23.安房の潮風
起きた現象に驚愕した桃姫とおたつ。荒波から穏やかな波に変わった船に揺られながら、雉猿狗の顔を見つめた。
「すみません、少々疲れてしまいました」
雉猿狗は呟くと、まぶたを重そうに細めた。ゆっくりと船の揺れに身を委ねると、桃姫のひざの上に身体を預ける。
「雉猿狗!」
桃姫が慌てて雉猿狗の頬に手を当て、様子を窺うと、目を閉じて静かに寝息を立てる美しい横顔があった。
「……寝てる」
桃姫は小さく呟いた。思えば、この旅路で雉猿狗が眠る姿を見たのは初めてかもしれない。
隣で布団に横になることはあったが、それは単に体を休めているだけで、実際に眠りについているわけではなかった。
「なんだってんだい……今の雷は」
倒れていたおたつが、ふらつきながら起き上がって言った。
「あのおたつさん……実は雉猛狗は」
桃姫がおたつに事情を説明しようとしたとき、おたつが手を上げて制した。
「……ここ、どこだ」
そう言うと船首に片足をかけ、手をかざして陽光をさえぎりながら、果てしなく続く青い海原を見渡した。
「まずいね……さっきの嵐で黒潮を外れて、沖合まで流されちまったかもしれない」
「え……」
おたつの言葉に桃姫が声を漏らす。
「このままじゃ、聞いたこともない無人島に漂着しちまうよ」
おたつは櫂を握りしめ、勢いよく海面に突き刺すと空を見上げた。
「お天道様が沈みかけてる……ってことは、あっちが東。なら北は……よし」
「おたつさん……」
「心配すんな、桃色頭。もう一度黒潮に乗りさえすればいいのさ。女だてらに漁師やってるわけじゃないよ」
不安そうな表情を浮かべる桃姫に向かって笑顔で言ったおたつは、かけ声とともに力強く櫂を漕ぎ始めた。船は北に向きを変え、波を切って進んでいく。
夕陽は刻一刻と水平線に沈み、船が黒潮に戻る前に月が夜空を照らす時刻となっていた。
「雉猿狗さんの様子はどうだい、桃色頭」
漕ぎ続けて疲れ果てたおたつが、船縁に腰を下ろしながら桃姫に尋ねた。
「はい、まだ眠っています……でも顔色は悪くありません」
桃姫が答えると、眉をひそめて唇を尖らせた。
「……それから、私のこと"桃色頭"って呼ぶの、やめてください」
「はっ、そうかい……悪かったね──桃色頭」
桃姫の抗議にいたずらっぽい笑みを浮かべて答えたおたつは、南の空に浮かぶ黄色い月を見上げてため息をついた。
「船幽霊ってのはさ……誰かがその人に帰ってきてほしいと願い続ける限り、成仏できないんだって……そんな言い伝えがあるんだ」
「…………」
誰に向けるでもないおたつの呟きを、桃姫は穏やかな寝息を立てる雉猿狗の銀髪をやさしく撫でながら聞いていた。
「……弥彦がいつまでも海をさまよい続けてるのは……きっと、あたしのせいなんだろうね」
おたつは胸元に手を差し入れ、赤い着物をまとった小さな人形を取り出した。
「人の想いってのは不思議なもんでさ……人を前に進める力にもなるし、人を縛りつける重しにもなる。あたしは前に進まなきゃならないし、弥彦は……身軽にならなきゃならない」
おたつは一度目を閉じ、深く息を吸うと、覚悟を決めたようにまぶたを開いた。そして、人形を月夜の海へと投げ入れた。
「…………」
月光に照らされた海面を、人形がぷかぷかと漂っていく。やがて綿に海水が染み込んで重くなると、静かに、音もなく深い海の底へと沈んでいった。
おたつと桃姫は無言でその光景を見護った。それはまるで、この世に生を受けることのなかった小さな命への、静かな葬送の儀式のようだった。
「……桃姫」
しばしの沈黙の後、おたつに名を呼ばれた桃姫が振り返ると、おたつの頬に涙が伝っていた。
「……ありがとうね」
そう言って見せる笑顔は、悲しみと安らぎが入り混じったような、複雑な表情だった。桃姫は静かに頷いて応えた。
やがて、穏やかな波音と、船体が軋む古い木の音だけが夜の静寂を包む中、ふたりはいつの間にか深い眠りに落ちていた。
そして、おたつは夢を見た。
──おたつ……おら、そろそろ行くだよ。
日に焼けた肌に穏やかな笑みを浮かべた弥彦が、やさしい声で言う。
──おたつ、おめぇはまだ若い。人生、これからだ。おらの分まで、精一杯生きてくんろな。
弥彦は言うと手を振った。おたつは何か言葉を返そうとしたが、声が喉に詰まって出てこない。
もどかしさを感じたその瞬間──ハッと目を覚ますと、あたり一面が真っ白な霧に包まれていることに気づいた。
「……弥彦っ!?」
桃姫と雉猿狗はまだ眠りの中にいる。ひとり目覚めたおたつが立ち上がると、船の前方に四隻の幽霊船が静かに進んでいるのが見えた。
誰も漕いでいないはずのおたつの船は、まるで見えない手に導かれるように、幽霊船団の後を追って夜の海を滑るように進んでいく。
「──おたつ……ありがとなぁ……ありがとなぁ……」
「……っ!!」
聞き慣れた声が霧の中から響いてくる。おたつが目を凝らすと、最後尾の幽霊船の船尾に、穏やかな表情で手を振る弥彦の姿があった。
「あんたぁ! こっちこそ、ありがとねぇっ! あんたのことは、絶対に忘れないからねぇっ!!」
おたつの声を聞き届けたかのように、弥彦の顔に満面の笑みが浮かぶ。
その身体が少しずつ霧に溶けるように薄れていく中、おたつは涙を流しながら心の底からの感謝を込めて叫び続けた。
そうして弥彦の姿が完全に消えると、幽霊船もまた濃霧の彼方へと消え去っていった。
幽霊船団が見えなくなると、霧も徐々に晴れていき、再び静寂な月夜の海が戻ってきた。
「……桃姫、雉猿狗さん。いい加減起きな」
おたつの穏やかな声に呼び起こされた桃姫と雉猿狗。揺れる船の上で目を開けてゆっくりと身を起こした。
東の地平からのぼり始めた太陽が、きらきらと海面を照らしている。そのまぶしさに、ふたりは思わず目を細めた。
「ほら、あれを見てごらんよ」
おたつが指差す方角に視線をやると、遠くに陸地と小さな漁村の影がくっきりと見えていた。
桃姫が目をこすり、雉猿狗が驚きに口を開けて見つめていると、おたつが白い歯を見せて笑った。
「安房にご到着だよ、寝坊助さんたち」
三人は安房の砂浜に船を引き上げ、房総半島の地に足をつけた。
「おたつさん、どうして起きたら安房に着いてるんですか? 夜中に何かあったんですか?」
「さぁ、なんだろうね」
桃姫の問いかけに、おたつは意味深な笑みを浮かべてはぐらかした。
一方、雉猿狗は太陽に向かって両手を高く掲げ、気持ちよさそうに伸びをしながら全身で陽光を浴びていた。
「んー、やっぱり私は海より陸地の方が好きです」
言いながら砂浜の感触を楽しみ、太陽のような笑顔を見せた。
「おーい。なんだぁ、あんたら、どっから流れてきたっぺよぉ」
船の前に立つ三人に向けて、漁村から男性の大きな声が響いてきた。
「どっからって、志摩からよ」
おたつが近づいてくる体格のいい男性に答えながら、その顔をまじまじと見つめ眉をひそめた。
「あれ……あんた……ん?」
「あ? あ!? ああッ!?」
おたつと男性が互いに顔を見合わせ、同時に指を差し合って大声で叫んだ。
「多五郎ッ!?」
「おたつッ!?」
あまりに息の合った反応に、桃姫と雉猿狗は驚いて一歩後ずさりした。
「あんた! こんなところでなにしてんだ! それよか、死んだんじゃなかったのかい!!」
「バカ言うなおたつ! おらが死ぬわけねぇっぺな! それよか、なしておめぇが安房にいるっぺ!!」
おたつと多五郎が言い合っている間に、雉猿狗が遠慮がちに声をかけた。
「えっと、おたつさん……こちらの殿方は?」
「こいつは多五郎って言ってね! その──あたしの"前の旦那"だ!」
「えええ!?」
予想だにしなかったおたつの答えに、桃姫が大きく口を開けて驚愕の声を上げた。
「おい、"前の旦那"って! どういうことだ、おたつ!?」
「あたしはね! あんたが死んじまったと思って! あんたの親友の弥彦と!」
血相を変えた多五郎に、おたつが眉をひそめながら言い返した。
「弥彦だぁ!? あんのやろ、人の嫁さんを! かぁーっ! 今すぐとっちめてやらねぇと!!」
「バカっ!! 弥彦はもう……! それよりあんただよ、あんた!! なんで10年も安房にいるのよ!!」
腕まくりした多五郎に向けて、おたつは目元にうっすらと涙を浮かべながら叫んだ。
「なんでって……! そりゃおらだって、流れ着いてから途方に暮れて……!」
「途方に暮れて10年かいっ!! ……バカ! この大バカっ!!」
「大バカとはなんだ!! おらだってなぁ!! おらだって……!」
おたつと多五郎の間で再び大声の口論が始まると、何事かと数人の村人が砂浜に集まってきた。
「おたつさん、もうそのあたりで……」
「……そうだね」
雉猿狗が諌めると、おたつは集まってきた村人たちの視線に気づいて冷静さを取り戻し、頭の白い手ぬぐいをほどいて顔を拭った。
「みなさん、多五郎のお知り合いですかな?」
村人たちの中から村長らしき老人が前に出て三人に声をかけると、多五郎が口を開いた。
「ええ。今、志摩から流れ着いたそうで……村長、あさげはまだ残ってるかいね? こいつらに食わせてやってもいいっぺか?」
多五郎が言うと、村長は朗らかな笑みを浮かべて頷いた。
三人は村の中央にある集会所の座敷に上がり、大鍋から取り分けられた具だくさんの海鮮汁を口にした。
「多五郎はこの村一番の働き者でのう。今朝も早くに漁に出て、このエビと魚を獲ってきてくれたんじゃよ」
村長が大鍋の中で煮込まれている魚介類を示しながら言うと、多五郎は気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「そうかい……あんた、確かに働き者だったもんね。あたしはそこが気に入って一緒になったんだよ」
おたつが言いながら椀の海鮮汁をすすると、村長が興味深そうに口を開いた。
「一緒とは……やはりあなたと多五郎は夫婦であったと、そういうことですかな?」
村長の言葉を聞いた多五郎は、残念そうな表情を浮かべた後、首を大きく横に振った。
「いんや、そいつは10年前の話だっぺ……おたつはな、弥彦っちゅうおらの親友と──」
「──弥彦はね……死んじまったよ」
多五郎の言葉をさえぎるように、おたつは静かに真実を告げた。
「あたしを残して海で死んじまった……だからあたしは、このふたりを安房まで送り届けることにしたんだ。もう志摩には戻らないと心に決めてね」
「そんな……弥彦が……そうか」
おたつの言葉を聞いた多五郎の目に、ぶわっと涙があふれ出る。あぐらをかいた自身の太腿を強く叩いた。
「弥彦は、おらがいなくなって寂しいおたつを慰めてくれたんだな……それを、おらは……弥彦、すまねぇ」
多五郎はひざの上にぽたぽたと涙を落とし、おたつはその様子を黙って見つめた。
「おたつさん……多五郎はおたつさんのことを忘れたことはないよ」
「……え?」
村長の言葉に、おたつが小さく声を漏らした。
「さっきも言った通りね、多五郎はこの村一番の働き者じゃ。だから縁談の話もよく舞い込んでくる……けれど"志摩に残した嫁さいる"と言って……頑なに独り身を貫いておるのじゃ」
「…………」
村長の言葉を聞いて、多五郎が黙り込む。集会所のまわりに集まった村人たちの耳にも、その言葉ははっきりと届いていた。
戸口からは大人だけでなく子供たちものぞき込み、姉らしき女の子がぐっと坊主頭の男の子の頭を押さえて中を見ようとしていた。
「多五郎……あんた」
「……おたつ」
おたつが椀と箸を置き、多五郎と視線を合わせる。多五郎が太い眉に力を込めて口を開いた。
「おたつ……おらたち、やり直せるだかな?」
「さぁね……でも、あたしはこの村で暮らすよ。だから、ゆっくりとね……あんた」
おたつが白い歯を見せてほほ笑むと、多五郎は心の中で"この笑顔が好きだったんだ"と思い出した。
そのとき、どさどさっと戸口から音がして子供たちが玄関になだれ込んできた。
「おめぇらなにやってるだ……!」
「多五郎兄ちゃん、おめでとう!」
「多五にい、結婚だぁ……!」
立ち上がりながら声を上げた多五郎に、子供たちがからかうように祝福の声を上げる。
「こら! 大人をからかうでねぇっぺ!」
「わあー!」
「逃げろー!」
多五郎がどたどたと玄関まで走り、草履を履いて外まで追いかけていくと、子供たちはきゃっきゃとはしゃぎながら逃げ回った。
「見ての通りじゃ。多五郎は子供たちにも慕われておってのう」
村長が言うと、おたつは吹き出すように笑った。
「おたつさん。村の代表として、あなたを心から歓迎するよ」
「っ……! あたしは多五郎に似て、体力ぐらいしか取り柄のないがさつな女ですが……その……どうぞ、よろしくお願いします」
村長がおたつの目を見つめて穏やかな声で告げると、おたつは深々と頭を下げてそう答えた。
桃姫と雉猿狗は魚介の出汁が利いた海鮮汁を味わいながら、そんなおたつの様子を和やかに眺めていた。
そして翌朝──桃姫と雉猿狗は出立することをおたつに告げた。
「そうかい、もう行くんだね」
「はい。大変お世話になりました、おたつ様」
穏やかでありながら凛とした声で答える雉猿狗の翡翠色の瞳を見て、引き留めることはできないのだとおたつは悟った。
「桃姫。怪我や病気には気をつけるんだよ」
「はい」
おたつが桃姫に声をかけると、桃姫は頷いて答えた。そして、おたつが着物の胸元に手を差し入れながら口を開く。
「いいものをやるから。目を閉じて、両手を出しな」
「え……は、はい」
おたつは雉猿狗が運賃としてわたした十四枚の小判を取り出すと、目を閉じる桃姫の手の上にそっと置いた。
「あたしを安房まで送り届けてくれた駄賃だよ──"桃色頭"」
そう言って日に焼けた肌に映える白い歯を見せてほほ笑むおたつ。
安房の潮風と磯の香りが桃姫と雉猿狗の身体を包み、新たな日ノ本の地へとふたりの足を向けさせるのだった。