1.一言主と役小角
千年前の日ノ本にて──大和・葛城山の山中を疾駆する眼光鋭きひとりの少年がいた。
彼は父を知らず、母は「育てられぬ」とだけ言い残し、飛鳥川沿いの小さな寺に赤子の彼を捨て置いた。
役という名の老住職は小角と名付けたその赤子を、拾った日を誕生日として我が子のように育てた。
子守唄代わりにマントラを仕込まれた小角は天賦の才を開花させ、5歳で初歩的な法術、10歳で高度な法術を扱えるまでに成長した。
そして14歳の誕生日を迎えた早朝、「十分に悟り申した」とあさげを食す住職に告げると、頭陀袋ひとつ背負って寺を出て上京した。
「──神、どこにいるよ……! 葛城山の女神ッ……!」
それから2年あまり、京の都で新米法術師として研鑽を積んだ小角は、「葛城山には女神がいる」という噂話を先輩法術師から聞いて居ても立ってもいられなくなった。
三日三晩、春の葛城山脈を走り続けた小角は、ついに葛城山の最高峰まで登り詰めると、白い法衣を風になびかながらその絶景を眺めた。
「……ハァ……ハァ……!」
黒い瞳を輝かせた小角は、山頂に広がる美しい泉を見やると、草履を履いた足で近づいた。
柔らかい草の上に両膝をつき、頭頂で黒髪を結った自身の顔を透き通った水面に映し出すやいなや、顔を突っ込んでごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ。
「なんとうまい水だ……これが葛城山の聖泉か……」
甘さすら感じる冷水に目を見張った小角は、法衣の袖で顔の水気を拭ってから背負っている頭陀袋を草の上に置いて開いた。
中から取り出した法具で聖泉の前に五芒星の陣を描き出すと、その仕上げとして中央にカサゴの干物を置いた。
「──オン・ドドマリ・ギャキテイ・ソワカ」
両手で印を結んだ小角が鬼子母神のマントラを唱えると、五芒星の陣が黄光してからスッと消え、一見してカサゴの干物が草の上に置かれているだけの状態となった。
「……山の女神は世間知らずと聞くが……こんな見え透いた罠に引っかかるものだろうか……? まぁ、いい……寝て待とう」
山にいるはずのないカサゴを見ながら呟いた小角は、泉から離れて森の草陰に横になると、溜まっていた疲労感からすぐに寝息を立てた。
それから三時間後──"くちゃくちゃ"という咀嚼音を耳に入れて目を開いた小角。枕代わりにしていた頭陀袋からゆっくりと頭を上げ、草陰に身を伏せたまま泉の様子を窺った。
「…………」
視線の先には、ひとりの女がいた。大カラスの羽根で織られた漆黒の羽衣をまとい、長い黒髪を流した褐色の肌。
赤い高下駄を素足に履き、黒い烏天狗の仮面を顔の上方にずらして、両手で掴んだカサゴの干物を一心不乱に貪っている。
「……喰っとる」
"女神"の姿を凝視した小角は声に漏らすと、激しく鼓動する心臓を落ち着かせるために大きく息を吸った。
そして足音を立てぬよう注意深く、草の上にしゃがみ込んでカサゴにかぶりつく女神の背後へと近づいていく。
女神の背中からは折り畳まれた黒い大翼が飛び出しており、それは決して飾りなどではなく、女神の体の一部であることが近づくにつれてはっきりと見て取れた。
「……っ」
今相対している女が本物の女神であることを実感した小角は思わず息を呑んだ。しかし過度に緊張せぬよう「葛城山の女神は愚かな女神」と言う先輩法術師の言葉を心中で引用した。
夢中でカサゴに喰らいつく女神の背後に立った小角は意を決すと、両手で素早く印を結び、大翼が生える無防備な背中めがけてかけ声を発した。
「──オン・マカラカァッ!!」
「ッ──!?」
鬼気迫る顔つきで発した小角の黒い瞳と、驚愕とともに振り返った女神の紫の瞳とが交差した瞬間。
強烈な黄光を放つ五芒星の陣が草の上に浮かび上がり、随所に描かれた梵字から法力の縄が生え伸びて、またたく間に女神の体に絡みついた。
「ギアアッ──!!」
絶叫した女神がカサゴを手放しながら前のめりに倒れ込むと、黄光する縄はさらに伸びて容赦なく全身を縛り上げた。
「グアアッ──!!」
女神は罠にかかった獣のように激しくもがきながら吼えたが、法力で編まれた縄はよりキツくその拘束を強めた。
「暴れるな。一度かかれば抜け出せん。私の得意とする法術・鬼子母神の封じ縄だ」
小角が告げると、女神は咄嗟に顔を地面にこすりつけ、烏天狗の仮面をずりさげて素顔を隠した。
「かはは。山の女神はカサゴを好むというのは本当だったのだな……いやなに、京で聞いたのだ。山の女神は醜い顔をしている。それより醜いカサゴの肉を好む、とな」
笑みを浮かべた小角は、仮面の奥の紫眼で睨みつける女神の前にどかっとあぐらをかいて座った。
「こんな話も聞いたぞ? 葛城山のふもとを行く帝の声形を真似て驚かしたとな……よくやる」
小角が鼻で笑うと、女神は苦々しげに身をよじりながら仮面の奥で低い声を発した。
「……して、人の子よ……余を如何ようにするつもりだ……おおかた帝の前に引きずり出して、くだらぬ褒美でも得ようというのであろう……」
敵意を顕にした鋭い眼差しで告げる女神に対して、小角は首を横に振って答えた。
「いや、違うよ。その話を聞いたときにな、ぜひおぬしに会うてみたいと思ったのだ。帝を真似て驚かすとは。いやはやなんとも、私好みの余興ではないかよ。かはは」
陽気に笑った小角は、クチバシが伸びる黒い仮面で隠された女神の顔を覗き込むように見やった。
「それにどれだけ醜い顔をしているのかと思えば──なぁに、ちと癖はあるが私好みの顔ではないか」
「なッ!?」
上ずった声を漏らした女神は、仮面をつけた顔を地面に押しつけて小角から顔を逸らした。
「隠すな、隠すな。私は見てしまったぞ。無我夢中でカサゴを貪り喰う、葛城山の女神の素顔をなぁ。かはは」
「……くッ! これ以上余を辱めるな、人の子……! もう気が済んだであろう……! 早急にこの縄を解いて立ち去れ……!」
苦渋の声を上げる女神に向けて、小角は手をかざした。
「まぁ待て、そう急くなよ。別にからかいに来たわけではないのだ……おぬしに一つ、尋ねたいことがあってな」
「……答えれば、この忌々しい縄を解くか……?」
「ああ……すぐに解こう」
女神の訴えに真摯な眼差しで応えた小角は、あぐらをかいた膝の上に両手を置いた。
そして目を閉じて深く呼吸してから決心を固めると、伏せていた顔を持ち上げた女神と視線を合わせた。
「ずばり問おう──人はなにゆえ、生きるのだ?」
小角の問いかけが日の暮れかかった葛城山の山頂を貫いた。
「私は齢14にして空華の法を悟った。空華、すなわち虚空に咲く華。この世は所詮、幻想の花園に過ぎぬという真理の法だ」
虚ろな眼差しで告げた小角に、女神は沈黙で返した。
「空華の法を見出した私は、胸が漉くような一時の安楽を得た……だがしかし、それはすぐに深い虚無感へと変わった……」
小角は膝の上に置いた手を見つめてから、青紫へと転じていく黄昏の空を見上げた。
「ああ、人の一生とはなんと虚しいものか……ありもせぬ花を眺め、求め、愛でるだけで終わるとは……」
小角の口から吐き出される諦念の込められた言葉を、草の上に横たわった女神は黙って聞き届けた。
「しかし京の都を見て回れば、誰しもがそうして生きているし、なんら疑念など抱くことなく日々を送っている……まるで私だけが、人の営みの埒外に弾かれてしまったようだ」
小角は視線を下ろすと、黄光する封じ縄に拘束されている女神の顔を見つめた。
「なぁ女神? 私はまだ16なんだ。この先、気の遠くなるような空っぽの人生が待ち構えているかと思うと、気が触れそうになる」
女神は仮面の奥の紫眼を細めて、眉を曇らせる小角の若い顔を見つめた。
「いっそ終わらせて楽になるのも道理か……? なぁ、永劫の時を生きる山の女神よ……悟ってしまった私は、これからどう生きればいい? 教えてくれよ……」
小角の真剣な訴えはしかし、葛城山誕生の瞬間から生き続ける山の女神の大笑いによって返された。
「ふっ……! ふふふ! ははははっ! あっははははっ!!」
草の上に横たわった女神はさぞや愉快そうに、星々が顔を見せ始めた夜空に向けて笑い声を発し、小角は不満げに眉をひそめた。
「まったく人の子というは、くくく……そのような些末なことで思い煩い、自らの命を絶とうとまで悩み苦しむか……はぁ、滑稽でならんなぁ」
助けを求める者を突き放すような女神の返答に落胆した小角は、重いため息をつきながら立ち上がった。
「そうかい……おぬしに聞いた私が愚かだったよ……」
小角の意気消沈した顔を仮面の奥からじっと見つめた女神は、「ふん」と鼻で笑ってから静かに口を開いた。
「──咲かせればよいではないか」
「……っ」
吐き捨てるように言った女神の言葉に小角は双眸を大きく見開いた。
「眺める? 求める? 愛でる? 違うな。咲かすのだ──満開に咲き誇るそなたの"大空華"を、空虚で退屈なこの世に、でかでかと此れ見よがしに咲かせてやればよいのだ」
黒い仮面に隠されていようともわかるいたずらな笑みを浮かべた女神は、雷に打たれたように全身を硬直させた小角に告げる。
「人の子の生は短く儚いが、幸いにしてそなたはまだ若い──おのれの人生をかけて探せ、心から咲かせたいと望む、"大空華"の大花輪をな」
ぶっきらぼうな物言いながらも人への慈悲心が込められた女神の言葉を聞いた小角は、目頭から一筋の熱い涙をこぼしながら頷いた。
「……この世に"大空華"を咲かせてみせろか……その考え、気に入った」
憑き物が落ちたような爽やかな笑みを浮かべた小角は、両手をパンと叩き鳴らして女神の体を拘束する法力の縄をスルスルと解いた。
「……私の名は役小角──まだ何者でもない、駆け出しの法術師だ」
小角が右手を差し出しながら告げると、苦笑した女神はその手を掴んで立ち上がった。
そして仮面の奥に光る紫の瞳で、まだあどけなさの残る少年と青年の狭間にある小角の顔を見つめた。
「……余は、葛城山の女神──しかし小角よ、特別に"一言主"の名で呼ぶことを許そう」
遮るもの一つない満天の星空が広がる葛城山の山頂で、互いの手を取り合った人と神の視線が交差する。
これが千年前、若き役小角と葛城山の女神・一言主が初めて対面した日の出来事であった。




