3.黄金の錫杖
それから三ヶ月後──厳しい冬が訪れ、白く染まった葛城山にて、雪が降りしきる山頂であぐらをかいて瞑想をする17歳になった小角の姿があった。
「……よう、邪魔しているぞ」
雪の上であぐらを組んだ小角は薄目を開きながらそう声を発すると、降りしきる雪の中で褐色肌の美しい色を際立たせた一言主が無言でその背後に立っていた。
「……師匠。おぬしが何を言いたいのかはわかる……この一ヶ月の間、葛城山を離れてどこに行っていたのか、ということであろう」
冬でも凍らない泉の水面を見やりながらそう告げる小角の背中を、一言主は烏天狗の仮面の下から黙ったまま見続けた。
「……ご察しの通り、京に出向いていた。新たな経文と市井の情報を手に入れるためにな……神であるおぬしは万年山にいても困らぬのだろうが、人である私はそうはいかない──たまには人里に降りねば、山に取り憑かれた"野人"になってしまうでな。かかか」
小角はそう言って笑うと、一言主は冷めた口調で低い声を発した。
「──ならば、いなくなる前に一声でもかければよいではないか──」
「……ああ、そうだよな。出ていくとき、声をかけようとは思っていたのだ……しかし、姿が見当たらず途方に暮れてな……結果として黙って出ていく形になった──すまぬな」
小角はそう言って詫びると、目を開いて立ち上がった。そして、降りしきる雪の中に立つ一言主と向き合った。
「──余がどれだけ……」
「……すまぬ、師匠──」
「──…………」
小角が一言主に再び詫びると、一言主は黙ったまま大カラスの羽根をまとった黒衣の背中を向けて雪に高下駄の足跡をつけながら小角の前から歩き去っていこうとした。
「──おい、待て……! ──土産もちゃんと、用意したのだ……!」
小角は一言主の背中に向けてそう声を発すると、足元の頭陀袋から"カサゴの干物"を取り出した。
"カサゴの干物"特有の強烈なクセのある匂いが雪の中でもぷんと漂うと、一言主は振り返った。
「……少し落ち着いて話をしよう。な」
「──…………」
小角の言葉に一言主は黙ったまま小さく頷いて返すと、二人は雪を避けるために泉の前から森の中へと移動した。
そして、小角は手早く焚き火を作って倒木の上に腰掛けると、仮面をずり上げた一言主は直接地面にあぐらをかいて座り込みながらカサゴの干物にがぶがぶと貪りついた。
「……うまいか?」
「──……うまい」
小角が声をかけると、焚き火の明かりに口元を照らされた一言主は一言答えて返した。
「……京でな。面白い話を聞いたのだ……」
一言主がカサゴの干物を貪り食う中、小角は焚き火の中に手近な小枝を放り込みながら話しを始めた。
「……なんでも、千年にわたって善行を執り行い、天高くまで功徳を積み重ねた人間がな……その集大成としてただ"一雫"のみ生み出せる"秘薬"があるんだそうな……一度そいつを飲めば、悪鬼悪霊の皆尽くを蹴散らす、"超常なる仏の力"が手に入るとか、なんとか……」
「──……小角よ。その話には大きな欠点があるぞ……」
小角の言葉を匂い立つカサゴの肉を咀嚼しながら聞いていた一言主は、低い声で発した。
「──……千年の時を生きた人の子など、この世には一人もおらぬということだ」
「……ッ」
一言主のずばりな指摘を聞き受けた小角は、瞠目したあとに大口を開けて笑い出した。
「くかかかかっ──!! その通りだな……! さすが師匠……! 全くもってその通りだ……! かかか──!!」
小角は笑いながら小枝を拾って焚き火の中に放り込むと、揺れる火を見つめながら口を開いた
「……この話、私が咲かせる"大空華"に相応しいと思うたのだが──そうよな……そもそもにして、千年の時を生きること自体が叶わぬか」
「──人の子が、余のような"不死の存在"にでもなれるならば、話は別であるがな……」
一言主がそう告げると、小角は"不死の存在"である一言主の黒い仮面に隠された顔を眺めながら目を細めた。
「……おぬしはやってみたいとは思わんか……"千年善行"──」
「──くだらぬ……"一年善行"すらしたくはないな」
「……ふっ──まっことおぬしらしいな」
たずねた小角に対して一言主は冷めた口調で答えて返すと、苦笑した小角は白い法衣のすそを手で振り払いながら倒木から立ち上がった。
「さて……葛城山に来るのは、今日で最後かもしれん」
「──……?」
発された小角の言葉を耳にして、疑問符を浮かべながらその顔を見上げた一言主。小角は倒木に引っ掛けていた頭陀袋の中に手を突っ込むと、一枚の紙を取り出した。
「日ノ本の遥か北……蝦夷の大地に"悪路王"という名の"鬼の王"がいるそうだ……本物の鬼ではない、人の身でありながら狂信者と共に"鬼の国"を作り出さんとする朝敵だ」
そう告げながら小角が差し出した紙を見やった一言主は、食べかけのカサゴを地面に置いて仮面をずり下げると、紙を受け取って眺め見た。
「征夷大将軍、坂上田村麻呂が率いるその討伐隊に……法術師として、私も参加しようと思う」
「──……して……なにゆえそれが、"今日で最後"になる」
紙に描かれた悪路王の人相書きと"悪路王討伐隊志願者求"と黒い筆文字で書かれているのを見た一言主は、小角に紙を返しながらたずねた。
「……わからぬか? この遠征で私は死ぬかもしれんのだ。人というのは呆気なく死ぬものだ。山にこもっている女神は人の死に触れることは少ないだろうが、今の日ノ本はまるごとが"死地"だ……そこら中で人が死んでいる──戦、疫病、餓え……そして悪路王のような悪人の手によってな」
「──悪かったな……世間知らずの山の女神で……」
小角が紙を頭陀袋に戻しながら告げると、一言主はふてくされたように呟いた。
「悪路王討伐隊に私は死ぬ覚悟で参加する……しかし、この蝦夷地への遠征で、私は何か見つけられそうな"予感"がするのだ」
小角は言いながら頭陀袋を背負い上げると、地面に座る一言主の顔を見下ろしながらほほ笑んだ。
「……己の人生をかけて咲かせるに値する"大空華"の手がかり……悪路王の人相書きを見たとき、私はこの"鬼の王"に会ってみたいと強く思うた」
「──……別に止めはせん……何に興味を持つかはそなたの自由……」
小角のいつになく熱意の込められた声音に一言主はそう言って返すと、地面から立ち上がって小角と目線を合わせた。
「──ただし、余に一人しかおらぬ"弟子"が、見知らぬ土地で無駄死にするのは気分が悪くなるのでな……"師匠"として、そなたが生き延びる力は貸し与えたく思う──」
一言主はぶっきらぼうにそう言うと、両手を持ち上げるように掲げて"神力"を手のひらに込めた。
漆黒の色をした神力が渦を巻くように一言主の両手に集まると、初めて一言主の"神の力"を目の当たりにした小角は驚きに目を見開いた。
「──ウンッッ──!!」
そして一声力強く発した一言主がグッ──と両手を握りしめた瞬間、漆黒に光り輝くまばゆい神力が両拳から迸り、棒状を形成しながら極光すると、"漆黒の光"の中に〈黄金の錫杖〉が姿を顕し、一言主の両手に握られた。
「──これは〈黄金の錫杖〉という……余の"神具"、すなわち余の"神力"の一部である……よいか小角、これは"授ける"のではない、"貸し与える"のだ──いずれは必ず、余の元に返してもらうからな」
「……っ──!!」
一言主はそう言って〈黄金の錫杖〉を差し出すと、小角は息を呑みながら、頭に金輪が三つ並んだその"神の杖"を両手を差し出して受け取った。
「……手にしただけで、凄まじい力を感じる……これが、"神の力"……」
〈黄金の錫杖〉から伝わってくる強烈な力の熱を感じた小角は震える声で言うと、仮面をつけた一言主の顔を見やった。
決して常人が手にすることはないであろう強力な"神具"、〈黄金の錫杖〉を手に入れて戸惑う小角に対して一言主は静かに頷いてから口を開いた。
「──鬼の手から人の子を救って参れ……ただ一人の余の弟子──小角──」
蝦夷地という名の死地に赴く"弟子"に対して、一言主は慈悲深い声音でそう告げるのであった。