31.暴君・鵺狒々
それから一ヶ月──桃姫は毎夜、墨庭園にて妖々魔と剣術の鍛錬を行った。
これという剣術を身につけていなかった桃姫の体には、妖々剣術の独自固有の戦い方が吸い上げられるように染み込んでいった。
「妖々剣術──それは剣術と体術を組み合わせた全く新しい戦い方でござる。野を駆る獣がごとく、足のみならず手までを使い、縦横無尽に転がり跳ねて、斬りつける!」
「はいッ!」
妖々魔の教えを受けた桃姫は、まさに獣のように時には手も使って中庭を駆け、軽快に飛び跳ねながら浮き木綿相手に剣撃を繰り返した。
「妖怪のように柔軟に立ち回り、相手の意表を突く! 妖々剣術とは、それがしもよく名付けたものでござる!」
「──ハァッ!」
転がった先で瞬時に跳躍した桃姫は、浮き木綿の背後に回り込み、振り返りざまに〈桃月〉の刃で斬りつけた。
上下に寸断された浮き木綿が地面に落ちると、ふわふわと二枚になって再び浮かび上がった。
「桃姫様……凄まじい戦い方を身につけられておられますね」
「うむ。あのような人間離れした剣術は、桃太郎の娘だからこそ体得しうるのじゃろう」
長廊下から眺めていた夜狐禅とぬらりひょんが感心しながら話していると、透き通るような青い目をした一羽のハヤブサが中庭の夜空に現れた。
「ぬん!? あれは!」
ハヤブサの口元を見やったぬらりひょんは、慌てた様子で中庭へと続く階段を駆け下りた。
灯籠のそばで桃姫の鍛錬を見護っていた雉猿狗の頭上までやって来たハヤブサは、クチバシで咥えていた一枚の紙を落とした。
「……?」
ひらひらと落ちてきた紙を雉猿狗が両手で受け取ると、「キー」と一声鳴いたハヤブサは、力強く羽ばたいて中庭から飛び去っていった。
「……これは、手紙?」
「雉猿狗、その手紙をわしに」
「ええ……」
雉猿狗から渡された手紙をぬらりひょんはその場で開いて読んだ。桃姫と妖々魔、夜狐禅も何事かと灯籠の前に集まってくると、ぬらりひょんは呟いた。
「蝦夷地の妖怪女王──カパトトノマト様からじゃ」
ぬらりひょんは手紙の文面を四人に見せた。
──ぬらりひょん わらわへの恩義を忘れていないなら いますぐ蝦夷地まできなさい 以上
異様に力強い筆圧で書かれた文字を桃姫が読み上げると、ぬらりひょんはため息をついた。
「妖怪女王への恩義……でござるか」
妖々魔が言うと、ぬらりひょんは遠い目をしながら口を開いた。
「あれは400年前のことじゃ……わしは奥州に攻め込んできた妖怪大王・大太郎坊に苦戦を強いられ、蝦夷地まで逃げ込むはめとなった」
「……そんなことが」
夜狐禅は小声で漏らした。ぬらりひょんに長く仕える夜狐禅にとっても初耳だった。
「そのわしを助けてくださったのがカパトトノマト様よ。大太郎坊が蝦夷地に足を踏み入れた瞬間、カパトトノマト様の封印術が炸裂した……見事じゃったのう、あれは」
当時の光景を思い出したぬらりひょんは興奮混じりの笑みを浮かべた。
「大太郎坊の巨体は芯まで凍りつき、四国の讃岐へと強制転移させられた……わしはそれ以来、カパトトノマト様に頭が上がらんのじゃ」
ぬらりひょんはそう言うと、ひんやりとしたカパトトノマトの手紙を懐に仕舞って歩き出した。
「来い、浮き木綿」
ぬらりひょんが呼びかけると、茶色い浮き木綿が一枚ひらひらと近寄ってきた。
「では夜狐禅。わしは蝦夷地に行ってくる。留守は頼んだぞ」
「承知しました」
夜狐禅が応じると、ぬらりひょんは浮き木綿にぴょんと飛び乗った。
「なにか気をつけることなどありますでしょうか」
見上げた夜狐禅が尋ねると、ぬらりひょんは首を横に振った。
「心配いらん。頭痛の種だった鵺狒々(ぬえひひ)は、退治済みじゃからな」
「鵺狒々?」
聞き慣れない名前を耳にした雉猿狗が尋ねた。
「巨大な化け猿の妖怪じゃよ。見るからに粗暴でのう、気は進まなんだが"妖怪皆仲良く"が信条のわしは、館に入れてやった──夜狐禅、丁度おぬしが働き始めた頃じゃったよな?」
「……はい」
夜狐禅は顔を伏せながら小さな声で答えた。
「ところがどうじゃ。鵺狒々ときたら我が物顔で館を使い回し、食べ物は手当たり次第に平らげ、他の妖怪にも暴力を振るう始末……まさに暴君・鵺狒々じゃったわい」
「……本当に、悪夢のような日々でした」
夜狐禅は苦い表情を浮かべながら、当時を振り返った。
「わしが"出て行け"と一喝すると、そこからが大暴れの始まりじゃ……わしも本気を出して、二度と奴の顔を見ずに済むようにはしたが……はぁ、あの暴れ猿のことなど思い出したくもないわい」
うんざりした表情で呟いたぬらりひょんは、浮き木綿の上であぐらをかいた。
「とにかく、鵺狒々がいなくなった今、館は平穏そのものじゃ。あれほど厄介な妖怪はそうはおらん。案ずるな、夜狐禅」
「はい、頭目様……蝦夷地は大変に寒いと聞きます。どうか風邪など引かれませぬようお気をつけて」
「ばかもん。わしが風邪なんぞ引くかよ……それっ!」
ぬらりひょんがかけ声を発すると、夜空へと浮き木綿が上昇し、北に向かって飛んでいった。
「鵺狒々でござるか」
妖々魔が武者鎧の中から低い声を発すると、ぬらりひょんを見送った夜狐禅が答えた。
「大丈夫ですよ。あのときはどうなるかと思いましたが、頭目様がきっちりと」
「──きっちりと、なんだってェ?」
夜狐禅の言葉を断ち切るように野太い声が響くと、その場にいた全員が声の発せられた館の屋根を見上げた。
「──やァっといなくなったな、ぬらりのジジイ! バジャジャジャッ!」
黄色い満月を背負った巨大な猿の影が、屋根の上から咆哮のような笑い声を響かせると、中庭の中央めがけて跳躍した。
「鵺狒々っ……!?」
地響きとともに着地した鵺狒々の姿を見て、夜狐禅が裏返った声を漏らした。
「おお、狐の坊主! 元気してたかよォ!? バジャジャジャッ!」
鵺狒々は真っ赤な猿の目を見開きながら不快な笑い声を上げると、夜狐禅は震える声で告げた。
「頭目様が退治して……廃寺の洞穴に封じたはず……」
「おうともよ! ブチ切れたぬらりに、バラバラにされて穴の中にぶち込まれた! だがよォ! 手足と胴体を同じ穴に放り込む間抜けがどこにいるかよ! バジャジャジャッ!」
鵺狒々は長い両腕を夜空に向けて大きく広げ、太い両脚で黒い砂利石を踏みしめた。
「おかげ様でこの通りよ! 時間はかかったが、自力でつなげてやった! 封じた大岩も叩き壊して、こうして娑婆に戻ってきてやったぜェ! バジャジャジャッ!」
「鵺狒々……! あなたは入館禁止です! 結界だって機能しているのに、なぜ入れる……!」
今にも泣き出しそうな顔で夜狐禅が叫ぶと、鵺狒々は赤い目を細めて残酷な笑みを浮かべた。
「狙ったのよォ! ぬらりが留守になる瞬間をなァ! 館主であるぬらりが不在なら、結界の効力はずぬけて落ちるんだぜェ! バジャジャジャッ!」
愉快そうに笑った鵺狒々は、両手を地面にドンドンと叩きつけ、大口の端から突き出た太い牙を夜狐禅に見せつけた。
「しかも、この館の結界はもとから妖怪への効力が弱いときた! ツイてたぜェ、オレが鬼じゃなくてよォッ! バジャジャジャジャッ!」
「……く」
鵺狒々の言葉に夜狐禅は歯噛みしながら後ずさった。そして桃姫と雉猿狗、中庭にいる妖怪たちに向かって必死に声を張り上げた。
「皆様、お逃げください! こいつは、頭目様が命がけで封じた奥州一の暴君です!」
「バジャジャジャッ! 奥州一の暴君たァ、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの! まずはテメェから喰ってやろうか、夜狐禅ちゃんよォ!」
赤い目を見開いた鵺狒々が夜狐禅に大きな顔をグッと突き出すと、鼻をひくつかせた。
「んん? 若い女の匂いがする──おおッ!? いるじゃねぇかッ!? 美味そうな女が二匹もよォッ! バジャジャジャッ!」
夜狐禅の後方に桃姫と雉猿狗の姿を見つけた鵺狒々は、歓喜に満ちた声を響かせた。
「あんだけ"独眼竜"にしごかれておいて、まァだ館に人間の女を連れ込んでやがったのか、ぬらりのジジイッ! バジャジャジャジャッ!」
「おふたりには手を出さないでくださいッ!」
「──邪魔だァ! 小僧ッ!」
両手を広げて立ちはだかった夜狐禅を、鵺狒々は片手を振り抜いて弾き飛ばした。
「ぐァッ!」
「夜狐禅くん!」
砂利石の上を転がっていく夜狐禅の姿を見て、桃姫が悲痛な声を上げた。
「桃色髪のテメェ! たまらなく良い匂いだ! こいつぁ、喰いごたえがありそうだなァ!」
鵺狒々は口の端からよだれを垂らしながら、桃姫を凝視して熱い声を漏らした。
「桃姫様、お逃げください!」
桃姫をかばうように雉猿狗が前に出ると、鵺狒々は血走った赤い目を興奮で見開き、地面を叩きながら咆哮した。
「喰うッ! この館の女ッ! ぜんぶオレが喰うッ!」
「……猿殿。発情しているところ恐縮でござるが──それがしがお相手いたそう」
鵺狒々の背後から氷のように冷たい声が響くと、鵺狒々は咄嗟に振り返った。
「……だれだァ、テメェ」
「それがし、蘆名の剣術家・柳川格之進──またの名を、妖刀憑かれの妖々魔」
月光を受けて鈍く光る群青色の武者鎧を宙に浮かばせ、右手に妖刀〈夜桜〉、左手に妖刀〈夜霧〉を握りしめ、漆黒の面頬の奥から青眼を妖しく光らせた妖々魔。
「……知らねぇなァ」
「妖怪となったのは半年前のことゆえ、知らぬも当然」
「バジャジャッ! 新参かよォ! そんなら"妖怪の掟"ってヤツを、その薄汚い鎧に叩き込んでやらねぇとなァ!?」
「ほう──"妖怪の掟"とは、これいかなる?」
妖々魔が問いかけた瞬間、鵺狒々は黒砂利を蹴り砕いて跳躍すると、吼えながら妖々魔に迫った。
「それはなァッ! "強者こそが絶対"ってことよォッ!」
「ふむ──"戦国の掟"となんら変わらぬではござらぬか」
呟いた妖々魔は、流水のように鵺狒々の足の隙間を縫って背後へと滑り込んだ。鵺狒々が勢いよく振り抜いた右拳は、妖々魔が背にしていた灯籠を打ち砕いて粉砕した。
「ッ……いねぇ!?」
「これ以上、ぬらりひょん殿の庭園を汚すのは、ご遠慮願おうか」
鵺狒々の真後ろに立った妖々魔が静かに告げると、面頬の奥に浮かんだ冷たい青眼が、燃える赤眼へと転じるのであった。




