厚いわけではない。己の感情一つで罪を罪とせぬようにするわけにはいかないと分かっている。
しかし、あまりにも相性の悪い関係を無理に結婚させた結果の惨劇であると思うと、ニーナこそ被害者であると判断するより他になかったのだ。
しかも調書によれば、ニーナの家とジョージの家が結びつく政略的意味合いはなかった。結婚が必須の関係性ではなかったと分かるのだ。
それを片一方、一人の女性にだけ生涯の忍耐を強いてまでして強行したことに問題がある。
貴族の結婚は確かに政略的意味合いが大きい。
しかし、時と場合によっては――具体的には、当人同士がうまくやっていけない場合においては、婚約を一代先に先送りしたり、婚約者の交代、すり替えなど、調整をする事も大事になってくる。
その見極めを行えなかった、現当主であり、二人の両親であった大人こそ問題視すべきだ。
そう王は考え、司法院に両家の調査を行うよう命じた。
それまでニーナには貴族牢で謹慎という形に留め、精神科医に診せることも命じた。
調査の結果であるが、両家の両親のみが結婚に意欲的であった――ジョージの素直でない恋心を応援し、ニーナに忍耐を強いていたという事実が再確認された。
両家の子供たちはニーナに同情的で、どうしても婚姻による結びつきが必要なら自分たちでよかったとさえ証言している。
ニーナの兄は、婚約が決まってから次第に表情が抜け落ち、心を失っていく妹に心を痛めていたという証拠として、己の日記を提出した。
そこには次期当主の権限を持つ者として、何度も両親に妹の婚約の解消をするよう訴えた記録も残っており、その度に「ジョージが大人になれば素直に愛情を伝えるようになる」と繰り返された悔しさと無念が記されていた。
あくまでジョージと両家の両親の自己満足にニーナが振り回され、人生を破壊されたという事実のみが浮き彫りになっていく。
ニーナは確かに殺人犯ではあるのだが、追い詰められた鼠が狩人たる猫を噛んで反撃するのと同じように、反撃に出たのだと分かってしまう。
精神科医の診断結果としても、ニーナの精神は正常ではないという結論が出ている。
カウンセリングを辛抱強く行い、犯行に及んだ経緯も聞きだしたが、そうしなければ一生罵られ、蔑ろにされて生きていかねばならないという深い絶望があった。
そこまで頻繁に会っているわけではない婚前でも辛く、誰にも助けてもらえなかったのに、結婚したら毎日のこととなるわけだ。
それに耐えられるとは思わなかった。
具体例として彼女が挙げた罵倒の言葉をいくつも聞きだしたが、こういった言葉ばかり投げ掛けられていたらそれは精神を病むだろうと精神科医もドン引きした。
故に、彼女を通常の加害者として見るのは間違っていると、精神科医は判断して報告した。
では無罪放免としてニーナを解放してよいものか?というと、否であるというのが司法院の考えである。
無論、彼女の境遇には同情の余地がある。
しかし罪を犯したニーナを家に戻したとて、針の筵であろう。
また貴族令嬢として婚姻をなかったことにして再び婚約を、と言う話も現状難しいのが現実である。
故に、貴族籍より除籍し、適当な小さな修道院に預け、そこで俗世から離れた暮らしを送らせるべし、と決まったのであった。
この決定は公表されたが、具体的にどの地のどこの修道院かまでは発表されなかった。
ニーナの家もそうだが、ヒューストン家には決してニーナを探さぬようにと王命が下り、捜索しようとしたと見做された場合は罪に問うとさえされた。
かくして、悲劇の人ニーナは、その身分を失い、西の辺境であるドリン辺境伯家の領地にある、小さな農村の修道院へと預けられることとなったのである。
まだ十六歳であるニーナは、しかし生きることに疲れたような有様で、労働こそ厭わずするが、食事にも無関心で眠ることもろくにしていないとすぐに分かった。
それを院長はすぐに報告し、まずは療養をさせなければと労働も最低限にして田舎の景色を見て心を慰めさせるために村の中に限っての散歩を許可したり、寄付された画集を見させたりと、心を砕いた。
しかしそれでもニーナの心は決して癒されはしなかった。
ガラス玉のような瞳で絡繰り細工のようにしか生きてくれない彼女に、院長は頭を抱えた。
そうして村長に相談したところ、牧羊犬の子犬たちがちょうど乳離れをしたところなので、一匹引き取ってみるか?と言われたのだ。
エサ代なども調べてみたが、莫大な金銭が掛かるわけではない。
司法院により支給される、ニーナの生活費の余剰分で十分以上に養える。
世の中には動物とのふれあいで心を癒す方法もあるというし、と、院長は特に人懐っこい一匹を引き取ってきてニーナに授けた。
引き取られてきた子犬は大変賢い犬で、トイレの教育や、むやみやたらに吠えぬように、人に噛みつかないようにという基本の教育はされていた。
院長の指示で命名することにされたニーナは少し考えた様子で、異国の言葉で白を意味する「シロ」と子犬に名付けた。
シロは足先と尻尾の先が真っ白で、全体的に黒と茶色でまとまった毛並みのそこが特徴的だったから、だそうだ。
シロはどこへいくにもニーナについて回り、その近くで尻尾をフリフリ、大きな目をキラキラさせていた。
そうして朝晩の決まった時間になると、自分から散歩紐を咥えて「おさんぽ!」とニーナにねだるのだ。
まだ子犬なので散歩そのものはそう長時間しなくていいが、ちょくちょく配分を間違えて帰宅途中で力尽きてしまう。
そうなるとニーナも引きずっていくわけにもいかないので、抱き上げて帰ることになるのだが、その時のシロは親犬にそうするようにニーナに全力で甘えるのだ。
かといって、ニーナの邪魔をすることはない。
朝だってニーナより早く起きても、自分用の寝床で目をキラキラさせながらニーナの目覚めを待つ。
食事も、ニーナが食べ始めたら自分の食事に取り掛かるし、トイレがしたくなったらニーナに擦り寄ってお外、お外、と外を示すほどだ。
そうしてすくすくとシロは育っていき、少しずつニーナの瞳は光を取り戻し始めた。
シロの毛並みを熱心にブラッシングし、催促される前から散歩に歩き、世話をする。
なので院長は、ニーナには洗濯物の仕事をしてもらうことにした。
洗濯そのものは足踏み式の洗濯機を導入しているので体力は使うが簡単である。
それを干す時回収する時は庭に出るし、畳んで各々に配り歩くくらいなら元貴族令嬢でも辛くはないと思ったのだ。
実際、ニーナはシロと共にその仕事をこなせていた。
気が付けばニーナが修道院に来て三年以上過ぎていた。
シロは立派に大きくなり、しかし相変わらずニーナにひっついて暮らしている。
そんな静かな暮らしに、来客があった。
「……クライブ……どうして」
「国中探し回ったんだ。ニーナが元気で暮らせているか心配で」
年の頃は二十歳頃。
旅暮らしをしていると分かる、少しくたびれた装束を纏った青年は、ニーナの幼馴染だと名乗った。
司法院からはニーナへの来客は断れと言われているが、彼は居ると確信していて、尚且つ会えないなら帰らないと実際に二日もずっと修道院の玄関に座り込みをしたのだ。
それで仕方なく、こっそりと、ニーナに会わせたのだが、彼はニーナの姿を見てぽろぽろと涙をこぼした。
「すまない。俺がもっといい家の生まれだったら、あんな男に嫁がせなかった」
「……いいの。しょうがなかったから」
「違うんだ。同情とかじゃない。
俺はニーナが好きで、結婚したかったんだ。
だけど上の爵位の家から望まれたから割って入ることができなくて」
シロはクライブとニーナを落ち着きなく交互に見ている。
「それで、どうしても謝りたかった。それと同じくらい会いたかった。
ニーナ、俺は貴族を辞めるつもりだよ」
「え」
「俺もここで働く。修道士として。
結婚なんて出来なくていい。触れられなくたっていい。
ニーナがいない人生は薄暗くて悲しかった。
だから、お願いだ。近くにいて良いと言ってくれ」
静かに涙をこぼすクライブを、シロはずっと見ている。
ずず、と鼻をすすり、哀れげなクライブをじーっと見て、それから、ニーナのスカートのすそを軽く引っ張ってから、ニーナを見上げる。
そうして、うぉん、と一声だけ吠えた。
「……クライブ……わたし、多分、一生ここから出られないわ」
「ああ」
「それに平民になったの。ここを出ても貴族籍に戻れはしないと思う」
「なんだっていいんだ。ニーナといられるなら、畑を耕すのだって幸せだと思う」
なら、と、ニーナは、続ける。
「まずはひと月だけ。続けられそうならその時に考えてみたらいいと思う」
クライブは案外色々出来た。
男手が老いた院長のみだったこの修道院はあちこちが古びていたが、彼は若いが故の力強さと体力で、指示されるまま、しかし丁寧に修繕を重ねていった。
買い出しも、修道女たちでは難しい猫車を使っての大量購入であっても難なくこなす。
それでいて、修道院に入るに当たって寄付した金銭もそれなりに大金で、本格的にとなったら残りの財産も持ってくるとまで言った。
人となりも誠実で、貴族としてみれば柔和に過ぎるが、一修道士としては穏やかでよい人柄だ。
修道女には相談しにくい男特有の話も、クライブは静かに聞いてくれて、優しく寄り添った答えを一緒に出してくれると評判だ。
ただし、激しい気性ではないので、荒事には徹底して向かない。
司法院は彼が滞在することを敢えて無視しているようで、何も言ってこない。
どころか、存在を認めていない――そこにいないものだと扱っているようで、毎週やってくる伝書鳩についた手紙でも、ニーナに関する話はあってもクライブには一切触れない。
しかし辺境伯家ではクライブがいることは知っている。
同じ年頃の孫息子がやってきて、施策についての助言を求めているからだ。
なんでも、同じ学校に通っていて、その際に優秀な成績だったクライブを覚えていたという。
「あの時は世界の終わり真っただ中みたいな暗い男だったのに、今は幸せそうだもんな。
ここが暮らしやすいなら一生いろよ、仕事が欲しいなら割り振るからさあ」
それに、前向きに考えてみるよとクライブは返事をした。
そうしてひと月経過した時、やっていけそうだからとホイホイ実家から籍を抜いて一人の平民として舞い戻ってきた。
新品ではあるものの、村で使っても悪目立ちしないような馬車を、ごく平凡な馬で牽いて帰ってきた彼は、自分の私的な財産を一部物品にしてきたのだ。
修道院でも自分たちの服を縫うのに使う布だとか、縫物用の糸だの針だの、ついでとばかりに帰ってくる道すがらで購入した新品の鍋や人数分の万年筆など。
残りは自分が今後お世話になる先払いだと言って、村にある商業組合の金庫に預けてしまった。
修道院も、運営費用は金庫に預けている。そこに合流させたというわけだ。
寄付だけでは食べていけないし生活が出来ないので、修道院では色んな仕事を引き受けている。
パン焼きも大事な仕事の一つなのだが、彼は年嵩の修道女たちがそろそろ辛くなってきたパンを作る仕事も引き受け、それはもうふっくらとしたパンを焼くようになった。
ニーナとクライブ込みで五人のみの修道院ではあるが、村人は五十人ばかりはいる。
動物の方が随分多い村なのだが、その分労働をするのでパンは山ほど焼かなくてはいけない。
なのでクライブは毎日力強くパンをこねては焼いている。
その上で辺境伯家の孫息子が持ってくる会計の仕事だとかもこなす。
報酬は食料である時もあるし、塩や香辛料といった物資であることもあるし、現金であることもある。
学校に通った経験があるクライブだからこそ出来る仕事だからということで、孫息子もその仕事に応じた報酬を準備することを咎められていないらしい。
機密事項ではないがただひたすら面倒くさい仕事を押し付けてきてきるらしいので、迷惑料かな、と、修道院の院長は思っている。
で。
ニーナとは、毎朝毎夕方にあるシロとの散歩を一緒にしている。
特に会話をしたがるでもなく、ただニーナに寄り添っているその姿は、第二のシロだと言われていたりする。
しかし如才なく人付き合いをしているクライブは、村の中を散歩していると声を掛けられることがある。
そんな時、シロはふっと足を止め、待ってくれるのだ。
散歩のリードはニーナがする。しかしクライブを置いていくことはしない。
そう彼女の中でルールが出来ているらしかった。
シロは花を食べないが、花を見るのが好きなようで、季節の野花が道端に生えていると見ごろを確認するようにいそいそ近寄っていく。
そうしてスンスンと匂いをかぐのを、ニーナとクライブは見守る事が割とある。
「ここは花が多いな。王都じゃ雑草扱いで引き抜かれてたのかな」
「さあ……」
「おかげで修道院の中も花が多くて賑やかでいいよ。
育てなくてもそこらで摘んでこれるから、いつでも花に満ちてる。
都会の修道院じゃこうはいかないもんな」
「……そういえば、そうだったかも」
クライブは過去の話をほとんどしない。
ニーナが幸せだった、二人が幼馴染として会うことが許されていた時代の話はするが、それより先には進まない。
ただ、平穏で、ゆっくりとした、今の話だけをする。
昔のニーナと比べることもしない。
ありのままのニーナの傍らに、静かにいてくれる。
ある日からニーナは情緒が不安定になった。
何もしていないのに急に涙が止まらなくなったり、かと思えばひどく打ち沈んで部屋から出られなくなったり。
それを急激な変化と見て取った院長は司法院への手紙で報告した。
すると、王都より精神科医が派遣されてきた。
「彼女の精神が立ち直りつつある証拠です」
傷付き、ひびわれ、血を流していた心が、その傷を癒そうと頑張っている証拠だという。
故にひどく苦しむだろうとも。
「薬や我々医者の話しかけは必要ありません。
ただ、見守り、必要な時には支えてあげてください。
長くつらい時代を耐えられた女性ですから強いでしょうが、けれどつらいことは確かなのです」
シロは頑なにニーナから離れなかった。
クライブが代わりに散歩に連れ出そうとしても、ウウーと唸って拒む。
ベッドの住人となってしまった主人に付き添い。寄り添い。泣き出した時はその手をぺろぺろと舐めた。
そのシロを気遣って、ニーナは朝早くに時間をずらした散歩だけは決して欠かさない。
ヴェールを深くかぶって人との関わりを遮断こそすれ、外の世界から完全に逃げることはしなかったのだ。
さすがにこの状態で仕事をしろとは言えないし、全員が見守る姿勢に入っていた。
食事もとりたがらない彼女のために、スープ一皿で済むようにと野菜や肉を少し多めに入れたものを運んだり、たくさん泣いてもいいように水差しも食事を運んだ時に取り換えたりもした。
鎮静効果のあるという花で作ったアロマキャンドルを与えたり、クライブが買ってきてくれた手触りのいい布を使ってぬいぐるみまで作って差し入れもした。
ニーナはそのぬいぐるみをよく抱きしめているので効果はあったと思いたい。
修道院のみんなは、ニーナがどういった経緯でここに来たのかを知らされている。
婚約が十歳の頃。それから六年に渡って苦しみ、傷付き続けてきたのだ。
その傷跡がどれだけ深いものか、誰しもが慮ることは出来ても、理解はしてあげられない。察することさえ出来ない。
早く立ち直ってしまえだなどと言う気にもなれない。そんな残酷な言葉を投げ掛けられるのは人でなしだけである。
そろそろ老女と言っていい年齢の修道女は、特にニーナに同情的だった。
彼女は一度結婚したが、その嫁ぎ先で辛い思いをし、五年しても子供が出来なかったので離婚されて修道院に入った身である。元貴族である。
そんな彼女は、ニーナの苦しみが痛いほどに伝わってしまっていた。
彼女とて立ち直るのに十年近く掛かった。
ニーナはあの時の若い自分よりも、更に深く傷ついた状態でここに来たのだ。
だから、その傷が治ろうとしている今、たとえ何年苦しむとしても、見守り、寄り添おうとしている。
求められればいつでもニーナの肩を抱いた。
泣きじゃくるニーナを抱きとめ、たくさん泣きなさいと促した。
時には庭でいいから少し出ましょうと誘い、日の光を浴びさせ、心地よい風に身を委ねさせた。
慰めも何も言わない。
ただ、自然に生きることだけを促した。
それは、老修道女が一番欲しかったことだったから。
三か月ばかりは激しい苦しみに苛まれていたニーナだが、少しずつ立ち直ってきた。
半年を過ぎた頃にはなんとか洗濯の仕事に戻り、食事もみんなのいる食堂で出来るようになった。
そこからさらに二か月ほどで夕方の散歩も復活させた。
クライブはただじっと見守っていた。
三日に一度、摘んできた野花を花瓶に差していくだけ。
ニーナはその花を見て過ごすことも多かった。
再び訪れた精神科医は、傷口にやっとかさぶたが被さったようだと判断した。
このままいけばいずれは元々の性格に戻るだろうが、いつだって傷はそこにあるので、あまり乱暴に扱わぬようにと念押しをして、再び戻っていく。
精神科医も、ニーナを案じているのだ。
何分この国では精神科医は決して多くない。
司法院に雇われた者は一人だけという有様だ。
なのでニーナを最初から今まで見ているのも同一人物である。
故に、ようやっとガラス玉のような瞳から、光を取り戻しつつある瞳にまで立ち直ったニーナに、健やかに生きて欲しいのだ。
「シロ」
「わふ」
「今日は雨だからお散歩にはいけないわ」
「わぅー」
残念そうに散歩紐を戻しにいくシロに、かわりにブラッシング用のブラシを取る。
牧羊犬の子として産まれたシロは、たくさん運動をしたがる。
しかし、雨の日は庭に放ってあげることもできない。
なので、ご機嫌を損ね過ぎないようにスキンシップをたくさんしてあげるべきなのだ。
そこに、温かい茶を持ったクライブが訪ねてきた。
シロは大喜びである。
修道服の裾を引っ張り、はっははっはと荒い息をしている。
シロは、ニーナにブラッシングをされながら、クライブに肉球をもにもにしてもらうのが一番好きなので。
故に、クライブはニーナの少し困ったような顔を見て、大丈夫そうだと判断した上で、シロのお世話のお手伝いを申し出た。
ニーナもそれに頷いた。
まずは温かいお茶を飲み、それから床に寝そべったシロを二人でせっせと面倒を見る。
換毛期が終わった今は冬毛なのでもっさもさのふっさふさで、豊かな毛並みを撫でるようにブラッシングされるだけでもご満悦そうである。
そこをクライブが加減をしながら肉球を揉む。
この世に極楽はあり申した……そう言いそうなくらいリラックスしたシロを、クライブは微笑んで見つめている。
ニーナも慈しみを十分に湛えた瞳で見つめている。
「シロはいつもは控えめだけど、ブラッシングのこだわりが強いみたいだから大変だね」
「でも、これしかわがままを言わないから」
「確かにね。雨の日は散歩を我慢するし」
ニーナは、少しずつ昔のような、物静かで口数も少ないが、けれど穏やかな女性に立ち戻りつつある。
それを声色や表情の変化から察して、クライブはただ嬉しかった。
彼女が健やかであればそれでいい。
例え胸に抱いた感情が報われなくても構わない。
ニーナの幸福が己の幸福であるのだから。
ふぁさ、ふぁさ、と、シロの尻尾が揺れて床を摩る音だけがする。
しとしとと降る雨は音さえもさせず、むしろ他の音を吸い取りながら地面に落ちていく。
冬でありながらも、穏やかな温かさをクライブは感じていた。
そうしてまた一年ほどが過ぎた。
ニーナは随分と良くなって、洗濯物係だけでなく、スープ作りの仕事も習うようになった。
この辺りではきのこを干して保管し、スープの出汁として使う。
村ではきのこを人の手で育て、食用にしている。
なので、定期的に大量のきのこが出回り、各家庭はそれを干して保管し、日々の彩にしている。
特別な手順は何一つ必要ない。
軽くゴミを払って洗ったら干すだけだ。
その干す作業を、ニーナは教わった。
スープ作りはまず野菜の皮むきから始まるのだが、これには時間が必要だからだ。
ニーナは包丁の使い方も知らない。
それを一生懸命皮をゆっくりゆっくり剥くのだ。
手を切らないことが最優先。
ある程度薄く、見本の通りに。
なので、元々スープを作っていた修道女が大体仕上げる間にやっと一つ剥き終わる。
それでも少しずつ頑張ればいいですよと笑ってくれるので、ニーナも頑張っている。
さすがに指や手を切って、その血で汚れた野菜を食べさせたいとは思わない。
少しずつ、少しずつだ。
ここの生活はゆったりと時間が過ぎていくし、人々の心構えもゆったりと大らかだ。
ある時、若い恋人たちが結婚するとて、商人が誓約の証となるブレスレットを幾つか持ってきた。
貴族は指輪を誓約に使うが、庶民は首飾りやブレスレットである。
理由。なくさないから。
しかも宝石ではなく、色むらも少しあるガラスが装飾に使われる。
ついでなのでと普通の装飾品としても何点か持ってきていたので、ニーナにも見ておいでと院長は小銭を握らせて送り出した。
もちろん、護衛のシロと、同伴者としてのクライブも一緒だ。
「単色よりきれいね」
「そうだね。ニーナ、もらったお金で一つくらいは買えるよ。
好きなものを買ってみたらどうだろう?」
愛想のいい商人はにこにこしながら二人と一匹が商品を選ぶのを見守っている。
そして、思いついたように「せっかくだし一つ分のお金で二つでもいいよ」と言ってくれた。
さすがにシロの首輪につけるものまでは持ってきていないの意である。
ニーナはかなり選んで、紫の濃淡が美しい首飾りを選んだ。
クライブは、青に水色が混じるブレスレットを選んだ。
シロは、二人が嬉しそうに装飾品をつけるのを見守り、嬉しそうに尻尾を振った。
彼女の目は白黒の世界しか映さないが、お互いの瞳の色合いだとなんとなくわかっていたのだ。
商人も、分かってはいたが、修道服である二人に言うのは野暮ってもんさと黙っていた。
ドリン辺境伯家は、時たま視察で村にやってくる。周期としては半年に一度ほどで、当主世代かその子世代か、はたまた孫世代かは完全にランダムである。
その孫世代、孫息子でありクライブの知人でもある青年が、ある日新聞紙片手にふらっとやってきた。
「視察もあるんだけどよ、王都の話ってのはここまで来ないだろ。
お嬢さんも聞いておいたほうがいい。実家の話もあるから」
なんでも、ヒューストン家もニーナの実家も、跡継ぎとなれる子供たちが全員家を出た上に当主夫妻が殺し合ったことで潰れてしまったという。
あまりに外聞の悪い事件が起きた家だということで、親類も後を継ぐとは言ってくれず。
子供たちを引き止めることもかなわず、孫を一人だけくれればいいからと縋りついても無しの礫、どころか門前払いでさえなく訪問すると警邏を呼ばれて捕縛される始末だ。
手紙も「受け取り拒否」の印が押されて戻ってくる。
娘たちは自分で嫁ぎ先を見つけ、そこに速攻で嫁いで実家との縁を切った。
息子たちも婿入りした。一夫多妻も一妻多夫も認められている国なので、裕福なマダムの夫の一人として生きる道を選んだのだ。
そこまでして拒否するのであれば、国としても無理に家を残せとは言えない。
というか、数年が経過した今でも、二つの家の評判は最低最悪なままで、縁付こうとか仲良くしようという家もない。それまで関係のあった家からも縁を切られ、寄り親からも絶縁されて孤立したのだ。
その環境に、ある意味元凶でもあった両家の夫妻は責任を擦り付けあった。
妻がきちんと子育てに向き合っていれば、いいや夫が婚約をごり押ししなければ。
夫妻は怒鳴り合いや殴り合いをし、荒れていくばかりな上に給金の支払いも滞り始めたということで使用人は見る間にいなくなっていった。
残ったのは他に行き場がまだ見つかっていない使用人数名。
侍女長や執事長でさえ家を見放したことで更に夫妻の不仲は致命的となり、最終的に殺し合いとなったのだ。
妻を剣で切ったヒューストン家の当主は、しかし最後の力を振り絞った夫人に壺で頭をカチ割られて死んだ。
ニーナの両親は、たまたま顔を合わせた階段上で殴り合いとなり、結果二人揃って一番上から落下して死んだ。
凄まじい悲鳴も物音も慣れっこになっていた使用人たちは耳栓をしていたし、どちらも夜中のことだったので、朝まで発見されることもなく。
翌朝になって死亡が確認されて、結果家は取り潰しとなったのだ。
「ま、そういうわけだから。
お嬢さんのご兄弟と姉妹さんがたは元気にやってるってよ。
手紙を届けてやるわけにはいかないが、それなりにやってるって情報は入ってきてる」
「……お気遣いを、ありがとうございます」
「いや。一応知らせておいたほうがいいかって、俺の勝手な判断なんだ。
だから、知らないフリしといてくれ。
司法院もわざわざここまで来てお嬢さんの顔色見たりはしないだろうけどな」
辺境伯家の孫息子は、ついでの土産だと、修道院全員用の焼き菓子を置いていった。
更にはシロのために、新鮮な鶏肉も一塊置いていってくれた。
ニーナは、渡された新聞紙をじっと眺め、少し困った顔をした。
「どうしてかしら。何とも思わないの」
「それでいいんだ。ニーナはもう、あの家から出た身だから」
「一応、十歳までは大事にされていたはずなのに」
「でもそれから六年は大事にされなかったろ」
「どこかでなんとかなったんじゃないか、とさえ、もう、思わないの」
ニーナのふくらはぎに、シロが擦り寄る感触があった。
いつだってシロは主人の心に敏感だ。
「シロやクライブが傷付けば、きっと悲しいと思う。
だけど、あの人たちが死んだことに心がちっとも動かない。
私は非情なんだって思ってしまって」
「自業自得だからそれでいいんだ。
ご両親がちゃんとニーナに向き合って、ニーナの幸福をしっかり願って行動していたら、ニーナは今ここにはいなかった。
その罪を、お二人は命で贖った。それだけなんだ」
クライブは、渋くなり始めたお茶をぐっと一息に飲み干し、言う。
「ニーナの中で、ご両親は過去になった。それだけだ。
俺やシロを想ってくれる心はきっと健康で、損なわれてなんかない。
だから、一か月前の夕飯と同じように、今日の話も忘れちまえばいい」
こくんとニーナは頷いた。
そうして新聞紙を机に置いて、自分も渋いお茶を一息に飲み干した。
二人は更に数年が経っても結婚しなかった。
修道士も修道女も結婚できるのだが、ニーナにとって結婚はトラウマになっていた。
だから、クライブも無理に形にしようとはしなかったし、挨拶のキス以上の触れ合いを求めなかった。
老犬といってもいい年齢になったシロは今日も元気に二人の間にいる。
村を散歩するニーナの片手はシロの散歩紐を、もう片手はクライブと手を繋いでいて。
貴族令嬢、貴族夫人ではなくなって、当たり前の暮らしから遠ざかっても、愛は確かにここにある。
繋がった愛を手放さないように、ニーナは今日も生きている。