10.鬼の心
「う……うう……」
下腹部に走る鈍い痛みで目を覚ました桃姫。黒い部屋の隅にある寝台で、腹部を手で抑えながら上体を起こした。
「ようやく目覚めたか」
「……ッ」
砂袋を叩いたような低い声が耳に届いた桃姫は顔を上げた。燭台のロウソクがぼんやりと照らす戸の前に巌鬼が仁王立ちで立っていた。
「……ここは」
「鬼ヶ島──鬼ノ城」
天井に頭をつけた巌鬼は、黄色い鬼の眼で桃姫の顔を見下ろしながら告げた。
「出ていく方法は一つ、鬼ヶ島に降れ」
巌鬼の言葉を受けた桃姫は静かに顔を伏せた。
「前にも話したよな……俺と貴様は、まるで兄と妹のように似ていると」
かつて常陸の街道で聞いた巌鬼の独りよがりな発言。桃姫は沈黙して返した。
「俺と同じ地獄を味わった貴様とならば……"家族"になれる……心を許せる"家族"がいれば、俺はこれからも生きていくことができる」
巌鬼の口から発せられた"家族"という言葉を聞いた桃姫は、目を細めて顔を上げると巌鬼の顔を見つめた。
「……可哀想な巌鬼」
桃姫は率直に思ったことを口にした。
「……そうだ。その通りだ。俺は哀れだ……哀れで孤独な鬼ヶ島の生き残りだ」
巌鬼は怒ることなく、桃姫に訴えるように告げた。
「……だが桃姫、それは貴様も同じだ……俺と"家族"になれ……鬼ヶ島で俺とともに暮らせ」
巌鬼は低い鬼の声で、しかし心からの切なる願いとして桃姫に告げた。
「…………」
桃姫は返答せず、細めた目で静かに見つめた。その反応に業を煮やした巌鬼は鬼の睨みを効かせた。
「俺の言うことを聞けッ──でなければッ!」
「殺すの? 今までも、そうしてきたように」
大の大人でも裸足で逃げ出すような恐ろしい声を発した巌鬼の顔を、桃姫は平然とした顔で見上げながら冷たく言い放った。
「自分が気に食わないもの……そのすべてを殺して、壊して、踏みにじって──ねぇ、巌鬼。その先に……いったいなにがあるというの?」
静かに問いかけた桃姫の言葉は、巌鬼の荒みきった"鬼の心"に遠慮なく素手で触れる言葉であった。
しかし、巌鬼に憤怒の感情は湧かず──むしろ巌鬼は、桃姫になら、誰にも言えなかった"鬼の本音"を打ち明けられると思った。
「……俺は鬼だ。鬼としての生き方をしているだけだ」
巌鬼は鬼の瞳を桃姫から逸らして告げた。そして、再び桃姫の濃桃色の瞳を見やると悲痛な面持ちを浮かべた。
「ならば桃姫……俺に、他にどんな生き方があるというのだ? 教えてくれ……俺は──俺は、鬼ヶ島の鬼としての生き方しか知らぬのだ」
「…………」
桃姫にとって巌鬼は父・桃太郎を殺害した完全なる仇敵である。しかし、桃姫はそんな巌鬼に与えられた過酷な宿命、その悲惨な窮状を目にして言葉が出なかった。
「あの日、桃太郎が……赤児の俺を、二度刺し貫いてくれていたらならば……こんなにも、苦しむことはなかったろうにな……」
巌鬼は苦渋の面持ちで告げると、悲壮感の漂う大鬼の背中を桃姫に向けた。
黒い戸を引いて開け放つと、巨体を丸めてくぐり抜け、戸を閉めずに部屋から出ていった。
「…………」
鬼ノ城の廊下に通じる開かれたままの引き戸を見つめた桃姫は、寝台から立ち上がろうと白い足袋を履いた足を冷たい床に下ろした。
そのとき──足の裏にべたりと、何かが付着する違和感を桃姫を覚えた。
「……?」
足元を見た桃姫は、床に広がっている砕けた赤い石の破片と、赤黒いシミの存在に気づいた。
ロウソクの明かりでおぼろげに照らされるそのシミは、一見して何かわからなかったが、思い返せば桃姫には見覚えがあった。
「──血」
呟いた桃姫は乾燥した血溜まりの上に、乾いた血がこびりついた小刀が落ちていることに気づき、手を伸ばした。
その瞬間、左耳の上に挿していた赤いかんざしが滑り落ちて、短刀に当たってカツンと音を立てた。
「ッ……」
血溜まりの上に並んだ血濡れた小刀とおつるのかんざし。
その光景を目にした瞬間──桃姫の瞳から涙があふれ出た。
「──おつるちゃん」
血溜まりの中に桃姫の熱い涙が落ち、冷たく凝固していたおつるの血をわずかばかりに溶かした。
一方その頃──玉座の間に戻った巌鬼は、黒岩で造られた玉座に腰かけていた。
「……俺はいったい、桃姫になにを期待している」
自分が桃姫に助けを求めているかのような言動が、意図せず漏れ出たことに巌鬼は困惑していた。
「……泣き言を言って何になる──俺は鬼だ。鬼として生まれ、鬼として生きる──ただそれだけだ」
顔を伏せた巌鬼は宣言するように呟くと、玉座の左右に伸びる肘置きを爪痕が刻まれるほど強く握りしめた。
「──殺すしかない」
巌鬼は決意を固めて声を発すると、チリンという聞き慣れた金輪の音を耳にして顔を上げた。
「そうじゃ、温羅坊。おぬしは根っからの悪鬼……天地がひっくり返ろうとも、鬼の血からは逃れられん」
満面の笑みを浮かべた役小角が闇の中から姿を現した。左右には道満と晴明を引き連れていた。
「なぜここにいる──仙台城に行ったと思ったがな」
巌鬼が三人を睨みつけて言うと、道満が口を開いた。
「それはこちらの台詞だ、悪鬼──貴様は、なぜここにいる」
「……あなたが桃太郎のむすめをさらってきたのを見ましたよ?」
晴明が続けて言うと、巌鬼は牙をむき出して吼えるように答えた。
「貴様らにいったい何の関係があるッ!! 鬼の体を隠れミノに使っていた外道の分際でッ!!」
「……っ」
鬼ヶ島の首領・温羅巌鬼の圧巻の鬼の咆哮を食らった道満と晴明は、その鬼迫に思わず後ずさった。
そんな弟子たちとは異なり、眉一つ動かない役小角。変わらずの笑みを浮かべながら巌鬼に一歩、近づいた。
「──妻に娶ろうとしていたのであろう?」
「ッ──!?」
役小角の口から放たれた一言に、巌鬼の心が激しく動揺した。
「しかし温羅坊、それは土台無理な話じゃよ──誰が鬼の妻になりたがる……かかか。ほんに、哀れな鬼だわいのう」
「黙れッ……黙れェエエッ──!!」
眼を細めて笑う役小角に眼を見開いて激昂した巌鬼。左右の肘置きを両手で握り砕いて破壊し、勢いよく玉座から立ち上がった。
その瞬間──役小角は漆黒の眼をカッと見開き、深淵なる大宇宙を双眸に映しながら巌鬼に告げた。
「──桃太郎に"鬼退治"をさせたのは、このわしじゃよ、温羅坊──」
役小角に飛びつこうとしていた巌鬼の巨体が凍りつくと、道満と晴明がにんまりとした笑みを浮かべるのであった。