7.桃姫
「どう桃姫、いい感じに描けてる?」
艶やかな黒髪の女性が台所で味噌汁をかき混ぜながら声をかけると、化粧机で作業していた桃色の髪の少女・桃姫が答えた。
「うん、いい感じ」
桃姫は手にしていた顔料の小皿と毛筆を化粧机に置くと、『桃太郎の物語』と題された紙芝居を手に取って立ち上がった。
「ほら見て、母上。今日は父上が桃から生まれてくる場面を描いたんだ」
草履を履いて土間に下りた桃姫は、紙芝居を母親の小夜に掲げて見せた。
老夫婦が両手を上げて驚いているところに、割れた桃の中から男児が勢いよく飛び出している絵であった。
「ふふ。元気よく生まれてるわね、桃太郎さん」
「そうでしょ。桃から生まれた桃太郎。きっと村の子供たち楽しんでくれるよね」
「うんうん。みんな桃姫の紙芝居、楽しみにしてるわよ」
母娘が仲むつまじく会話していると、玄関の木戸が開けられて桃太郎が姿を現した。
「ただいまー」
「お帰りなさーい、父上」
「お帰りなさいませ、あなた」
桃姫が元気よく桃太郎の帰宅を迎え入れると、小夜は土鍋に入った味噌汁を三つの茶碗に注ぎながら声を発した。
桃太郎は茶色い羽織を脱いで壁に掛けると、ちゃぶ台の前に敷かれた座布団にあぐらをかいて座った。
「やぐらの建築が終盤に入ってね、なかなか大変だよ」
桃太郎は土瓶から冷たいお茶を湯呑みに注ぎながら言うと、小夜はおぼんに乗せた味噌汁と漬物をちゃぶ台の上に運んだ。
「今日もお仕事お疲れ様でした……桃姫が紙芝居の続きを描いたんですって。桃太郎さんが生まれてくるところ。見てあげてくださいな」
「え……いや、自分が生まれるところなんて」
桃太郎は眉をひそめながら答えた。
「そうおっしゃらずに、せっかく桃姫が村の子供たちに読み聞かせるために描いてるのですから」
「うーん……」
桃太郎は並べられていく夕飯を眺めながらお茶を一口飲んで喉を潤した。そして、紙芝居の絵を抱え持った桃姫がじっと土間に立っている様子に苦笑してから手招きした。
「わかった、見るよ。ぜひとも見させてくれ。私が桃から誕生するところ」
「うん!」
満面の笑みで答えた桃姫が足早に草履を脱いで板の間に駆け上がると、桃太郎に紙芝居の絵を見せた。
照れ笑いを浮かべる桃太郎に絵を見せて満足した桃姫は、家族とともにちゃぶ台をかこむ座布団に座った。
小夜がちゃぶ台の下からおひつを引き出し、被せていたふきんを取った。
塩水が入った茶碗の中に指先をちょっと浸し、まだ温かい玄米をすくって両手で軽快に握っていく。
「母上、なんでそんなにおにぎり作るのがうまいの?」
「なんでって、毎日握ってるからでしょ」
形の良い玄米おにぎりが皿に並べられいくのを見た桃姫が尋ねると、小夜は当然とばかりに答えた。
「桃姫も明日で14歳なんだから、料理の基本くらいは覚えないと、それからお裁縫もね」
「蹴鞠とお絵描きばかりやってちゃだめだってさ」
桃太郎が桃姫にいたずらっぽい笑みを浮かべて言うと、桃姫は不満げな顔をした。
「蹴鞠道を極めながらでも、料理とお裁縫の勉強はできる」
「ははは。そうだな、桃姫は器用だもんな」
力強く告げた桃姫に、桃太郎は目を細めて笑った。
味噌汁と大皿に並べられた玄米おにぎり、自家製の漬物がちゃぶ台に並ぶと、三人は手を合わせ「いただきます」と言ってから食事を始めた。
食事を終えると、桃太郎は釜戸の火を竹筒で吹いて湯を沸かした。入浴を済ませた桃姫と小夜が風呂場から出ると、桃太郎に声をかけた。
「桃太郎さん、今日もいいお湯加減でした」
「父上、ありがとう」
肌から湯気を立てながら浴衣姿で土間から板の間に上がってきたふたり。ちゃぶ台を片付けて三人分の布団を板の間に敷いていた桃太郎が頷いた。
「風呂を沸かすのは子供の頃から私の仕事だったからね」
そう言ってほほ笑み、ふたりと入れ替わるように土間に降りて、奥にある風呂場まで歩いていった。
桃姫は布団の上に座ると、小夜が櫛を使って濡れた桃色の長い髪を梳かしながら手ぬぐいで乾かしていく。
「桃姫の髪の毛は父上にそっくりで……本当に綺麗な色をしてるわよね」
小夜が桃姫の柔らかな桃色の髪を一房手に取りながらそう言うと、桃姫は首を横に振った。
「どこにいても目立つから、私はあんまり好きじゃない」
「そんなこと言わないの……あ、そうだわ」
小夜はふと思い立つと化粧棚の前まで行って漆塗りの小筒を手に取った。
「それって、顔料?」
「んーん。椿油の香油」
桃姫が布団に座ったまま尋ねると、小夜はほほ笑みながら答えた。
「今朝ね、村の小間物屋さんで買ったの。"肥前"の椿を使ってるんだって」
「"ひぜん"? "びぜん"じゃなくて?」
桃姫は自分が住んでいる"備前"ではないのかと思い、首を傾げた。
「肥前は九州にあるのよ……そうね、備前と似てるけど、ぜーんぜん違う場所」
「ふーん、九州かぁ……日ノ本って大きいんだね」
桃姫は呟きながら天井を見上げると、小夜は穏やかな眼差しで桃色の髪を眺めた。
「……桃の匂いがする髪には、香油なんて必要ないわよね」
小夜はくすりと笑うと、椿油の小筒を置いた。髪を乾かしたふたりのもとに手ぬぐいを首にかけた浴衣姿の桃太郎がやってきた。
「少し早いけど、今日はもう寝るとしようか」
「そうですね。明日はお祭りですし。いいわね、桃姫?」
「うん」
桃太郎が行灯の火を消すと、格子窓から差し込む月明かりによって板の間が青白く照らし出された。
家族三人が川の字になり、それぞれの布団に体を入れて横になると、桃太郎が左隣の桃姫に声をかけた。
「……桃姫、明日の祭りは楽しみかい?」
桃姫は天井を見つめながら答えた。
「うん……私の誕生日と鬼退治の日が同じって、不思議だよね」
桃姫は言うと、桃太郎の顔を見た。月明かりに照らされた桃姫の顔を見つめながら、桃太郎は小さく頷いた。
「そうだね……鬼退治のちょうど4年後に桃姫は生まれた」
「ねぇ父上……紙芝居に描きたいから、鬼退治の日のこと、詳しく聞かせて?」
桃姫が問いかけると桃太郎は表情を曇らせた。桃姫から視線を逸らし、天井を見上げる。
「……あまり、思い出したくないな」
「そうなの?」
桃姫が意外そうな顔で聞き返すと、桃太郎は遠い目をしながら静かな声で告げた。
「ああ……仲間が、犠牲になったからね」
「……イヌとサルとキジ」
「ああ。それに……鬼もたくさん退治した」
桃姫の言葉に、桃太郎は付け加えた。
「でも、鬼は日ノ本を苦しめたから父上が退治しないといけなかった……鬼ヶ島の鬼は、悪い鬼なんだよ」
「そうだ、その通りだ……悪い鬼、なんだよな」
桃姫が熱を込めて言うと、桃太郎は目を閉じながら呟いた。
「ねぇ桃姫……父上はお仕事で疲れてるから……お話はおしまいにして、休ませてあげましょう」
「……うん」
様子を見かねた小夜に答えた桃姫は、布団の中に体を沈め、枕の上に頭を預けた。
眠気でうとうとし始めた桃姫は、目を閉じながら小さく口を開いた。
「父上、母上……ずっと桃姫と一緒にいてね……」
目を閉じた桃姫が甘えるように口にすると、桃太郎は桃姫の顔を見つめながら誓うように答えた。
「……いるよ。そばにいる……桃姫は私の宝物だからね」
「母上は……? 母上も言って……?」
「うん……私もずっと桃姫を見護ってる……だから安心して、おやすみなさい」
小夜も桃姫の顔を見ながら答えた。川の字で寝ている三人は、桃姫越しに桃太郎と小夜の視線が合う形となった。
「……約束だよ……約束……」
小さく声に漏らした桃姫は、穏やかな寝息を立て始めた。
「おやすみ、桃姫」
「おやすみなさい、桃姫」
桃太郎と小夜は、安らかな顔で眠る桃姫に、桃姫を挟んだ愛する伴侶に、やさしく告げ合うのであった。