12.わしじゃよ。
〈黄金の錫杖〉をつきながら廊下を歩いた役小角は、引き戸が開かれた部屋の前に立った。
顔をそむた状態で寝台に横たわる桃姫の姿を確認して部屋に足を踏み入れ、燭台のロウソクに指先で触れて火を灯すと、かすかな寝息を立てる桃姫の前まで移動した。
「桃のむすめ……今日までおぬしが生き延びてこれたのは間違いなく、おぬしの秘めたる力の賜物じゃよ。かかか」
役小角は笑いながら言うと、手を伸ばして桃色の長い髪に触れた。
さらさらと指から流れ落ちるその桃色の髪は、まさしく"三番目の弟子"、桃太郎の髪の毛と同じものであった。
「今でも思う──あのとき、わしがそのまま桃太郎とともに歩む道……"光の道"を選んでいたら、どうなっていたものかとな」
役小角は闇に沈んだ漆黒の眼を細め、桃姫の後頭部からかつての桃太郎の姿を連想しながら嘆息した。
「しかし、それは叶わぬ道。わしは、悪路王に惚れてしもうたのじゃ。この"千年の片想い"……これを果たさねば、わしは成仏できんのよ──わかってくれるな?」
役小角は悲しげにそう言うと、目を大きく開き、深淵の大宇宙をたたえる眼で寝台に横たわる桃姫の姿を見下ろした。
「だが最後に一つだけ、わしの頼みを聞いてくれんか……その髪から漂うあの不思議な桃の香り──あの匂いを、最後にわしに嗅がせておくれ──それで、"終い"にしようではないか」
告げた役小角は、桃姫の後頭部に顔を近づけ、スン、スンと盛大に鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
その瞬間、役小角は激しく顔をしかめた。
「グッ、臭ッ──!!」
思わず手で鼻を抑え、仰け反った役小角。桃の匂いとは真反対に位置するひどくすえた老人の悪臭が役小角の鼻腔を突き刺した。
そのとき、顔をそむけていた桃姫がバッと振り返り、にんまりとした邪悪な笑みを浮かべた。
「──ブぁカめ。ひっかかりおったな、小角」
「……ッ!?」
桃姫の口から発せられた老人の声。驚愕した役小角はたじろぎながら、声にならない声を漏らした。
「──わしじゃよ。ぬらりひょんじゃよ──」
老いた声とともに両目をカッと見開いた桃姫。その瞳は桃太郎ゆずりの濃桃色の瞳ではなく、くすんで白濁した瞳であった。
桃姫の全身がボンと紫煙に包まれると、中から飛び出したぬらりひょんがぐるんと宙空で一回転してから天井に着地した。
「……なぬッ!?」
動揺の声を上げた役小角は扉の前まで素早く飛び退きつつ、〈黄金の錫杖〉をぬらりひょんに向けた。
「ほっほっほ。久しぶりじゃのう、小角。はて、300年……いや400年ぶりか? 相変わらず達者そうでなにより──まあ、ずいぶんと人相は悪くなったようじゃが」
「……妖怪風情が! わしを謀りおったのかッ──!!」
白濁した眼で役小角を睨みつけたぬらりひょんに対して、珍しく笑みを崩してた役小角が声を荒げた。
「おひょひょひょひょ、なぁにを言うとるか!! 千年以上生きとるおぬしも、とっくに妖怪のたぐいじゃろうて!!」
「桃のむすめはどこだ……! わしの桃をどこへやったッ!!」
「桃姫はわしのむすめじゃボケェッ! おぬしに手出しなどさせるかよぉッ!!」
激昂した役小角が怒号を発すると、太い血管をハゲ頭に浮かべたぬらりひょんもまた怒号で返した。
「ならば、消え失せいッ──!! オンッ──!!」
叫んだ役小角は左手で印を結ぶと、金輪が並んだ〈黄金の錫杖〉の頭から赤光する鎖を撃ち放った。
「いっひっひっひ! このぬらりひょん、そこいらの妖怪と同じにしてもらっては困る──!!」
ぬらりひょんは黒い部屋の中を縦横無尽に飛び跳ねながら、迫りくる呪力の鎖から逃れ続けた。
「ええい、大人しくせいッ──!!」
「──それはこっちのセリフじゃッ!!」
ぬらりひょんと役小角の怒号が飛び交う中、桃姫は夜狐禅と廊下を走っていた。
「桃姫様、あの扉です!」
「うん!」
鬼ノ城の廊下を駆け抜けたふたりは、大扉を開けて広場へと出た。そして中央にそびえる"大呪札門"の巨大な鏡面をくぐって、本丸御殿の庭に飛び出した。
桃姫と五郎八姫が毎日のように剣術の稽古に使っていた見事な庭は、今や見る影もないほどに破壊されていた。
「……そんな」
崩れた灯籠の火が鬼人兵に殺された伊達兵たちの死体を照らし出し、桃姫は声を漏らした。
「桃姫様──雉猿狗様が仙台城の天守閣にて、鬼蝶と戦っておられます! 加勢してください! 僕は頭目様の助太刀に戻ります!」
桃姫に告げた夜狐禅が"大呪札門"に戻ろうとすると、その背中に向けて桃姫が慌てて声をかけた。
「夜狐禅くん、助けにきてくれてありがとう! 気をつけてね!」
「桃姫様も、どうかお気をつけて!」
夜狐禅は頷きながら答えると、"大呪札門"をくぐり抜けて鬼ヶ島に戻っていった。
「……仙台城が、燃えてる」
各所から火柱を立てて夜空を赤く照らしている仙台城の姿を見上げた桃姫は、戦慄して声を漏らした。
「雉猿狗、いろはちゃん、政宗様……今、行くからね──!」
そう言って両手を力強く握りしめた桃姫は、本丸御殿から仙台城に向けて駆け出すのであった。