2.師匠と弟子
16歳の小角は修行の場を葛城山および葛城山脈に定めると、女神・一言主に見護られながら山ごもりを行い、法術師としての研鑽と鍛錬の日々を積んでいた。
山ごもりを開始してから三ヶ月が経ったある夏の昼下がり、日課の"山跳び"を終えた小角が倒木に腰掛けながら京から持ち込んだ経文を開いて読んでいると一言主が現れて声をかけた。
「──精が出るのう、小角……ほれ、差し入れじゃ」
一言主は粗野に言いながら、耳を握り持った瀕死の野ウサギを小角の足元に向けて放り投げた。
「ッ……何度言えばわかる。私は法術師なのだ。獣肉は食えんと」
小角は経文を閉じながら一言主に告げると、ぴくぴくと体を痙攣させる野ウサギに目をやった。
「──人の子は古来より何でも食ろうて生き延びてきた。ゆえに今の人の子の時代がある──自然の摂理に反するくだらぬ法に縛られおって。いったい誰が考えた法だそれは」
「仏様よ──」
苛立ちを込めながら言う一言主に対して、小角は答えて返しながら右手に持った経文を掲げてみせた。
「──はっ、くだらぬ。ここは日ノ本、神の国。仏ではなく、神を信じよ──それに小角、おぬしは余だけを崇拝すればよい……!」
「いつの時代の話だ。だからおぬしは世間知らずの愚かな女神と京で評されるのだ」
「──なに!? 誰だそんな不遜な物言いをした輩は──!? 葛城山に連れて参れ──!!」
小角の言葉に一言主は烏天狗の仮面の奥の紫色の瞳を怒らせながら声を荒げた。それに対して、小角は静かに首を横に振りながら口を開いた。
「いいか、この日ノ本は神様仏様──その両者を崇め奉る国なのだ。どちらが偉いとかそういうものではない──」
小角はそう告げると、右手の経文を野ウサギに差し向け、左手で片合掌しながら"オン"と一声力強く発して、瀕死状態の野ウサギに聖なる力"法力"を注いで復活させた。
起き上がった野ウサギは何が起きたのかわからずにあたりを見回したあと、ぴょんぴょんと森の中へ駆け出していった。
「──また、自然に反することをしおったな……おのれ、仏の力」
一言主は森の中に消えていく野ウサギの姿を目で追いながら低い声で言うと、小角は苦笑しながら足元に置いていたビワを一個拾い上げて一言主に放った。
「──ぬ?」
「おぬしも獣や魚のような、体が臭くなるようなものばかり食っておらんで、たまにはこういった自然由来のものを食え」
ビワを受け取った一言主に対して小角はそう告げると一言主は小角を睨みつけながら仮面の下で口を開いた。
「──獣も魚も自然由来だ、たわけが」
一言主は不満気に言って返すと、烏天狗の面を持ち上げて口元を出し、ビワにかぶりついた。
その様子を見届けた小角は、再び経文を開いて読み始めようとすると、不意に一言主がビワの種を口から飛ばしてきた。
「──プッ──!」
「……うおっ!」
小角の顔に向かって飛来してきたビワの種は経文によって弾かれて地面に落ちると、いじわるな笑みを浮かべた一言主はビワにかぶりついて、見せつけるように咀嚼した。
「──ほれ、仏のありがたい経文で、"神の種"を迎撃してみせよ──プッ、プッ、プッ──」
そう告げた一言主が三連続で飛ばしたビワの種を閉じた経文ですべてはたき落とした小角。
「ッ、だからおぬしは愚かな山の女神だと言われるのだ……!」
小角が呆れた顔で告げると、一言主は知ったこっちゃないという顔で残りのビワを口の中に押し入れて咀嚼した。
それから更に三ヶ月の月日が経ったある秋の午後。日課の"山跳び"を終えた小角は山頂の泉にて、水浴びをしていた。
紅葉する葛城山の木々を眺めながら頭の天辺で結っていた長い黒髪をほどいた小角は、半年の山ごもりで随分と鍛えられた若い肉体についた汚れを泉の清水で洗い流していた。
「──…………」
一言主は黙ってその背中を見つめていると、小角が背を向けたまま口を開いた。
「……悪いな、入らせてもらったぞ。あまりに気持ちよさそうだったんでな」
小角が告げると、一言主は黒い仮面の奥で紫色の瞳を細めながら口を開いた。
「──別に構わん……背中でも洗ってやろうか」
「……馬鹿を言うな」
「──馬鹿とはなんだ。余は神であるぞ──」
一言主はそう言うと、大カラスの羽根で織られた黒い羽衣をするりと草の上に脱ぎ落とし、背中に折り畳まれていた大カラスのそれに似た大翼を気持ちよさそうに大きく広げた。
「……おいっ……」
「──ふっ……」
横目でその様子を見た小角が声を上げると、笑みを浮かべた一言主は泉の中に高下駄を脱ぎ捨てた褐色の素足を構わず差し入れ、清らかな泉の中に漆黒の大翼を広げた褐色の裸体を沈めていった。
そして、小角の背後まで歩み寄ると、その耳元に向けささやくように声を発した。
「──決して振り向くでないぞ、小角……」
一言主はそう低い声で静かに告げると、顔につけていた烏天狗の仮面を外し、水面の上に浮かばせた。小角はその仮面を横目で見やると、観念したように深く息をはいた。
そして、一言主もまた小角に対して背中を向けると、小角は鍛えられた自身の背中越しに、一言主が広げる大翼の羽根の、艷やかで柔らかな感触を感じながら口を開いた。
「……一言主よ、私とおぬしはどういう関係なのだろうな……」
「──…………」
小角の言葉を聞いた一言主は、紫色の瞳で紅葉する木々を眺め見ながら小角の背中と自身の背中とをぴたりと付け合わせた。
「──なんということはない。一時限りの、たわむれの関係であろう……」
一言主は今までに葛城山に現れ、去っていった人間がそうであったことを思い浮かべながら、小角に対してもそのように告げた。
「……そうかな……私はおぬしのことを──"師匠"だと、そう思うておるのだがな」
小角はそう言うと、水面を浮かびながら眼前に流れ着いた一言主の黒い仮面を手に取った。以前、小角が一言主に聞いた話によるとこの仮面は一言主の手製の品であるとのことであった。
硬い樫の木を削り出して造られたその仮面の両面には、黒漆が分厚く塗られており、顔に降りかかる光を拒絶するかのような漆黒の色合いをしていた。
クチバシの尖った烏天狗の顔を模したその漆黒の仮面を眺め見た小角は、おもむろに自身の顔にスッ──と押し当て、くり抜かれた目元から自身の黒い瞳をのぞかせた。
「──ふっ、何を異なことを申す……余はそなたに何も教えてはおらん……葛城山にて、勝手に学び、勝手に成長しているだけではないか」
自身の仮面を小角が顔に付けていることに気づかない一言主は紫色の瞳を細めながらそう言うと、小角もまた仮面の目元から覗かせた黒い瞳を同じように細めた。
「おぬしが"葛城山の女神"だと云うのならば……葛城山の木々に実ったモノを食らい、その山肌を駆け巡って修行をしている私にとっては……やはりおぬしは立派な"師匠"になるのではないかな──それになにより、おぬしは私に"大空華"を教えてくれた」
「──ふっ……ならば"弟子"として、少しは"師匠"である余に敬意を払え」
「……払っているさ、私なりにな──」
小角はそう言うと、黒い仮面を顔から外して一言主の方へと流した。そして二人はしばし互いの背中を付け合わせたまま、秋の泉で水浴びをするのであった。