2.師匠と弟子
生きる指針"大空華"を得た小角は葛城山の一帯を修業の場と定め、一言主に見護られながら山ごもり修行を開始した。
三ヶ月が経った夏、日課の山跳びを終えた小角が倒木に腰を下ろし、京から持参した経典を読んでいると、一言主が姿を現した。
「精が出るな小角。余からの差し入れだ」
告げた一言主は、耳を掴んで持った瀕死の野ウサギを小角の足元に雑に放り投げた。
「……何度言えば分かる。私は法術師だ。獣肉は食えん」
ぴくぴくと痙攣する野ウサギを見ながら小角は眉をひそめた。
「古来より人の子はなんでも喰ろうて生き延びてきた。だからこそ今の人の子の時代がある。自然に反するくだらぬ戒律に縛られおって、いったい誰が考えた法だ」
「仏様よ」
苛立ちを滲ませる一言主に対して、小角は経典を掲げて答えた。
「はっ、くだらぬ。ここは日ノ本神の国であるぞ。仏ではなく神を信じよ」
「いつの時代の話だ……それだからおぬしは、世間知らずな山の女神だと言われるのだ」
「世間など知ったことか──それに小角、そなたは余だけを崇拝しておればよい。それが安泰だ」
胸を張った一言主の返答に小角はため息をつきながら首を横に振った。
「そうはいかん。この日ノ本はな、神様と仏様、その両者を崇め奉る国なのだ。どちらが偉い、優れている、などという話ではない」
告げた小角は、右手の経典を野ウサギに向け、左手で片合掌しながら「オン」と力強く一声発した。
黄光した経典から法力が迸り、瀕死の野ウサギの体に注ぎ込まれると、すぐに起き上がって辺りをきょろきょろと見回した。
「また自然に反することをしおったな……おのれ、仏の力」
森の中へと去って行く野ウサギを目で追いかけた一言主が低い声で呟くと、苦笑した小角は足元に置いていたビワを一個拾い上げて一言主に放った。
「……ぬ?」
「おぬしも体が臭くなるものばかり喰わず、たまにはこうした自然の恵みを味わえ」
一言主は受け取った手中のビワを睨みつけながら答えた。
「獣肉も自然の恵みじゃ、たわけが」
不満げに言った一言主は仮面を持ち上げ、ビワにかじりついた。
小さく鼻を鳴らした小角が再び経典を読もうとしたそのとき、不意に一言主が「プッ!」と口から種を飛ばした。
「うおっ!」
小角の顔めがけて飛来した種は、とっさに掲げた経典に弾かれて地面に落ちると、いじわるな笑みを浮かべた一言主は、立て続けに種を放った。
「プッ、プッ、プッ!」
「やめろ! だからおぬしは愚かな女神だと言われるのだ……!」
神の種を仏の経典で弾き落としながら小角が声を荒げると、一言主は知ったこっちゃないという表情で残りのビワを口に押し込んで咀嚼した。
それから三ヶ月が経った秋──日課の山跳びを終えた小角は、山頂の聖泉で水浴びをしていた。
紅葉する葛城山の木々を眺めながら、頭頂で結った長い黒髪をほどき、半年に亘る山ごもり修行で鍛えられた肉体についた汚れを洗い清めていく。
「ん……? 悪いな……あまりに気持ちよさそうだったので入らせてもらった」
小角は一言主に見られていたことに気づいて告げた。
「別に構わん。背中でも洗ってやろうか?」
「……馬鹿を言うな」
「馬鹿とはなんだ。余は神であるぞ」
一言主はそう言うと、漆黒の羽衣をするりと草の上に脱ぎ落とし、背中に折り畳まれていた大翼をバサッと広げた。
「おい……!」
慌てて顔を逸らした小角が声を上げると、笑みを浮かべた一言主は高下駄を脱ぎ捨て、褐色の素足を聖泉に差し入れる。
清らかな水の中に大翼を広げた褐色の肢体を沈めていき、小角の背後まで歩み寄ると、その耳元にささやくように声を発した。
「決して振り向くでないぞ、小角」
告げた一言主は、烏天狗の仮面を顔から外して水面に浮かばせた。横目で流れてくる仮面を見やった小角は、観念したように深く息を吐いた。
「……私とおぬしは、どういう関係なのだろうな」
紅く染まった森を眺めた一言主が小角の背中に自身の背中をぴたりと寄せると、柔らかな羽根が精悍な背中と重なり合った。
「なんということはない。一時限りの戯れであろう」
今までも葛城山に現れては去っていった人間たちのことを思い浮かべながら、一言主は告げた。
「そうかな? 私はおぬしのことを、"師匠"だと思っているのだが」
小角はそう言うと、水面を漂いながら眼前に流れ着いた黒い仮面を手に取った。
クチバシの尖った烏天狗の顔を模した仮面を眺めた小角は、おもむろに自身の顔に押し当てた。
「ふっ、異なことを申す。余はそなたになに一つとして教えてはおらん。そなたは勝手に学び、勝手に成長しておるだけではないか」
自身の仮面を小角が着けていることに気づかぬまま、一言主は紫眼を細めてそう言うと、小角もまた仮面の目元から覗かせた黒い瞳を細めた。
「葛城山で修行をしている私にとっては、葛城山の女神たるおぬしは、やはり師匠になるのではないかな──それになにより、師匠は私に"大空華の法"を教えてくれた」
そう言ってほほ笑んだ小角は、黒い仮面を顔から外して一言主の方へと流した。
「ふっ……ならば弟子として、少しは余に敬意を払うがよいぞ」
「……払っているさ、私なりにな」
ふたりは互いの背中を付け合わせたまま、美しい秋の聖泉で静かに水浴びを続けるのであった。




