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22.千赫万雷

「桃姫様、御覧ください。伊豆ですよ」


 船の進む先を見ながら雉猿狗が口にした。視線の先には、漁村の灯火がぽつぽつと浮かんでおり、伊豆半島の南端に到着したのだと分かった。

 砂浜に船を寄せ、上陸した三人。空は暗く、朝がやって来るにはまだ時間がある頃合いだった。


「なんとか着きましたね」

「おたつさん、朝になったら本当に志摩に帰っちゃうかもしれない……」


 ふたりから距離を取った砂丘の上で、立ち尽くすように夜の海を眺めているおたつの姿を桃姫は悲しげに見た。


「おたつ様は、約束通り伊豆まで運んでくださいました。私たちとは、もう関係ありません」

「そんなこと言わないでよ、雉猿狗!」


 雉猿狗の言葉に、桃姫は眉をひそめて声を荒げた。


「目的地まで運んでくれたら、あとは他人みたいな……そんなのってないよ! おたつさんと私たちは、もう他人には戻れないんだよ!」

「…………」


 雉猿狗が何も言えずに口を閉ざすと、桃姫は駆け出して、おたつのもとへと向かった。


「おたつさん」


 切り立った崖のようになっている砂丘の端に立つおたつの背中に、桃姫は声をかけた。


「おたつさん……あの」

「あんたみたいな娘っ子に同情されるほど、あたしはやわじゃないよ」


 おたつは桃姫に横顔を向けて言うと、手にしていた小さな赤い人形を見せた。


「この人形はね……あたしと弥彦の子供なのさ」


 桃姫が歩み寄って隣に立つと、おたつは夜明け前の水平線を見ながら話し始めた。


「三年前、弥彦が海で死んだと聞いて……あたしのお腹の子も、海に還っちまったんだ」

「……っ」

「帰ってきたのは、弥彦の船だけ……まったく、なんであたしは、今も生きてるんだろうね」


 おたつは深いため息をついて人形を懐に仕舞うと、隣に立つ桃姫を見やった。


「あんたらをこうして伊豆まで送り届けて、小金持ちになったところで……ふっ、それがいったい、何になるのかね」


 おたつが自嘲したそのとき、ぐうとおたつの腹が鳴った。


「情けないね……そんな気分じゃないってのに、腹は空いちまうんだ」


 おたつが苦笑すると、遠くから雉猿狗の声が届いた。


「みな様来てください! 船の中に魚がいます!」

「ん? ははは。船幽霊に驚いて、船の中に飛び込んできたのかね」


 砂丘から雉猿狗と船を見下ろしたおたつが笑いながら言うと、桃姫がおたつの手を取った。


「おたつさん、私もお腹が空きました。一緒に食べましょう」

「そうだね……身の振り方考えるのは、そのあとにしようか」


 桃姫とおたつは手を握ったまま砂丘を降り、雉猿狗のもとへと向かった。


「あんまりこういうこと、旅の人には聞かないようにしているんだけどさ……あんたらって、どういう関係だい?」


 砂浜に枯れ木を敷いて作った焚き火で、枝に刺した魚を焼きながらおたつが尋ねた。


「こう言っちゃなんだけど、母娘には見えないよ……姉妹にもね」


 焚き火に照らされた桃姫と雉猿狗が互いの顔を見合わせた。


「そもそも、なんで安房に行きたいのか……気になったらきりないけどさ」


 おたつはちらりとふたりの顔を窺い見ると、答えようとした桃姫より先に雉猿狗が答えた。


「申し訳ありませんが、お話できません。おたつ様を厄介事に巻き込んでしまいますので」

「……そうかい……んじゃ、この話はやめにしようか」


 おたつが魚を裏返してから、首筋を手で拭った。


「しっかし、体中塩だらけだ……しこたま海水を浴びたからね」

「私も……体がべとべと……」


 桃姫も不快感を覚えながら言うと、おたつは雉猿狗の顔を見つめた。


「……あんたは、顔も髪もさらさらだね」

「はい。私は"汚れない体"ですので」


 おたつが眉をひそめると、雉猿狗は話題を変えるようにふたりに提案した。


「では、温泉に行きましょうか。伊豆といえば、温泉。これは間違いなしです」

「……悪いけど、あたしは一銭も払う気はないよ。雉猿狗さん、あんたが払ってね」

「はい、お任せください」


 雉猿狗が快く了承すると、おたつを見ながら桃姫が呟いた。


「さっき、お金あっても意味がないとか言ってたのに……」

「それとこれとは関係ないよ──桃色頭」

「っ……桃色頭」


 焼き魚を食べ終えた三人は、夜明けの砂浜から移動して海岸沿いに建つ小さな温泉宿に入った。

 太平洋を一望できる露天風呂に浸かり、体の汚れを落として英気を養っていると、朝焼けの光を受けたおたつが何かを決意したように頷いてから、口を開いた。


「──連れてってやるよ」

「……え?」


 湯船に身を預けていた桃姫が声を漏らしながらおたつの横顔を見た。


「いま、のぼるお天道様見て決めた。あんたらを安房まで連れてってやる」

「本当ですか……!?」


 岩の上に腰かけて日光浴していた雉猿狗が驚きとともに聞き返した。


「ああ……どうせ志摩に帰ったところで、誰もあたしの帰りを待ってくれちゃいないんだからさ」


 おたつは、黄金の輝きを増していく太陽を見据えた。


「それに、あの家にいるとどうしても弥彦のことを思い出しちまう……あたしだって、あんたらみたいに前に進まなきゃならないんだ」


 おたつはそう言って湯船からザバッと立ち上がると、黄金の陽光を背中に浴びながら、桃姫と雉猿狗に告げた。


「あんたら──あたしを安房まで連れてってくれるかい?」

「はいっ!」

「はい……!」


 桃姫と雉猿狗は嬉しそうに答えた。そして三人は、伊豆の海岸から安房に向けて出航するのであった。


「ヨイ、サー! ヨイ、サー!」


 威勢の良いおたつのかけ声が早朝の海原に響き渡った。波は穏やかで、遠くには他の漁船の姿も見えた。


「おたつ様、私も漕いでみていいですか?」

「いいよ、やってみな。なかなかコツがいるけどね」


 沖合まで船が出ると、雉猿狗はおたつから櫂を受け取った。


「ヨイ、サァ! ヨイ、サァ!」


 おたつのかけ声を真似ながら、両手で握りしめた櫂を全力で漕いだ雉猿狗。見る見るうちに船は速度を増し、面白いほどに青い海原を駆け抜けていった。


「雉猿狗、すごい!」


 潮風を受けた桃姫が楽しそうに声を上げた。カモメが並んで滑空し、船は安房に向かう黒潮に乗った。


「ここまでくれば、あとは黒潮が私たちを安房に運んでくれる。もう戻れないけど……まぁ、思い残すこともないさ」


 雉猿狗から櫂を受け取ったおたつが船尾に立てかけると、縁に腰かけて一息ついた。


「おたつ様は、安房でも漁師をなさるのですか?」

「そんなこと、今決められるわけないよ」


 尋ねた雉猿狗におたつが答えて空を見上げた瞬間、頬に水滴が落ちた。「あ」とおたつが声を漏らすと、空に浮かぶ雲が色を濃くしていき、灰色に変わっていった。


「嵐だ」


 おたつの呟きと同時に空が白く閃くと、耳をつんざく雷鳴が轟き、ザァッと豪雨が海面に降り注いだ。


「なんで!? さっきまで、あんなに晴れてたのに!」

「海の天気ってのは、こういうもんさ!」


 困惑の声を上げた桃姫に答えたおたつは、敷かれているゴザを持ち上げて桃姫と雉猿狗の頭に覆い被せた。

 桃姫と雉猿狗はゴザを握りしめて大雨を防ぎ、おたつは船尾にしがみついて荒れ始めた波に耐えた。


「あれなに!?」


 ゴザの隙間からうねる海面を見ていた桃姫が、黒い背びれが次々と浮上してくるのを目にして叫んだ。


「……!? 磯撫いそなでの群れ……!」


 おたつは戦慄した。海面に浮かんだ人食い魚の鋭い背びれは、すでに30を超えており、船を取り囲むように旋回し始めた。


「うわああ!」

「きゃああ!」


 磯撫の一体が船底めがけて体当りすると、船が大きく揺さぶられ、おたつと桃姫が悲鳴を上げた。


「落ちるなッ、食われるぞ!」


 衝撃で倒れ込んだおたつが船の縁にしがみつきながら叫んだそのとき、雉猿狗がゴザを桃姫に預けながら静かに立ち上がった。


「雉猿狗……?」


 桃姫はそこでようやく雉猿狗の"異変"に気づいた。青い着物をまとった身体の端々から、黄金の雷光をバチバチと放っている。


「桃姫様、おたつ様……しばしの間、目を閉じていてくださいませ」


 そう告げた雉猿狗は、翡翠色の瞳に宿る黄金の波紋を開花させるように拡大させていった。そのただならぬ気配に息を呑んだ桃姫とおたつは、言われた通り固く目を閉じた。


「──日ノ本最高神、天照大神より授かりし、神の御業を解き放つは今」


 宣言とともに雨雲に向けて両腕を掲げた雉猿狗。全身を走る黄金の雷光が両手を伝って解き放たれ、"雷塊"と化しながら上空に駆け昇っていった。

 鈍色の雨雲に"雷塊"が激突した瞬間、弾けるようにして放射線状に広がり、世界が黄金一色に染まった。


「──天照神術・千赫万雷ッ!」


 双眸を黄金色に染め上げた雉猿狗の吼えるような詠唱。稲妻同士が糸をより合わせるように結びついて太くなると、黄金から緋色へ転じたそばから、海面めがけて次々と降り注いだ。

 万から千の数に収束された激烈な赤い稲妻は、船を取り囲んでいるすべての磯撫の背びれに狙い外さず片っ端から命中していった。


「……うあッ!」


 桃姫とおたつは、耳をつんざく雷鳴と目を閉じても感じるまばゆさに耐えきれず、両腕で顔を覆った。

 そして、緋色と黄金が綯い交ぜになった強烈な閃光が収まると、獣のうなり声のような雷鳴もまた遠ざかるように消えていった。


「うう……」


 うめいた桃姫が腕を下げて目を開けると、頭上からは雨雲が消え去っており、夏の青空が広がっていた。

 そして隣には、いつもと変わらない翡翠色の瞳をした雉猿狗が穏やかに座っていた。


「……たまげた」


 船の周囲に浮かぶ、百を超える磯撫の死骸を目にしたおたつが驚愕しながら声に漏らすのであった。

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