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36.魂魄の儀

 ぬらりひょんが"魂魄の儀"の開始を告げた瞬間、"天象庵"の黒い床が星雲のように青く美しい光を放ち始めた。陰陽の図形が淡い紫光に包まれ、幻想的な明かりが部屋全体を照らし出す。

 その神秘的な光景に息を呑む桃姫。紫に光る陰陽図の上で、ぬらりひょんと視線が交わった。


「二百年ぶりの皆既日食じゃ。このわずかな時間だけ、アマテラスの目──〈天照眼〉が閉じられる」


 ぬらりひょんは白濁した両眼を閉じると、杖を握りしめた。その身体から紫光の波動がゆらゆらと立ち昇る。


「ぬらりひょんさん、いったい何を──」

「桃姫よ。今からわしは、自らの魂魄をおぬしに差し出す。魂魄を他者に譲り渡すは、アマテラスの逆鱗に触れる大禁忌。ゆえに今この時しか、行えぬのじゃ」

「……っ!?」


 桃姫の顔が青ざめると、ぬらりひょんの紫光する両眼がカッと見開かれる。


「わしは長く生き過ぎた。この老いた肉体では、もはや限界じゃ──ゆえにわしの魂魄を、桃姫に宿らせることに決めた」

「そんな……アマテラス様が禁じていることを、どうして……!?」

「なぜ禁忌とされるか、それはな……おぬしが日ノ本最強の存在──"妖桃融合体"へと真化するからじゃ」


 陰陽図からも紫の波動を吸い上げながら、ぬらりひょんが宣言する。


「桃姫よ、おぬしは桃太郎の血を引き、さらにぬらりひょんの妖力をも得た天下無双の存在となるのじゃ」

「……そのとき、ぬらりひょんさんは……どうなるんですか?」

「わしは消える」


 あまりにも淡々とした答えに、桃姫は言葉を失った。


「案ずるな。この老いぼれた身体など、どうでもよい。大切なのは、わしの力が桃姫に受け継がれること。おぬしこそが、わしの力を受け取るに相応しい至高の継承者なのじゃ」

「……継承者」


 紫光に包まれたぬらりひょんの言葉を聞きながら、桃姫は眉をひそめる。


「そうじゃ。わしはずっと探しておった。この朽ちた肉体を捨て、魂魄を宿らせるに足る継承者をな」


 鬼退治の英雄の娘が現れた時の興奮を思い返しながら、ぬらりひょんの紫光がより一層強まる。しかし桃姫は、その姿を見つめながら後ずさりしていく。


「……いきなり継承者だなんて言われても……少し、考えさせてください」

「それはならん! この皆既日食は二百年に一度! この好機を逃せば、桃姫が生きているうちに魂魄の儀を行うことは不可能なのじゃ!」


 ぬらりひょんが声を荒げ、黒杖で陰陽図をダンッと突いた。瞬間、紫光の波動が桃姫に向かって吹き付け、その身体を包み込んでいく。


「ぬらりひょんさん、待ってください……!」

「桃姫は心をひらき、ただわしの魂魄を受け入れればよい……さすればおぬしの寿命は飛躍的に伸び、比類なき大強者へと変貌を遂げる──」


 紫光の魂魄に包まれた桃姫の濃桃色の瞳に、紫の波紋がぼうっと浮かび上がる。桃色の着物にも、紫の花びらが次々と咲き始めた。

 ぬらりひょんの魂魄が継承され、"妖桃融合体"が誕生する──その寸前。


「──イヤですッ──!!」


 桃姫が拒絶の絶叫とともに全身から白銀の波動を放った。


「な、ぬうっ……!?」


 白銀の波動に吹き飛ばされる紫光の魂魄。同時にぬらりひょんの身体も弾き飛ばされ、陰陽図の上を転がって本棚に激突する。ドサドサッと妖怪関連の書物が降り注いだ。


「あ、ああ……」


 書物に埋もれたぬらりひょんが愕然とうめいた時、天井のガラス窓越しに黄金の太陽がその姿を現し始める。"天象庵"の部屋全体が、再び明るい陽光に包まれた。


「はぁ……はぁ……!」


 紫光を失い白く戻った陰陽図の上で、桃姫が荒い呼吸を繰り返す。青から黒へと戻る床に尻もちをついたぬらりひょんを見下ろしながら、桃姫が口を開いた。


「ごめんなさい、ぬらりひょんさん……! 私、継承者にはなれません! だって私、まだ自分のことすらよくわかってないんです……!」


 申し訳なさそうな表情で、桃姫が続ける。


「日ノ本を旅して、妖々魔さんから剣術を学んで、やっとその一片を掴み始めたばかりなんです! こんな中途半端な状態で、ぬらりひょんさんの力を受け取るなんて……それじゃ、私の心が持ちません!」

「……桃姫……うぅ」


 桃姫に断れたぬらりひょんは白濁に戻った両眼を残念そうに細め、顔を伏せた。


「でも、魂魄に包まれた時、確かに伝わりました。ぬらりひょんさんが本気で私に力を与えようとしていたこと……だから私も、受け入れるか本気で迷いました……そして選んだんです──受け入れないって」


 桃姫はぬらりひょんの前まで歩み寄ると、右手を差し出した。


「ぬらりひょんさん。その気持ちだけで、十分に私への贈り物です」

「……桃姫」


 感極まったぬらりひょんは桃姫の手を取り、立ち上がる。


「……でも、びっくりしました。事前に言っておいて欲しかったです」

「事前に言ったら、絶対に断ったじゃろ……?」

「それはわかりません……雉猿狗には相談したと思いますけど」

「それがいかんのじゃ……あやつはわしが嫌いじゃから、絶対に断れと言うわい」

「ははは……そうかも」


 二人の間に穏やかな空気が流れた──その瞬間。爆発音とともに、"天象庵"の黒い扉が吹き飛ばされた。


「わっ……!?」

「何ッ……!?」


 桃姫とぬらりひょんが身をすくませて扉の方を見ると、吹き飛んだ扉の向こうからバリバリバリッと激しい稲光を伴った白い雪駄がスッと現れる。

 続いて、稲妻と化した長い銀髪をバチバチッと大気に踊らせながら、緋色の双眸を憤怒に燃やし、全身に神雷をまとった雉猿狗がその異貌を"天象庵"に現した。


「だ、誰じゃ……!?」


 ぬらりひょんには、その存在が雉猿狗だと一目ではわからなかった。

 事実、目の前に立つ雉猿狗は、何よりも護るべき最愛の桃姫を奪われた"鬼子母神"であり、ぬらりひょんを現世から消し去るべき対象と捉えた"憤怒の化身"であり、両眼を縦に釣り上げ顔面を恐ろしく歪めきった、誰にも止めることのできない"狂乱状態"であった。


「……雉猿狗っ!?」

「雉猿狗じゃと!?」


桃姫の呼びかけを耳にして、ぬらりひょんはようやく目の前の異貌の存在が雉猿狗だと認識できた。


「──即刻、桃姫様から離れなさい……外道妖怪──」


桃姫との距離が近いぬらりひょんを睨みつけた雉猿狗は、恐ろしく冷たい声でそう告げると、右手をスッと持ち上げて人差し指をぬらりひょんに向けた。


「……雉猿狗っ、待って──!」


 桃姫が声を上げた瞬間、雉猿狗の指先からバリリリッと激しい雷鳴とともに電撃が放たれる。桃姫の奥に立つぬらりひょんめがけて、高速で飛んでいく。


「……いかんッ──!」


 この距離では桃姫にも被害が及ぶと見て取ったぬらりひょんは、咄嗟に両手を伸ばして桃姫の身体を抱き上げ、床を蹴って電撃をかわした。かわされた電撃は本棚に激突し、爆発音とともに四方八方に稲妻を飛び散らせて妖怪関連の書籍を燃え上がらせる。


「ああ──わしの秘蔵書がッ!?」


 桃姫とともに天井近くまで跳躍したぬらりひょんは、燃え上がる蔵書の数々を見下ろしながら悲鳴のような声を発した。


「──卑怯者! 桃姫様を離しなさい!!」

「言われずとも、そのつもりじゃッ!」


 雉猿狗が鬼気迫る顔で叫ぶと、ぬらりひょんは両手を離して桃姫を陰陽図の上に落とした。

 桃姫は妖々魔仕込みの軽業でスタッと着地する。天井のガラス窓に逆さまに張り付いたぬらりひょんが、雉猿狗に向けて声を荒げた。


「……雉猿狗めッ! とうとう獣の本性を現しおったなッ!」

「それはこちらの台詞です、ぬらりひょん! 卑怯にも私を眠らせ、その隙に桃姫様を連れ出すなど! 鬼にも劣る妖の所業!!」


 雉猿狗とぬらりひょんが互いに睨み合いながら罵倒を浴びせ合う。


「雉猿狗、聞いて! ぬらりひょんさんは魂魄の儀をやるために、私を呼んだの──!」

「──魂魄の儀!? アマテラス様が固く禁じていらっしゃる、あの禁断の儀式を行おうとした!?」


 桃姫の言葉に驚愕した雉猿狗が声を張り上げる。それに対してぬらりひょんは、天井に張り付いたまま叫んだ。


「そうじゃッ! おぬしが同席しておれば、どうせ妨害をしたじゃろうッ!」

「当然でしょう!! アマテラス様に仕えるこの私が、そのような暴挙を許すわけがないでしょうに!!」

「この憎ったらしい獣女ァッ!! それが、おぬしらを匿ったわしに対する態度かッ!? 恩義という言葉を微塵も知らんのかァッ!?」

「私の恩義は、御館様にしか生じません! そしてそれは、桃姫様を護り抜くという──ただその一点にのみ集約されております!」


 雉猿狗の凛とした発言を聞いたぬらりひょんは、太い血管が浮かんだ大きなハゲ頭を両手で押さえながら、うめくようにして叫んだ。


「カアアアアッ!! 気に入らんッ! まったくもって気に入らんぞ、雉猿狗ッ! おぬしの存在、丸ごと全部わしは気に入らんッ!」

「奇遇ですね、ぬらりひょん! 私も心底、気に入りません! あなたの存在、丸ごと全部、今すぐ消し去りたいほどに!!」


 雉猿狗が全身を黄金の神雷で光り輝かせながら憤怒の形相で告げる。ぬらりひょんは眼下に落ちていた黒杖を両手に引き寄せ、即座に握りしめた。

 右手で握った杖頭を引き抜いてスラッと抜刀すると、紫銀色に妖しく輝く刃を持った仕込み長ドスへと変わる。


「言うではないか、雉猿狗──今、わしの堪忍袋が破れる音が聞こえた──その生意気な減らず口、わしのこの〈影鳩えいく〉にて八つ裂きにして、二度と吐けぬようにしてくれようぞ」


 白濁した両眼を憤怒に燃え上がらせ、低い声でそう告げたぬらりひょんは、両手で構えた〈影鳩〉の美しい切っ先を、睨みつけてくる雉猿狗に差し向けた。


「ねぇ、もういいから……! もう全部終わったから……! 二人とも、戦わないでよ!!」

「何も終わってなどおりませぬ、桃姫様! このような薄汚い外道が日ノ本にいる限り、私の怒りが収まることは決してございませぬ!!」

「誰が薄汚い外道じゃ! わしは奥州妖怪頭目ぞッ! 口を慎め、この畜生風情がッ!」

「ッ、なんという無礼な呼び方!? あなたこそ恥を知りなさい!! この腐れ外道!!」


 罵倒の応酬によって更に激昂した雉猿狗が、黄金の神雷を激しく迸らせながら力強く床を蹴り上げる。天井に張り付いたぬらりひょんめがけて、雷撃をまとった右拳を大きく振りかぶった。

 それに対してぬらりひょんは、両手で構えた〈影鳩〉の刃に妖力を注ぎ込んで激しく紫光させると、迫りくる雉猿狗めがけて甲高い声を発しながら大きく振り上げる。


「──キェェエエエイッ!!」

「──死にさらせェェエッ!!」

「私の誕生日に、やめてぇええええッ──!!」


 互いに怒号を発しながら急接近していく二人に向けて、桃姫が叫んだ瞬間──〈影鳩〉の刃と雷撃の拳とが宙空でぶつかり合い、紫光と黄光とを綯い交ぜにした強烈な極光が"天象庵"全体にうねるように迸るのであった。

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