4.鬼の王・悪路王
一ヶ月後──極寒の蝦夷地は正に修羅場と化していた。悪路王を崇拝する老若男女入り混じった狂信者の群れは、昼夜を問わず田村麻呂率いる討伐隊に襲いかかる。
「鬼の王をたたえよぉっ!」
「エエイッ!」
叫びながら突撃した狂信者の男が若い侍の振るった太刀によって斬られると、男は致命傷を負いながらも侍の体にしがみついて、その動きを封じた。
「鬼の国! ばんざぁいっ!」
「我らが悪路王はついに目覚めたのだぁっ!」
動きを封じられた侍に対して、満面の笑みを浮かべた男女の狂信者が飛びかかり、雪上に押し倒された侍の体に取りついた。
「離れよッ! デェエエイッ!」
中年の侍が太刀で男女を斬り伏せると、取り付かれていた侍の脇腹やふとももには小さな穴が穿たれ、鮮血が噴き出していた。
「……こいつら……正気の沙汰ではない……」
満面の笑みを浮かべたまま息絶えた三人の狂信者を目にした小角は、白い息と共に声に漏らした。
白装束をまとった狂信者たちは刀も槍も用いない。武器として用いるのは、鋭く研がれた錐であり、それが殊更に異様さを際立たせていた。
「小角殿! 法術を頼む!」
「はい! ──オン・アミリテイ・ウン・ハッタ」
中年の侍に呼びかけられた小角は、白い息を吐きながら〈黄金の錫杖〉を構え、雪上に倒れ込んだ若い侍に向けて軍荼利明王のマントラを詠唱した。
「ああ……助かった、小角殿」
苦悶の表情を浮かべて苦しんでいた侍の体を黄光する法力が包むと、すぐに出血が止まった。
「これが小角殿の法術……いや、これは本物だな」
「……お役に立てているようで光栄です」
中年の侍が感心して告げると、小角は〈黄金の錫杖〉を胸に抱えながら応えた。一言主から与えられた〈黄金の錫杖〉は小角の法力を格段に高め、マントラの効果を飛躍的に強めていた。
怪我を治癒する軍荼利明王のマントラと、筋力を増強する大威徳明王のマントラ、この二種類の法術で50人を超える侍衆を後方から支援する。
京で討伐隊に加わった際には、"経験不足の若い法術師が来た"と侍衆からあなどられていた小角であったが、今や討伐隊が崩壊を免れているのは小角のおかげと誰しもが理解していた。
「ご苦労でおじゃ、小角殿──皆、小角殿を頼りにしているでおじゃるよ」
徒歩で移動する侍衆の中にあってただひとり、白馬に騎乗している侍が馬上から声をかけた。
「……ありがたきお言葉、恐悦至極に存じます」
小角はその得も言われぬ"やんごとなき雰囲気"を漂わせた顔を見上げるやいなや、頭を下げた。その人物は、討伐隊を率いる征夷大将軍・坂上田村麻呂その人に他ならなかった。
高貴なほほ笑みを浮かべた田村麻呂は優雅に頷いて返すと、侍衆を見渡して声を上げる。
「彼奴の根城は、この村の洞窟内にある! 皆の衆! 心して取り掛かるでおじゃ!」
「──オオオオオッ!」
田村麻呂の呼びかけに呼応した侍衆は一斉に太刀を掲げ、野太い声を張り上げた。
そして狂信者を葬りながら雪に埋もれた寒村を進んだ討伐隊は、真っ赤な鳥居が建つ山のふもとの洞窟へとたどり着いた。
「……まるで神社だな」
「……鬼を名乗る分際で」
立派なしめ縄が垂れ下がる洞窟の入口を見ながら侍衆が口々に言うと、白馬から降りた田村麻呂が先頭に立った。
「では皆の衆──鬼退治を始めるでおじゃるよ」
告げた田村麻呂が先陣を切って洞窟内に足を踏み入れると、駆け出した侍衆が田村麻呂を中央にして護るような陣形に展開しながら歩を進めた。
入口にひとり残された小角は〈黄金の錫杖〉を両手で固く握りしめながら白い息を吐き出すと、討伐隊の最後尾となって洞窟に足を踏み入れた。
「小角殿……このロウソクを見よ」
「……?」
小角の前を行く中年の侍が不意に立ち止まって呼びかけた。薄暗い洞窟の道沿いには甘い香りを漂わせるロウソクが妖しい灯火を揺らしながら至るところに置かれていた。
「これは、人の指だ」
「……!?」
小角は侍に指摘されて初めて気づいた。凍えるような寒さの洞窟を照らすそれらのロウソクは、すべて人間の人差し指の先端に蝋を塗って火を灯している呪物であった。
「思えばあの狂信者ども、皆揃って人差し指がなかったな……ふざけおって」
「……自らの指を捧げることで、鬼の民として認められるのでしょうか……?」
「鬼の風習など、知ったことかよ」
考えたくもないとばかりに吐き捨てた侍は、再び不気味な洞窟を歩き出した。侍衆の背中を見ながら歩き続けた小角は、突如として開けた空間に出たことに驚いて息を呑んだ。
壁中に刺された無数の指ロウソクが煌々と照らす広い空洞、その奥にそびえる鬼の曼荼羅が描かれた漆黒の祭壇には、結跏趺坐を組んだ上半裸の美しい男がひとり座っていた。
「──出会え」
眼光を鋭くした田村麻呂が告げるやいなや、侍衆が一斉に動き出して方々に展開しながら太刀を構えた。
鍛え抜かれた真っ白な肌に胸元まで長く伸びたそれよりも白い髪を持つその男は、目を閉じたまま穏やかな笑みを浮かべていた。
「……お侍様がた、遠路遥々このような極寒の地まで、よくぞ参られました。さぞや、困難を極めたことでありましょう」
優女を思わせる艶やかな声で告げた悪路王。玉座として腰かけている祭壇の壁面に描かれた禍々しい鬼の曼荼羅は、よく見れば人の血で描かれていることに小角は気づいた。
「麻呂は征夷大将軍・坂上田村麻呂。大和朝廷より悪路王討伐を命じられ、馳せ参じたでおじゃ……して、そちが悪路王に相違ないな?」
田村麻呂の雅な言葉が空洞に木霊すると、悪路王は静かに口を開いた。
「ええ。私は悪路王。蝦夷の大地に鬼の国を建国せし鬼の王──朝廷に対して不遜な行いであることは重々承知しております。とはいえ、悪逆非道は鬼の性分ゆえ、なにとぞご容赦願いたい」
悪路王は悪びれることなく満面の笑みを浮かべ、赤い唇を引き裂いた。
「……そちの顔を見受けたところ、鬼には見えぬでおじゃるが?」
「ふっ……鬼とは人、人とは鬼……両者にいったい何の違いがありましょうか? 人は鬼にも神にも仏にもなれる。私は鬼の王となる道を選んだ……ただ、それだけのこと」
悪路王は祭壇の左右に置いてある黒く歪んだ阿吽像を白い指で撫で回した。
「ところでお侍様がた、どうか教えてくださいませ……我が民草の血は、美味でありましたでしょうか?」
「抜かすな外道! 人心をかどわかし、狂気の中に捕らえおって!」
「今すぐに成敗してくれるわ! 鬼畜生めが!」
悪路王の問いかけにしびれを切らした侍衆が吼えるように罵声を浴びせかけた。
「皆の衆、彼奴の話をまともに聞くでないぞよ――"悪路"に引きずり込まれるでおじゃるからな」
田村麻呂に見据えられた悪路王は、「ふっ」と軽く笑ってから阿吽像を両手で持ち上げ、愛でるように眺めた。
「まったく信じがたいことですが、私は村に落ちた隕石の中から、この体つきで生まれました……覚えていることといえば、私を不路弖悪と呼ぶ、愛しき母のかすかな記憶だけ」
悲しげに告げた悪路王の目元に血の色をした切れ込みがすっと現れたのを見やって、侍衆に緊張が走った。
「こちらの阿吽像は、その隕鉄を削り出して鍛えた至極の一品にございます……この阿吽像にて歴史に爪痕を刻めば、必ずや我が母・魔或印が見つけ出し、私を迎えに来てくださる」
悪路王は両手に握る阿吽像に力を込めながら震える声を漏らした。
「私はその一心で、今日まで生きて来たのです」
「──そちは名を残せぬ」
田村麻呂の冷たい声を受けて、悪路王は大きく首を傾げた。
「ここで、麻呂たちが消し去るゆえ」
告げた田村麻呂が白鞘から太刀を抜いて両手で構えると、悪路王はため息をつきながら結跏趺坐を崩した。
「……それは、困りましたね」
白い素足を地面に落とし、祭壇から立ち上がった悪路王の両眼が、ゆっくりと見開かれていく。
「では、是が非でも──生きねば」
眼球まるごと赤く染まった"魔眼"がぎょろりと討伐隊に向けられた瞬間、満面の笑みを咲かせた悪路王は両手の阿吽像を握りしめながら勢いよく跳躍するのであった。




