29.妖刀憑かれの妖々魔
桃姫と雉猿狗がぬらりひょんの館に着いてから三ヶ月が過ぎていた。桃姫は雉猿狗による文武両道の教えを受け、日々着実に成長を遂げている。
そんなある夜のこと──小雨がしとしと降る真夜中、館に見知らぬ訪問者が現れた。
「失礼……失礼つかまつる」
館の大扉の前で、歴史を感じさせる古びた群青色の武者鎧が宙に浮かんでいる。亡霊のような低い声が、静寂を破って響いた。
手入れの行き渡った松に囲まれた大扉がギィと軋み、開かれる。ランタンを手にした夜狐禅が玄関口から顔をのぞかせた。
「はい、どちら様でしょうか」
ランタンの明かりに照らされた夜狐禅が問いかけると、漆黒の面頬の隙間から青い眼がボォと浮かび上がった。宙に浮遊する武者鎧全体から、再び低い声が響く。
「それがし、妖々魔と申す流浪の妖でござる。放浪の途中で知り合った猫丸殿より、妖怪どもが集いし奥州の館の話を聞き及び、こうして参上した次第」
「猫丸様……でございますか。大猫又・猫吉様の弟君でございますね。厨房を飛び出してから、もう一年になります」
「うむ、左様。"武者修行一年目だにゃ"と申しておられた」
妖々魔の言葉を聞いた夜狐禅は、長い前髪の隙間から覗く紫の瞳で相手を見極めようとした。嘘をついている様子も悪意も感じられないことを確認してから、口を開く。
「猫丸様とは、いったいどちらでお会いになられたのですか?」
「半月ほど前のことでござった。ここより北の湿地帯にて、燐火に襲われ苦戦しておられる所に遭遇。それがしが助太刀に入ったことをきっかけに意気投合し、この館の在り処を教えていただいたのでござる」
「そうでしたか……猫丸様、まだこの辺りにいらっしゃったのですね」
夜狐禅は奥州の森を北に抜けた先に広がる、不気味な湿地帯を思い浮かべた。あの一帯には燐火──死後供養されなかった人間や動物の魂が青い火の玉と化した妖怪が出没する。
青いうちは大人しく無害だが、生前の怨嗟を思い出して赤みを帯びてくると凶暴化し、通りがかった者に容赦なく火の粉を飛ばしながら体当たりを仕掛けてくる危険な存在だ。
「かしこまりました。ただいま頭目様をお呼びいたしますので、しばらくお待ちください」
「かたじけない」
夜狐禅が大扉を閉じてしばらくすると、再び扉が開かれた。玄関口へと続く長廊下の向こうから、黒杖をつきながらぬらりひょんが姿を現す。
「お初にお目にかかります。それがし、妖々魔と申す流浪の妖……奥州妖怪頭目ぬらりひょん殿、お噂はかねがね耳にしております」
礼儀正しく挨拶する妖々魔に対し、ぬらりひょんは耳の穴を指で掻きながら面倒くさそうに応じた。
「……いったい今、何時だと思っておる」
「妖怪とは夜分こそが本領と心得ておりましたが」
「……わしは朝型の妖怪じゃ……ふわぁあ」
「左様でございましたか」
大あくびをするぬらりひょんの様子を見て、妖々魔は青い眼を困惑に明滅させながら答えた。
「……して、猫丸のぼんくらはどうした? 帰ってくる気になったのか?」
「猫丸殿でありますれば、別れ際に"蝦夷地に行くにゃ"と申して、さらに北へ向かって歩き去っていかれました」
「はぁ? 蝦夷地じゃと? あの恩知らずの猫又め……いったい何を考えておる」
妖々魔の返答を聞いたぬらりひょんは顔を歪ませると、黒杖に顎を乗せて深い溜め息をついた。そして白濁した両眼でじっと妖々魔の武者鎧を見回すと、再び口を開いた。
「おぬし……"妖刀憑かれ"じゃな」
「ッ……さすがは頭目殿、看破されましたか」
妖々魔の青い眼が揺らめくと、ぬらりひょんの視線は、妖々魔が左腰に帯びた大中小三振りの刀に注がれていた。
「腰の三振りとも妖刀じゃな……それも相当の業物じゃ」
「いかにも。長いものから順に妖刀〈夜桜〉、妖刀〈夜霧〉、妖刀〈夜露〉……三振りともに曰く付きの妖刀にございます」
妖々魔の返答に眼を細めて頷いたぬらりひょんは、にんまりとした笑みを浮かべた。
「……気に入った。妖々魔、おぬしを館の客人として歓迎しよう」
「有り難き幸せ」
「ただし──"条件"がある」
頭を下げた妖々魔に対し、ぬらりひょんは一呼吸置きながら告げた。
「退館の際、妖刀を一振り置いていってもらおうか」
「……ぬらりひょん殿も意地が悪い。それがしは"妖刀憑かれ"……その身から妖刀を外すことなど叶わぬのは、ご存知でありましょうに」
苦悶が滲んだ声を発した妖々魔。しかしぬらりひょんは首を横に振った。
「ほほほ。それは己の意思によって外そうとした場合じゃ。"条件"をつけられた場合は話が別……"妖刀を置いていけ"という"条件"に従えば外すことができる。そんなことも知らぬとは──さてはおぬし、"なりたて"じゃな?」
ぬらりひょんが笑みを浮かべながら"心眼"で見つめると、妖々魔は黒い影のような顔をゆらりと動揺させた。
「素晴らしきご明察……誠に恐れ入りました。いかにも、それがし元は蘆名に仕えていた剣術家。半年前、伊達との合戦において落命し、"妖刀憑かれ"として黄泉帰った次第にございます」
妖々魔が観念したように答えるとぬらりひょんは白濁した両眼を見開いた。
「ほう、なるほどのう。それで奥州の地を彷徨っていたと……して、おぬしはこの館に何を求めて参った?」
「それがしが何を求めているのか、なにゆえ妖刀に憑かれ妖の身分となったのか──まさにそれこそを探るため、妖怪どもの集まる館に赴けば、何か糸口が掴めるやもしれぬと思い至った次第。妖刀一振りを置いて退館する"条件"、謹んでお受けいたします」
そう告げると、妖々魔は宙に浮かんだ両手の手甲をピタリと合わせて合掌した。その様子を見たぬらりひょんは頷いた。
「ほほほ、よかろう……理由としては十分じゃ。夜狐禅、空いている部屋に妖々魔を案内してやれ」
「はい、頭目様」
こうして妖々魔はぬらりひょんの館に入館し、夜狐禅に部屋まで案内されていった。
その翌朝──食堂で朝食を摂っていた桃姫と雉猿狗に、夜狐禅が昨晩の出来事を語って聞かせていた。
「あら、そのようなことがあったのですね」
「ぐっすり寝てたから、全然気づかなかったよ」
桃姫が味噌汁を飲みながら驚きを示すと、雉猿狗もお茶をすすりながら言った。
「はい。ただ、妖々魔様は夜型の妖怪のようですので、明るい時間に活動される桃姫様と雉猿狗様がお会いする機会は少ないかもしれません」
夜狐禅の説明を聞いた雉猿狗が、ふと思い出したように口を開く。
「妖々魔様は、もとは蘆名の剣術家だったとおっしゃられたのですよね?」
「はい、確かにそうおっしゃられました」
夜狐禅の返答を受けた雉猿狗は、玄米を食べる桃姫の顔を見つめた。
「桃姫様、私たちの鍛錬にも限界があります。この一年で体力はつきましたが、技術面ではまだまだ不足。もし妖々魔様から剣術の技法を教わることができれば、これは大きな力になるのではないでしょうか」
「うん、そうだね。ぜひ教わりたい」
雉猿狗の提案を聞いた桃姫は、咀嚼していた玄米を飲み込んでから頷いた。
「それでは昼の鍛錬は取りやめて、仮眠を取ってから夜、中庭へ参りましょうか」
「うん」
雉猿狗の提案に桃姫も同意し、ふたりは妖々魔から剣術を学ぶことに決めたのであった。