8.おはる姉ちゃん
愛する妻と娘の穏やかな寝息が聞こえる中、桃太郎はひとり、薄暗い天井の木目を険しい眼差しで睨みつけていた。
「…………」
青白い月明かりに照らされた天井に、格子窓の模様が映り込み、波のようにゆらゆらと揺れる。
その光景は24年前のあの日見た青い海を思い起こさせた──。
「──桃太郎ちゃん! はよう来て! こっちや、こっち!」
「おはる姉ちゃん……待って……!」
まぶしい太陽の下、光り輝く青い水平線を背にして桃太郎少年に呼びかける水色の着物のおはる。
14歳の桃太郎より4つ年上の彼女は、播磨から備前へと半年前に移り住んできた桶屋の娘だった。
「桃太郎ちゃん、ここやで、ここ。うちな、いつもここらで貝取ってんねん」
右手に熊手、左手に桶を抱えたおはるは草履を脱いで海に入り、桃太郎もその後に続いた。
足首ほどの浅瀬が広がる花咲村の南にある海岸だった。
「播磨では、秋になるとぜーんぜん取れへんかったのに、備前ではこれがぎょうさん取れるんや。花咲の人らは、あんま貝食べへんのかなぁ?」
おはるは桶を水面に浮かべ、熊手を両手で握りしめた。桃太郎も小さな桶を浮かべると、草刈り鎌を右手に握った。
「村の人たちは、海のものはあまり食べないかも……海は危ないから近寄っちゃいけないって、教えられて育つから」
「そないなことになっとるんや、ぜんぜん知らんかったわ。こないに波がおだやかな海が近くにあるっちゅうんに、えらいもったいないなぁ」
瀬戸内海の水平線を眺めながらおはるが言うと、桃太郎は水面を見つめた。
「昔ね、鬼が出たんだって……だから、みんな怖がって近寄らないんだよ」
「鬼ぃ!? ははは! なんやのそれ。昔出たって、それいつのこと? 鬼を怖がって、海の幸取らへんなんて、信じられへんわ」
おはるは快活に笑うと、両手に握った熊手を水面越しに見える砂地にザッと突き入れた。
そして、腰に力を入れて砂地をかき上げると、鉄製の爪に引っかかった8個のアサリをすくい上げる。
「まぁ、ええわ。そのおかげでうちが貝取り放題やもんな……桃太郎ちゃんも、そんな"迷信"信じとるわけ?」
「僕は……うーん」
おはるが熊手を傾けて桶の中にアサリを落としながら尋ねると、桃太郎は草刈り鎌の刃をアサリが顔をのぞかせている砂地に刺し入れた。
「信じてへんよな。信じてたら、"貝掘りのやり方教えてほしい"なんてうちに聞いてこうへんはずやし。ぎょうさん貝取って、お爺さんとお婆さん喜ばしてあげよやないの」
「うん」
桃太郎は、草刈り鎌の刃に乗った3個のアサリを見ながら頷いた。そうして、桃太郎とおはるが貝掘りに励んでいると桶いっぱいになったアサリを見ながらおはるは腰に手を当てた。
「最近うちのおとんがな、"おはるもいい年やし、はよ結婚しぃや"なーんて言うてくんねん。うっとうしくてしゃーないわ」
「うん」
「でもな、うち自由気ままな生活が好きやから、お嫁さんには向いてへん思うねん」
おはるが太陽を見上げながら目を細めると、桃太郎は桶にアサリを落としてからおはるの姿を見上げ、太陽を背にしたそのまぶしさに目を細めた。
「……僕、おはる姉ちゃんはいいお母さんになると思う」
「ほんまに? それ、ほんまに言うとる?」
「うん……だって、村の子供たちの面倒をよく見てるし」
面倒見の良いおはるの姿を半年にわたって見てきた桃太郎は、素直にそう思いながら答えた。
「そっか……ふーん。そんならさぁ、桃太郎ちゃん? ──うちと、結婚してくれへん?」
「──っっ……!?」
いたずらな笑みを浮かべたおはるの顔を見た桃太郎は、あまりの衝撃に思わず海面に尻もちをついてしまった。
「あははは! 冗談やって、冗談! そこまでびっくりすることないやん! あっははははっ!!」
「…………」
灰色の着物をぐっしょりと海水で濡らした桃太郎の姿を目にしたおはるは、青空に向かって大笑いすると、桃太郎は苦笑いしながら海中に沈んだ草刈り鎌を拾い上げ、立ち上がった。
「はーおもしろ……なぁ、いまのでうちのことキラいにならんとってなぁ?」
「……うん」
笑みを浮かべ続けるおはるに対して、桃太郎は気恥ずかしくなってその顔を見ることができないまま頷いた。
「でもな、うちほんまに桃太郎ちゃんみたいな旦那さんがええ思とるのよ……どっかにおらへんもんかなぁ、成長した桃太郎ちゃんみたいな、やさしくてイイ男」
おはるは、熊手に身を寄り掛からせながらため息とともに呟いた。桃太郎は着物の裾を絞って水気を切ると、水面に浮かんでいる桶を見やった。
そのふたつの桶の中にはアサリがどっさりと詰め込まれており、これ以上入れると今のような拍子に丸ごとひっくり返ってしまいそうであった。
「おはる姉ちゃん。僕、着替えてくるからさ。ついでに、おはる姉ちゃんの家から新しい桶をもらってくるよ」
「あ、ほんま? そやねー、今日は天気も良くて、まだまだ貝取れそうやし。お願いしてもええかな」
「うん」
桃太郎はザバザバと海水を蹴りながら砂浜へと上がり、草履を履いて歩き出した。そして防波堤になっている砂丘の上まで登ると振り返った。
すると、浅瀬で気持ちよさそうに伸びをしているおはるの後ろ姿が遠くに見えた。
「元気だな……おはる姉ちゃんは」
桃太郎は思わず笑みをこぼすと、海岸を離れて花咲村へと歩いていくのであった。