35.日ノ本一、怒らせてはならない存在
自室の椅子に座る桃姫は勉強机に向かって書物を読んでいた。紙をめくる音だけが部屋に響く中、ふと顔を上げて軽く息を吐いた。
そして、丸いガラス窓の向こうに広がる奥州の森にキラキラとした陽光が踊っているのを眺めていると、扉が数回叩かれた。
「あ……雉猿狗。おかえり──」
桃姫は書物を閉じながら扉に向かって声をかけ、椅子から立ち上がった。しかし、開かれた扉の向こうに立っていたのは雉猿狗ではなく、黒杖を手にしたぬらりひょんだった。
「あれ、ぬらりひょんさん……? 雉猿狗は──」
「──桃姫よ。おぬしに特別な贈り物を用意したでな……ついて参れ」
ぬらりひょんはそう告げると、返事を待つことなく長廊下へと歩き出した。桃姫は困惑しながらも廊下に出て、その背中を追いかけた。
「ぬらりひょんさん、雉猿狗に話があるって……雉猿狗はどこ?」
「雉猿狗との話は済んだ。入れ違いにでもなったのじゃろう……それより今は、桃姫への贈り物が先じゃ。なんせ、受け渡しに期限があるでな……ほっほっほ」
「……期限?」
疑問を胸に抱きながらも、桃姫はぬらりひょんに従って階段を上った。やがて三階の突き当たり、奥座敷"天象庵"の黒い扉の前で足を止めた。
「"天象庵"……わしの書斎であり、天文部屋じゃ。中に入るのは初めてじゃろう?」
ぬらりひょんは灰色の着物の懐から無骨な鍵を取り出し、黒い扉の鍵穴に差し込んだ。
「……入ってもいいんですか?」
「うむ」
短く頷いたぬらりひょんに連れられ、桃姫は天象庵へと足を踏み入れた。
室内を見渡した桃姫の目に、興味深い光景が映った。左の壁には妖怪や民間伝承、妖術に関する蔵書がぎっしりと並び、右の壁には天体現象や天文学の専門書が収められていた。夜空を思わせる黒い床には白い陰陽図が描かれ、天井の大きなガラス窓から差し込む太陽光がその神秘的な空間を照らし出している。書斎というより、まるで秘密の蔵書庫のようだと桃姫は思った。
「ぬらりひょんさん……私への贈り物って、ここにある本のことですか?」
右の本棚の前に移動した桃姫が、天文学の難解そうな書物の背表紙を眺めながら尋ねた。ぬらりひょんは黒杖をつきながら部屋の中央、陰陽図の真上に立ち、天井のガラス越しに太陽を見上げた。
「いんや、違うよ……もっと素晴らしいものじゃ。決して値のつけられぬほどのな」
「……?」
首を傾げた桃姫が振り返ると、明るかった室内が徐々に薄暗くなっていくのに気づいた。ぬらりひょんの前まで歩き、並んで天井のガラス窓を見上げると、青空に浮かぶ太陽が横から現れた月によってゆっくりと覆い隠されていく。
「……太陽が、消えていく……」
初めて目にする天体現象に、桃姫は驚きの声を漏らした。やがて太陽が月に完全に隠されたその時、ぬらりひょんが厳かな声で告げた。
「──アマテラスの目は今、閉じられた……これより、"魂魄の儀"を執り行う──」
暗闇に包まれた天象庵で、ぬらりひょんの声音だけが響くのであった。
「──ん、んん……」
ポタ、ポタと天井の岩壁の隙間から水滴が落ち、雉猿狗の頬を濡らした。黄金の波紋が浮かぶ翡翠色の瞳がゆっくりと開かれる。
「……もう起きられましたか、雉猿狗様」
簡素な寝台で意識を取り戻した雉猿狗に、地下牢の鉄格子越しから声をかけたのは夜狐禅だった。
「……夜狐禅様には、他者を眠らせる力がおありだったのですね」
ふらつく頭を手で押さえながら上体を起こした雉猿狗は、鉄格子の向こうの椅子に座る夜狐禅を見据えて冷たく言った。
「……驚きです。夜狐妖術は三日三晩は効くはずなのですが」
「そうですか……その力で悪事を働いていたのですね」
雉猿狗の声には内に秘めた怒りがにじんでいた。それを察した夜狐禅が答える。
「申し訳ございません……手荒なやり方とは承知しておりますが、頭目様の悲願を果たすためです」
「……悲願?」
「はい。ただし、お受けいただけるかどうかは桃姫様次第となりますが」
「…………」
夜狐禅の言葉を聞いた雉猿狗は深くため息をついた後、なるべく穏やかな声音を作って口を開いた。
「さて、夜狐禅様。ここから出していただけませんでしょうか? 私は陽の光を浴びないと気が滅入ってしまうのです」
「……申し訳ございません。頭目様のご命令により、夜になるまでは出せません」
「そうですか……ならば、仕方ありませんね──」
夜狐禅の返答を聞いた雉猿狗は冷ややかに呟きながら寝台から立ち上がり、背を向けた。
そして煮えたぎる憤怒を解き放ちながら、翡翠色の瞳を走る黄金の波紋を急速に拡大させていく。
「──離れた方がよろしいですよ──」
「……え……?」
静かにそう告げながら、黄金に輝く神雷を全身からバリバリと迸らせ始めた雉猿狗の後ろ姿を見て、夜狐禅は間の抜けた声を漏らした。
黄金の雷光が暗い地下牢を真昼のように照らし出したその時、雉猿狗は鉄格子に向かって振り返った。
「──日ノ本最高神、天照大御神より授かりし神の御業を視よ──神術・神雷暴爆ッ!!」
「……ひっ……!?」
振り返った雉猿狗の姿を目にして、夜狐禅は悲鳴を上げた。怒りに燃える両眼は黄金を通り越して緋色に染まり、鋭く光っている。
激しく明滅する稲光に包まれたその姿は、普段の温厚な雉猿狗ではない。最愛の桃姫を奪われて憤怒に身を委ねた、まさに"鬼子母神"と呼ぶに相応しい恐ろしい神の化身だった。
全身から放たれた怒りの雷撃は、轟音とともに牢屋の鉄格子を易々と吹き飛ばし、粉々に砕いて大穴を穿った。
「ッ……ち、雉猿狗様……!」
咄嗟に椅子から立ち上がり地下牢の隅まで下がった夜狐禅は、階段へ続く鉄扉に背中を押し当てて震え声を絞り出した。
一歩、また一歩と大穴から姿を現した雉猿狗が、全身に強烈な稲光をまとったまま夜狐禅の元へと歩み寄っていく。
「──獣の魂を持つ者同士のよしみです。夜狐禅様、あなたを傷つけたくはありません。どうか、道をお開けください」
「……は、はい……」
激しい怒りを宿した緋色の瞳を光らせながらも丁寧に告げる雉猿狗に対して、恐れ慄いた夜狐禅は小さく頷きながら、階段へ続く道を譲る。
「──ぬらりひょんは、どこに?」
「……さ、三階の突き当たり……"天象庵"です……」
鉄扉の前に立った雉猿狗が静かに尋ねると、雷光に照らし出された夜狐禅が震え声で答えた。
「──かしこまりました」
「……あの……雉猿狗様っ……鍵は、こちらに……!」
夜狐禅は重厚な造りの鉄扉を見据える雉猿狗に向けて、黒い着物の懐から地下牢の鍵を取り出した。
「──鍵など不要……ハァアアッ!!」
雉猿狗は一階に続く分厚い鉄扉に稲光を放つ片手を押し当てると、掛け声一つで吹き飛ばし、赤い絨毯が伸びる長廊下に出た。
「……ほ、本当に……僕と同じ、獣……なのか……」
夜狐禅は呆然とその後ろ姿を見送った後、雉猿狗によって破壊され瓦礫の山と化した地下牢の残骸を見回した。
「頭目様、僕たちは……日ノ本一、怒らせてはならない存在を……怒らせてしまったのかもしれません……」
夜狐禅は恐怖にふるえながら呟くと、その場にへたり込んでしまうのであった。