30.伝授、妖々剣術
そして夜──ふたりは長い廊下を歩き、館の中庭へと足を運んだ。
ぬらりひょんの館には"墨庭園"と呼ばれる中庭がある。黒い砂利が敷き詰められた広大な空間だった。
「……夜の館って、朝には見かけない妖怪さんがたくさんいるよね」
「はい。浮き木綿様と目壁兵衛様も夜型の妖怪です」
灯籠の明かりに照らされた中庭では、色とりどりの木綿布が宙に舞っている。一つ目のついた大小の岩石たちも、ゴロゴロと転がりながら遊んでいた。
浮き木綿の一体が桃姫に気づき、ふわふわと近寄ってくる。
「浮き木綿さん、また剣の鍛錬に使っていいの?」
桃姫が声をかけると、浮き木綿は体をくねらせてからバッと広がった。浮き木綿は喋れないが、これが"かかってこい"という意味なのだと桃姫にはわかった。
「それじゃ、行くよ!」
桃姫は白鞘から〈桃月〉を引き抜くと、ゆらゆらと宙に揺れる浮き木綿に向かって剣撃を繰り返した。次々と集まってきた浮き木綿が桃姫を囲んだ。
「ヤァアアッ!!」
桃姫の渾身の一撃が赤い浮き木綿を縦に斬り裂くと、二つに分かれた木綿布がひらひらと地面に落ちる。しかしすぐにそれぞれが意思を持って動き始め、ふわふわと再び浮かび上がった。
浮き木綿は引き裂かれることで個体数を増やす妖怪だった。桃姫の剣の練習相手をしながら、自らも数を増やしていく。
雉猿狗や他の妖怪たちは、中庭の中央で浮き木綿と戦う桃姫の姿を眺めていた。
「……あ」
ふと、雉猿狗は妖怪たちの中に群青色の武者鎧──妖々魔の姿を見つけた。雉猿狗は隣へと歩み寄る。
「妖々魔様でいらっしゃいますね?」
「む?」
声をかけられた妖々魔は、兜と面頬の隙間から青い眼を浮かび上がらせながら振り返った。
「生前は蘆名の剣術家でいらっしゃったと夜狐禅様から伺いました。そこでお願いがあります。剣の鍛錬をしているあちらの桃姫様──鬼を退治するため、誰よりも強い女武者を目指している桃太郎のむすめです」
「なんと、桃太郎の」
雉猿狗の言葉に妖々魔は興味深げに、改めて浮き木綿の群れと戦う桃姫の姿を見つめた。
「しかし私たちには剣の師匠がおりません。独自の鍛錬では限界を感じております。もしよろしければ、桃姫様に剣の指南をしていただけませんでしょうか」
「ふむ……」
妖々魔は三振りの妖刀から発される妖しい熱気を感じ取りながら考えを巡らせた。
「──承知した」
浮き木綿をあらかた斬り終えた桃姫が一息ついていると、群青色の武者鎧がスゥッと中庭の中央へと現れた。
「あっ……妖々魔さんですね!」
桃姫が濃桃色の瞳を見開いて声を上げると、妖々魔は桃姫と向かい合って立った。
「それがし、蘆名の剣術家・柳川格之進。またの名を──妖刀憑かれの妖々魔」
名乗りを上げた妖々魔は中小の妖刀〈夜霧〉と〈夜露〉を黒鞘から引き抜き、両手に握りしめた。
「そなたの戦う姿を見て、忘れていた記憶のすべてを思い出したでござる」
妖々魔は桃姫の姿を見据えながら青い眼を光らせた。
「半年前、伊達との合戦の折、不覚にも若き女武者相手にそれがしは討ち取られた。丁度、そなたのような年頃の女武者でござった」
妖々魔は人間だったころの自分を思い出しながら告げる。
「油断していた──確かにそれもあったでござろう。しかし何より、手強い相手であったというのが事実。それがしも侍の端くれ、負けは認めるでござる。だが一つだけ心残りがあり申した。それがしの編み出した剣術を誰にも伝えることができなかった、その無念にござる」
桃姫は妖々魔の言葉を真剣に聞き入った。
「その無念は思念となり、この三振りの妖刀に宿って──こうして妖怪の身となった次第」
いつの間にか、中庭を見渡せる外廊下にはぬらりひょんと夜狐禅が立ち、妖々魔の話に耳を傾けていた。
「それがしは柳川格之進から妖々魔と名を改め、無名の剣術を妖々剣術と定めたのでござる──妖々剣術を未来ある若き武人に伝授するため。それこそがそれがしの本望」
妖々魔の言葉を聞き届けた桃姫は、覚悟を決めたように濃桃色の瞳に力を込めて声を発する。
「私の名は桃姫! 鬼退治の英雄・桃太郎のむすめ!」
桃姫の名乗りを聞いて、観衆の妖怪たちが一斉にざわめいた。
「妖々魔さん……いえ、妖々魔師匠! 私、強くなりたいんです! 強くならなきゃいけないんです! 妖々剣術を私に伝授してください!」
桃姫の熱い想いを受け取った妖々魔は静かに兜を下げた。やがて顔を上げると、青い眼が強く光っていた。
「桃姫殿、それがしの妖々剣術──そのすべてをそなたに伝授するでござる。いざ」
「はい! よろしくお願いします!」
満月と灯籠の明かりが照らす"墨庭園"にて、師匠と弟子による剣術の鍛錬が始まった。
──そして、妖々魔がぬらりひょんの館にやってきてから一ヶ月が経過した。
桃姫は毎夜"墨庭園"にて妖々魔と剣術の鍛錬を行い、妖々剣術の独特な戦い方がその身に染みついてきていた。
「妖々剣術──剣術と体術を組み合わせた全く新しい戦い方でござる。野を駆ける獣の如く、足のみならず手まで使い、縦横無尽に転がり跳ねながら斬りつける」
妖々魔の教えを受けた桃姫は、まさに獣のように時には手も使って中庭を駆け回り、軽快に転がりながら浮き木綿相手に剣撃を繰り返した。
「柔軟に、相手の意表を突く! まさしく妖怪のようにぬらりぬらりと立ち回る! 妖々剣術とは、それがしもよく名付けたものでござる!」
「ハァッ!!」
転がった先で瞬時に跳躍した桃姫が浮き木綿の背後に回り込むと、宙空で振り返りざまに〈桃月〉の刃で斬りつけた。
上下に切断された浮き木綿は黒石の上に落ちると、しばらくしてからふわふわと二枚になって浮き上がった。
「桃姫様……凄まじい戦い方を身につけられましたね」
外廊下から中庭を眺めていた夜狐禅が呟くと、隣に立つぬらりひょんが目を細めた。
「うむ。あのような人間離れした戦い方は、桃太郎のむすめだからこそ成せる業じゃ」
そのとき、青い目をした一羽のハヤブサが中庭に舞い降りてきた。
「ぬ? あれは!」
白濁した目を見開いたぬらりひょんは慌てたように中庭へと降りていく。桃姫と妖々魔も気づいて鍛錬の手を止めた。
ハヤブサは、灯籠のそばで桃姫の鍛錬を見護っていた雉猿狗の頭上までやってくると、足に掴んでいた手紙を落とした。
「……?」
雉猿狗が手紙を受け取ると、青い目をしたハヤブサは羽ばたいて中庭を飛び去っていく。
「雉猿狗、その手紙をわしに」
黒杖をついたぬらりひょんがやってくると、雉猿狗は手紙を差し出した。ぬらりひょんがその場で手紙を開くと、桃姫と妖々魔、そして夜狐禅も何事かと灯籠の前に集まってくる。
「蝦夷地の妖怪女王……カパトトノマト様からじゃ」
ぬらりひょんは手紙の文面を皆に見せた。
──ぬらりひょん そなたがわらわへの恩義を忘れていないならば 今すぐわらわのもとまできなさい 以上
「……恩義?」
桃姫が異様に力強い筆圧で書かれた文字を読み上げると、ぬらりひょんは困ったような表情で深いため息をついた。
「忘れもせん、あれは400年前に起きた妖怪大戦のことじゃ。わしは奥州に攻め込んできた妖怪大王・大太郎坊相手に苦戦を強いられておった」
ぬらりひょんは手紙を見つめながら語り始めた。
「奥州を追い立てられ、蝦夷地まで逃げ込むはめとなったわしを助けてくださったのが──妖怪女王・カパトトノマト様じゃった」
「そのようなことが……」
ぬらりひょんの口から語られる妖怪大戦当時の話は、ぬらりひょんに10年以上仕える夜狐禅にとっても初耳だった。
「蝦夷地も支配しようとした大太郎坊が足を踏み入れた瞬間、仕掛けておいたカパトトノマト様の大封印術が発動したのじゃ──ほほほ。見事じゃったのう、あれは」
ぬらりひょんの声に興奮が混じる。当時を思い出しているのか、白濁した眼が遠くを見つめた。
「蝦夷地から四国へ強制転移させられた大太郎坊の巨体は固く封じられ、奴は二度と四国から出られぬ定めとなった……それが妖怪大戦の顛末じゃ。わしはそれ以来、妖怪女王に頭が上がらん。ほほほ」
ぬらりひょんはそう言って笑うと、手紙を着物の中にしまい込んだ。
「その御方からの召集令状じゃ。断れるわけがあるまい──集え、浮き木綿」
黒杖を振り上げたぬらりひょんがかけ声を発する。三枚の浮き木綿が寄り集まってつなぎ合わさり、一枚の"大浮き木綿"へと変化するのであった。