24.鬼ならぬ鬼
おたつに別れを告げた桃姫と雉猿狗は、奥州はぬらりひょんの館を目指して房総半島を海岸沿いに北へと歩を進めていく。
一月をかけて安房から上総へ。どこまでも続く砂浜、夕焼けに染まる九十九里浜をふたりは並んで歩いていた。
「んー、気持ちいい風が吹きますね、桃姫様」
両手を大きく広げ、目を閉じて新鮮な海風を全身に浴びる雉猿狗。その一歩後ろを歩く桃姫がほほ笑みながら答えた。
「そうだね、雉猿狗」
「このまま順調に奥州まで辿り着ければいいのですが」
「うん」
房総半島に上陸してからというもの、移動を続ける二人を襲う者はいなかった。鬼蝶のような強力な鬼の襲撃もなく、着実に奥州への道のりを歩んでいる。
さらに一ヶ月が過ぎ、季節が夏から秋へと移り変わった頃。ふたりは下総の神社で催されている秋祭りを、山の中腹から静かに眺めていた。
「……雉猿狗」
「はい、桃姫様」
「……今日って、私の誕生日だ」
実りの秋、収穫の秋を祝う神社の境内には人だかりができている。中央には提灯に囲まれた櫓が建ち、太鼓が力強く打ち鳴らされていた。離れた山まで震わせる地響きのような音を耳にしながら、雉猿狗が振り返る。
「っ、そうでしたか……! 十五歳のお誕生日、おめでとうございます、桃姫様」
「ありがとう、雉猿狗……あ」
ほほ笑む雉猿狗への感謝の言葉を口にした桃姫が、はっとして何かを思い出す。
「そっか……それなら明日は雉猿狗が生まれた日だよね」
「……そうですね。私が"この体"を得た日です」
桃姫は"あの祭の夜"に雉猿狗が現世に姿を現したことを思い返し、雉猿狗もそっと頷いた。
「ちょっと早いけど、一歳のお誕生日おめでとう、雉猿狗」
「ふふ……ありがとうございます、桃姫様」
桃姫の瞳を見つめて微笑みかけられた雉猿狗が、少し照れながら感謝を込めて答える。
「何だか、すごく長かった気がするよ……この一年間」
秋祭りの喧騒を遠くに眺めながら、桃姫が目を細めて感慨深げに呟いた。
「実際、長かったと思います。桃姫様の十五年の人生の中では、計り知れないほどに」
「……うん。長かった……いろいろなことがあったな」
雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は、着物の懐に手を入れてそっと手紙を取り出した。広げて、今は亡き両親の文字を見つめる。
「……父上と母上……それにおつるちゃん……成長したね、って言ってくれるかな……」
「…………」
おつるの赤いかんざしを髪に挿した桃姫の言葉に、雉猿狗が後ろからそっとその身体を抱きしめた。その構図は一年前、燃える村を見下ろす山の中腹で桃姫と鬼蝶が見せたものに似ていた。しかし、一年前とは意味合いが全く違っていた。
「……雉猿狗が代わりに言います。桃姫様……立派に成長されましたよ」
桃姫は雉猿狗の太陽のような温もりを背中に感じながら、目を閉じて静かに頷く。そして濃桃色の瞳を開き、手紙を着物の胸元に仕舞うと口を開いた。
「一歳と十五歳で、がんばろう。雉猿狗」
「はい。がんばりましょう、桃姫様」
二人が決意を新たにしたその瞬間──ドォーンという豪快な音とともに、打ち上げ花火が夜空に輝いた。
雉猿狗が桃姫を背後から抱きしめ、桃姫は回された雉猿狗の手に自分の手を重ね合わせる。次々と夜空に打ち上がり、花開いていく大輪の花火を、二人は山の中腹からじっと見つめていた。
「──姐さんがた、悪いことは言わねぇ。奥州に行くなら、この先の山道だけは絶対に避けて通ったほうがいい」
桃姫と雉猿狗が下総からさらに北へと進み、常陸に入って一ヶ月ほどが経ったある日のこと。一夜の宿を取った後、出立しようとする二人に、宿屋の番台で店主の男性が眉根を寄せながら忠告した。
「それは、なぜでしょうか……?」
これまでも常陸の山道を歩いてきた雉猿狗が疑問を抱いて尋ねると、店主はため息交じりに答えた。
「──落ち武者だよ。しばらく前から蘆名の落ち武者が出るようになったんだ」
「……落ち武者、ですか」
雉猿狗は店主の言葉を確認するように繰り返す。
「ああ。ここ常陸は佐竹領なんだが、奥州の伊達が"蘆名崩し"に本腰を入れ始めてな。ここより北じゃ伊達と蘆名の合戦が頻繁に行われてる」
「……奥州の……伊達」
雉猿狗は呟くように言うと、番台の後ろの壁に貼られた関東近辺を描いた日ノ本の地図を見上げた。
「あんたら、下総から来たんだろ? そっちは平和でいいよな。でも、ここらじゃまだ戦続きなんだ。蘆名は伊達に対して劣勢でな。厄介なことに蘆名を見限った敗残兵どもが野盗化して、常陸の山に潜伏してんだよ」
「……なんと」
地図から目線を落としながら雉猿狗は小さく声を漏らした。
「もうやつらには侍としての矜持もなにもありゃしない。通りかかった行商人や旅人を情け容赦なく襲い、奪い、殺す。"鬼"のような存在に成り果てちまったんだ」
「……"鬼"」
桃姫は店主が放った"鬼"という言葉を聞いて、ぎりりと歯を食いしばった。
「姐さんがた、刀を携えてるから腕に覚えはあるんだろうが……多勢に無勢、集団で襲われちゃあひどい目に遭う。悪いことは言わねぇ……山道を避けて人通りの多い街道を行きな。街道のほうがまだ安全だからよ」
「ご助言、ありがとうございます……蘆名の落ち武者、確かに気をつけます」
雉猿狗は店主に礼を言うと、桃姫とともに宿屋を後にした。そして言われた通り、山道ではなく街道を選んで進む。奥州まで遠回りとなってしまうが、店主の話を聞いた後では仕方のないことだった。
それから二日、三日と常陸の街道沿いを北へ向かって歩いていると──黒尽くめの格好をした怪しい影が、山裾の木の上から街道を行く桃姫と雉猿狗の姿をじっと見つめていた。
「──ありゃあ、上玉だぜ……お頭に報告しねぇと」
掠れた声でそう呟き、舌なめずりをすると、木から飛び降りて山の中へと駆け出していく。
「……もうじき日が暮れてしまいますね……桃姫様、お昼に通った町まで戻りましょうか」
見事な三本松が立つ人通りのない街道で、落ちていく太陽を見て焦りながら雉猿狗が提案した。
「……うん。でも、なんで急に人がいなくなったんだろ……?」
「最後にすれ違った商人のかた……足早に移動していましたよね……」
桃姫の言葉を聞いた雉猿狗が思い出しながら答える。何か不穏な気配が、あたり一帯を包み込んでいた。
その時、二人に向けて低い声がかけられた。
「──よお、よお、よお……女子供の二人旅とは、ずいぶんと不用心だねぇ……」
街道沿いの三本松の陰から、刀を持った二人のやさぐれた男が立ちはだかるように現れた。一人は薄汚れた黒尽くめの痩せた男。もう一人は年季の入った黒い鎧兜を身につけた体格の良い男だった。
「……おい、女」
野盗頭らしき鎧兜の男が、太刀の切っ先を雉猿狗に向けながら低く告げる。
「ここを通りたいなら、それ相応の金を置いていきな……そうすりゃあ命は見逃してやるよ」
そう言うと、桃姫と雉猿狗の背後から手下らしき三人の男がざっと姿を現し、二人の退路を断った。
「──ふぅ」
雉猿狗は呆れたように目を伏せると、大きなため息を吐きながら〈桃源郷〉の白鞘に左手を当てがった。
「……やめて、雉猿狗! 相手は人間だよ……!?」
「……桃姫様。この世には"鬼ならぬ鬼"がいるのです……」
雉猿狗の隣に立つ桃姫は、雉猿狗の激しい"殺気"を感じ取って制止しようとするが、雉猿狗は翡翠色の瞳を伏せたまま静かに答えた。
「おい、何をぺちゃくちゃ話してやがる。その刀も置け。女の分際で、生意気に刀なんぞ持ち歩きやがって」
「お頭の言葉がわからねぇのか!? 早く刀を置くんだよ! ほら、ガキもだ!」
野盗頭が雉猿狗に向かって罵るように言うと、痩せた男が桃姫に向けて吠えるように怒鳴った。
「申し訳ございませんが、この刀をお渡しすることは……できません」
雉猿狗は黄金の波紋が浮かんだ瞳に力を込めて野盗頭を見据え、凛とした声で告げる。
「なんだ? 死んだ旦那の形見だってのか? へへへ」
雉猿狗の身体を舐め回すように見た野盗頭が、下卑た笑い声を上げる。
「刀は渡せませんが……通行料ならば、お支払いいたしましょう」
雉猿狗はそう言うと、帯の中にすっと右手を差し入れ、紫紐に巻かれた小判の束を取り出して地面に落とした。
「ほう……物分かりが良くて、結構じゃあねぇか」
二十両を超える小判の束を目にした野盗頭がゆっくりと頷きながら声を上げ、桃姫と雉猿狗の後ろに立つ三人の手下に向けて口を開いた。
「おう、通してやりな!」
「へい……!」
野盗頭の指示を受けた三人の手下が道を開けようとした──その時。
「──やっぱり駄目だッ!」
野盗頭が突如として大声を張り上げた。
「駄目だ駄目だ駄目だ……! こんな上玉をよぉ……はい、さようならで通すわけにはいかねぇよ!」
野盗頭は黒い兜の隙間から、闇に飲まれた濁った黒い目を覗かせて言った。
「ここで見逃しちまったら……男の名が廃るってもんだ! なあ、おめえら!」
「おうよ!」
「それでこそお頭でさぁ!」
野盗頭が太刀を高く掲げて雄叫びを上げると、呼応した手下たちが目を見開きながら刀を振り上げ、吠えて返した。
「安心しろよぉ、女……殺しはしねぇから。俺たちが十分に楽しんだ後に、その金の三倍で女衒屋に売り飛ばしてやるよ……! ひゃはははッ!」
野盗頭が下品な笑い声を張り上げると、その悪辣な姿を目にした桃姫は戦慄しながら雉猿狗に身を寄せた。
「桃姫様、おわかりになられましたか……?」
「雉猿狗……」
「雉猿狗の人斬りを、どうかお許しください──斬りますッ!!」
雉猿狗は桃太郎の愛刀〈桃源郷〉を白鞘から引き抜いて両手で構えると、困惑する桃姫に対して宣言するように言い放つのであった。