31.暴君・鵺狒々
「では夜狐禅、留守を頼んだぞ」
「承知いたしました。頭目様が留守の間、何か特別に注意すべきことはございますでしょうか?」
夜狐禅の言葉にぬらりひょんはにんまりと笑みを浮かべる。
「心配いらん。頭痛の種だった"鵺狒々"は、退治済みじゃからな」
「……"鵺狒々"と申しますと?」
聞き慣れない名前に、雉猿狗が首をかしげた。
「うむ。あれは10年前のことじゃ──巨大な化け猿の妖がのう、"怪我を治したいから湯に入らせてくれ"とやってきおった。夜狐禅、丁度おぬしが丁稚奉公を始めた頃じゃったな」
「……はい」
夜狐禅は顔をうつむかせて答えた。
「見るからに粗暴な大猿でのう。気は進まなんだが、"妖怪皆仲良く"がわしの信条……仕方なく館に入れてやった」
ぬらりひょんは黒杖を握りしめる。
「ところがどうじゃ。鵺狒々ときたら我が物顔で館を使い回し、食べ物は手当たり次第に平らげ、他の妖怪たちにも暴力を振るう始末……まさに"暴君・鵺狒々"じゃったわい」
「……本当に、悪夢のような日々でした」
夜狐禅は苦い表情を浮かべながら、当時を振り返った。
「ついに堪忍袋の緒が切れたわしが"出て行け"と一喝すると……そこから大暴れが始まったのじゃ」
深いため息をついたぬらりひょんは、両手で握った黒杖に頬を寄せる。
「わしも本気を出して応戦し、二度と奴の顔を見ずに済むようにしたが……はぁ、あの暴れ猿のことなど思い出したくもないわい」
うんざりした表情で呟くと、ぬらりひょんは顔を上げて大浮き木綿に歩み寄った。
「とにかく鵺狒々がいなくなった今、館は平穏そのものじゃ。あれほど厄介な妖怪はそうはおらん。夜狐禅、訪問客への対応さえ気をつけていればよい──それでは行ってくるぞ」
「はい、頭目様。蝦夷地は大変寒いと聞きます。どうかお風邪など召されませぬよう」
「ばかもん! わしが風邪など引くものか!」
ぬらりひょんは軽やかに宙空で一回転すると、"大浮き木綿"の背に着地した。主人を乗せた"大浮き木綿"は上昇すると、北へ向かって勢いよく飛翔していく。
「……鵺狒々でござるか」
妖々魔が武者鎧から声を発すると、夜狐禅が安堵の笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫ですよ。あのときはどうなるかと思いましたが、頭目様がきっちりと──」
「──きっちりと、何だってぇ?」
夜狐禅の言葉を断ち切るように、中庭に向かって野太い声が響いた。その場にいた全員が声の発せられた館の屋根を見上げた。
「やぁっといなくなったかよ、ぬらりのクソジジイ! バジャジャジャジャッ!」
黄色い満月を背負った巨大な猿の影が、屋根の上から咆哮のような笑い声を響かせる。中庭の中央に飛び降りて地響きとともに着地した。
「……鵺狒々!?」
夜狐禅の声が裏返る。絶望に染まった顔で名前を叫ぶと、鵺狒々は興味深そうに赤い目を見開いた。
「おお、夜狐の坊主! 元気してたかよォ!? バジャジャジャッ!」
「そんな……頭目様が手足をバラバラにして、廃寺の洞穴に封じたはずでは……」
高笑いする鵺狒々を前に、夜狐禅はふるえる声で呟いた。
「おうともよ! ブチ切れたぬらりに、バラバラにされて穴の中にぶち込まれた! だがなァ! 切った手足と胴体を同じ穴に放り込む間抜けがどこにいるかよ! バジャジャジャジャッ!」
鵺狒々は長い両腕を夜空に向けて大きく広げ、太い両脚で黒石を踏みしめた。
「おかげ様でこの通りよ! 時間はかかったが、自分でくっつけて完全復活だ! 封じた大岩もぶっ壊して、娑婆に舞い戻ってきてやったぜェ! バジャジャジャジャッ!」
「鵺狒々、あなたは入館禁止です! 結界だって機能しているのに、なぜ入れるのですか!?」
今にも泣き出しそうな顔で夜狐禅が叫ぶと、鵺狒々は赤い瞳を細めて残酷な笑みを浮かべた。
「狙い撃ったのよ、ぬらりが留守になる瞬間をな! 館主であるぬらりが不在なら、結界の機能は格段に落ちる! バジャジャジャッ!」
鵺狒々は両拳を握りしめると中庭の黒石にドンドンと叩きつけ、大きな口の両端から突き出た長く鋭い犬歯を夜狐禅に見せつける。
「しかも、この館の結界は同族の妖怪にはもとから効力が弱い! ツイてたぜ、オレ様が鬼じゃなくてよォ!」
「……く」
鵺狒々の言葉に夜狐禅は歯噛みして後ずさりした。そして桃姫と雉猿狗、異変を察知して外廊下に集まった妖怪たちに向かって必死に声を張り上げる。
「みなさん、お逃げください! こいつは、頭目様が命がけで封じた"奥州一の暴君"です!」
「バジャジャジャッ! "奥州一の暴君"たァ、嬉しいことを言ってくれるじゃねぇの──まずはテメェから喰ってやろうか、夜狐禅ちゃん」
ギラリと光る赤い目を見開いた鵺狒々が夜狐禅に大きな顔を突き出すと、急に鼻をひくつかせ始めた。
「ん、なんだァ? 若い女の匂いがするぞ……おおッ!? いるじゃねぇか!! 美味そうな女が二匹もよォ!! バジャジャジャッ!!」
夜狐禅の向こうに桃姫と雉猿狗の姿を見つけた鵺狒々が、歓喜に満ちた声を響かせる。
「あれだけ"独眼竜"にしごかれて、まだ館に女を連れ込んでやがったのか、ぬらりのジジイは! バジャジャッ!!」
「おふたりには手を出さないでくださいッ!!」
「邪魔だ、小僧ッ!!」
声を荒げた夜狐禅を、虫でも払うかのように片手で弾き飛ばした鵺狒々。
「夜狐禅くん!」
黒石の上を転がっていく夜狐禅の姿を見て、桃姫が悲痛な声を上げた。
「特に桃色髪のテメェ! いい匂いだ! 喰いごたえがありそうだなァ!」
鵺狒々は口の端からよだれを垂らしながら、桃姫を見下ろして熱い声を漏らした。
「桃姫様ッ!」
「お逃げ……ください」
桃姫をかばうように雉猿狗が前に出る。それを見た夜狐禅が、倒れながらもふたりへ声をかけた。
鵺狒々は血走った赤い目を興奮で見開き、地面を叩きながら咆哮した。
「──喰うッ!! この館の女ッ!! すべてオレ様が喰うッ!!」
「猿殿──発情しているところ恐縮だが、それがしがお相手いたそう」
背後から氷のような殺気を込めた凛とした声が響くと、鵺狒々は咄嗟に振り返った。
「……だれだ、テメェ」
「それがし、蘆名の剣術家・柳川格之進。またの名を──妖刀憑かれの妖々魔」
月光を受けて鈍く光る群青色の武者鎧が、"墨庭園"に浮かび上がっている。
右手に妖刀〈夜桜〉、左手に妖刀〈夜霧〉を握りしめ、黒い面頬の奥から青い眼を妖しく光らせていた。
「知らねぇなァ」
「妖怪となったのは半年前のことゆえ、お初にお目にかかる」
妖々魔の言葉を聞いた鵺狒々は高笑いした。
「バジャジャッ! 新参かよ! そんなら"妖怪の掟"ってヤツを、その薄汚い鎧に叩き込んでやらねぇとな!」
「──ほう、"妖怪の掟"とは、これいかなる?」
妖々魔が問い返した瞬間、鵺狒々は黒石を蹴り砕いて跳躍すると、手足を使って妖々魔に突撃した。
「それはなァ!! ──"強者"こそが"絶対"ってことよォ!!」
「──"戦国の掟"となんら変わらぬではござらぬか」
鵺狒々の足が浮いた隙間を縫って、妖々魔は流水のように背後へと滑り込んだ。
鵺狒々が振り抜いた左拳は、妖々魔が背にしていた灯籠を粉々に撃ち砕いて破壊する。
「ッ、いねぇ!?」
「──これ以上ぬらりひょん殿の庭園を汚すのは、ご遠慮願おうか」
鵺狒々の真後ろに立った妖々魔が静かに告げる。面頬の奥に浮かんだ冷たい青い眼が、燃える赤い眼へと転じるのであった。