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27.ぬらりひょんの館

 黄金の軌跡を夜空に刻みながら、巨大な雷鳥が日ノ本から北へと一直線に翔けていく。だが雉猿狗の神力が消耗するにつれ、雷鳥の巨体は徐々に縮小し、その飛翔も次第に力を失っていった。

 奥州の上空に到達した時には、もはや翼を広げた雷鳥の姿を保てず、雉猿狗と桃姫を包む球状の雷光となって、鬱蒼たる森の奥へと墜落していった。


「雉猿狗っ……!」

「……桃姫様……ご無事ですか」


 桃姫が倒れた雉猿狗の上体を支えて声をかけると、黄金を失い翡翠色に戻った瞳で、雉猿狗が弱々しく応えた。


「私は平気。でも雉猿狗が……」

「神力を使い果たしてしまい、体がいうことを……」


 そう言いかけて、雉猿狗は桃姫の腕の中で糸の切れた人形のように意識を失った。


「そんな……せっかく奥州まで来たのに……」


 桃姫が見上げると、木々の隙間から覗く空は夜闇に支配されている。この状態では朝まで太陽光は望めず、雉猿狗の回復は絶望的だった。


「でも……きっとあるはず。この森の奥に……ぬらりひょんさんの館が」


 自分に言い聞かせるように呟き、桃姫は雉猿狗を背負って立ち上がった。そして鬱蒼とした森の中へ、慎重に足を進める。

 当てなど何もない。どこを見渡しても同じ景色が続くだけ。


 それでも、この森の奥に目指す場所がある。日ノ本の旅路の果てにたどり着くべき場所がある。その想いだけを支えに、桃姫は歩み続けた。

 一時間、二時間……雉猿狗を背負った桃姫が森を彷徨い続けた末、ついに小川のほとりで力尽きて倒れ込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 雉猿狗に覆い被さるような格好で地面に伏し、桃姫は荒い息を繰り返した。呼吸を整えると這うように前進し、巻貝の腕飾りをつけた右手を小川に浸す。

 ひんやりとした心地よい冷たさが手のひらに伝わった。桃姫が水をすくって口に運ぼうとした、その時──。


「──その水は、頭目様のお水です」


 不意に響いた少年の声に、桃姫の動きが止まった。


「……!」


 顔を上げると、小川の向こうにひとりの少年が立っている。赤い腰帯に裾の短い黒い着物、長い黒髪を持つ少年だった。


「勝手に飲まれては、困ります」


 感情を込めない声でそう告げる少年に、桃姫は乾いた唇を開いた。


「私は……桃姫といいます」

「…………」

「ぬらりひょんさんの館を……探して……」


 力を振り絞ってそう言うと、桃姫は朦朧とした意識が途切れて倒れ伏した。差し伸べた手だけが小川に浸かり、清流が桃姫の指先を洗い流していく。

 前髪の隙間から紫の瞳をのぞかせた少年はその姿をじっと見ると、顔の前で両手を合わせ、パンと音を立てた。


「──夜狐変化──」


 掛け声とともに少年の姿が見事な毛並みの黒狐へと転じる。

 黒狐は小川を軽やかに跳び越えると、倒れたふたりを背に乗せ、再び小川を渡って夜闇の森に消えていった。


「……う……うう」


 桃姫が眉をひそめ、苦悶の表情で呻き声を漏らした。


「桃姫様」


 雉猿狗の優しい呼びかけに、桃姫はゆっくりと濃桃色の瞳を開く。

 最初に飛び込んだのは、大きな丸いガラス窓から差し込む陽光で照らされた見知らぬ西洋風の室内だった。

 次いで、寝台の脇に置かれた椅子に腰かけ、ほほ笑みかける雉猿狗の顔が目に入る。


「……雉猿狗」

「おはようございます」


 桃姫が安堵の息を漏らすと、雉猿狗は陽光に照らされた美しい顔で穏やかに応えた。


「ここは、どこ?」

「ぬらりひょんの館にございます」


 雉猿狗が答えたとき、背後の扉がギィと開き、黒杖をついた老人が姿を現した。


「ほほほ。お連れのお嬢さんも目覚めたかね」


 異様に大きなハゲ頭を持つ小柄な老人が、白濁した両眼を細めて朗らかに笑いかける。


「あなたが……ぬらりひょんさんですか?」

「いかにも。わしが奥州妖怪頭目・ぬらりひょんじゃ」


 老人が黒杖に身を預けながら名乗ると、桃姫はその隣に立つ黒髪の少年を見てハッとした。


「あっ……」


 朧気だった記憶が蘇る。夜闇に包まれた森の中、小川の向こうに立っていた少年が、今は明るい日差しを浴びていた。


「夜狐禅と申します。頭目様の丁稚奉公をしております。桃姫様、以後お見知りおきを」


 少年は礼儀正しく頭を下げる。並んだぬらりひょんより頭一つほど背が高い。


「経緯は雉猿狗から聞いておる。カシャンボからの紹介状も読ませてもらった。鬼に追われた日ノ本の旅路、ご苦労だったのう」


 ぬらりひょんは部屋に入りながら桃姫を労うと、白濁した眼を大きく見開いた。


「してお主、かの高名な英雄・桃太郎の娘だとのこと」

「父上について……ご存じなんですか?」


 桃姫の問いに、ぬらりひょんは笑いながら答える。


「ほほほ……妖にとって鬼は天敵。奥州妖怪で備前の鬼退治の話を知らぬ者はおらぬよ」


 白濁した眼で桃姫を見つめたぬらりひょんに、桃姫はふるえる声で懇願した。


「あの……私たち、行くところがないんです。もしよろしければ……この館に住まわせていただけないでしょうか」

「ほほほ。無論じゃ。無駄に広いのがこの館の特徴でな。好きなだけおるがよい」

「ありがとうございます!」


 ぬらりひょんの快い返答に、桃姫は目に涙を浮かべて深々と頭を下げた。


「夜狐禅、ふたりを七ノ湯まで案内してやりなさい。それから猫吉ねこよしに言って食事の用意も。桃太郎の娘とそのお供の化身じゃ──客人でなく"家族"として扱えよ」

「はい、頭目様」


 ぬらりひょんの指示に、夜狐禅ははっきりとした口調で応えた。


「それでは、わしは頭目という立場ゆえ何かと忙しい。これにて失礼しよう……何か問題が起きたなら、この夜狐禅に気軽に申しつけてくだされ」

「ありがとうございます」

「お世話になります!」


 雉猿狗と桃姫が頭を下げて答えると、ぬらりひょんはにんまりと笑みを浮かべ、黒杖をつきながら部屋を出て行った。


「ぬらりひょん様は両目を患っているように見受けられましたが……しかし桃姫様のお顔をしっかりと見ておられました」


 雉猿狗の呟きに、夜狐禅が口を開く。


「頭目様は心の眼──"心眼"によって視界を得ているのです」

「なるほど……妖術ですか」

「はい」


 雉猿狗の問いに、夜狐禅は頷いて答えた。


「夜狐禅くんも妖怪なの?」


 桃姫は寝台から両足を降ろしながら尋ねた。


「はい。僕は"夜狐"という一族の黒狐の妖狐です。それでは、おふたりを七ノ湯までご案内しますので、ついてきてください」


 夜狐禅に続いて部屋を出ると、赤い敷物が敷かれた長い廊下に出た。


「夜狐禅様、丁稚奉公をしておられると言っていましたが、それは夜狐の風習か何かですか?」


 雉猿狗は先導する夜狐禅の背中に向けて疑問を投げかけた。


「いえ。昔、僕は悪事を働いていたのですが、政宗公のお叱りを受けて反省し、今は頭目様の元で丁稚奉公をしているのです」


 振り返らずに淡々と答える夜狐禅を見て、雉猿狗は目を細めた。


「悪事……ですか。とてもそのようなことをする悪い子には見受けられませんが、いったいどのような悪事を?」

「この館には部屋が八十八室、温泉が十六湯あります。皆様には部屋から近い七番目の湯、七ノ湯を利用していただきます」


 夜狐禅は雉猿狗の言葉を無視するように説明しながら進むと、雉猿狗が突然その肩をグッと強く掴んだ。


「……雉猿狗様、何か?」

「夜狐禅様……今、私の"犬の部分"が、なぜだか無性にその首筋に噛みつきたくて仕方がないのです」

「……そうですか」


 雉猿狗の衝撃的な告白に、夜狐禅は表情一つ変えずに淡々と答えた。


「雉猿狗っ! だめだよ、夜狐禅くんを噛むなんて!」


 桃姫は慌てて雉猿狗の腕を引っ張り、夜狐禅の肩から手を引き離した。


「すみません……なんとか、この"衝動"を抑えます。ですが、もう一度だけお聞かせください──今は本当に"良い子"なのですよね?」

「はい。ずいぶんと反省いたしましたから」


 夜狐禅は警戒する雉猿狗の"獣の目"を見つめながらそう答えると、再び赤い敷物が伸びる長廊下を歩き出すのであった。

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