21.船幽霊
おたつの家に招かれた桃姫と雉猿狗は、三人いれば手狭になる広さの室内を見回した。
「……殿方の着物」
「おい。人ん家のもんを、あまりジロジロ見るんじゃないよ」
壁に掛けられた茶色い着物を見て呟いた雉猿狗をおたつが注意した。
「……桃姫様、やめましょう」
「怒られたの雉猿狗だよ……」
桃姫が呆れ顔で返すと、おたつは板の間にどかっと座った。
「今でこそひとり暮らしだけど、あたしだってずっと独り身だったわけじゃないんだ」
「……では、あの漁船はこの殿方の?」
雉猿狗が尋ねると、おたつはため息をついた。
「これだから他人を家に上げるのは嫌だったんだ。これ以上詮索するようなら外で寝させるよ」
「ごめんなさい。もう寝ます」
桃姫は慌てて板の間に座った。
「雉猿狗さん、あんたも寝な。飯は起きてからだ」
「はい……桃姫様、こちらへどうぞ。私を枕としてお使いください」
「うん」
身を横たえた雉猿狗が腕を伸ばすと、桃姫は寄り添いながら雉猿狗の腕に頭を乗せた。
「……伊豆まで運べばいいだけ……ちょろい仕事さね……」
ふたりを見ながら呟いたおたつは、行灯の火を吹き消して部屋を暗くした。
──おたつ、すまねぇ……おらぁ……。
「弥彦ォ! あたしを置いてかないでぇ!」
船に乗った夫の弥彦が白い霧に飲み込まれ、ゆっくりと沖に遠ざかっていく。
──だめだ、おらぁ……すまねぇ……。
「弥彦……! 弥彦ォ……!」
砂浜に泣き崩れた拍子に、ハッと涙がにじんだ目を開けたおたつ。じっとりと汗をかいた体を布団から持ち上げると、両手で顔を押さえた。
「……嫌な夢だね……まったく」
弥彦がいなくなったその日から幾度も見る悪夢。立ち上がったおたつが、瓶からひしゃくで水をすくって一口飲むと、視線を感じて振り返った。
「……なんだいあんた、起きてたのかい」
布団の上に座っている雉猿狗と目が合ったおたつ。雉猿狗は、膝の上に乗せた桃姫の頭をやさしく撫でながら静かに口を開いた。
「私は寝なくてもよいのです。そういう"体質"なので」
「はっ、そいつは便利だね……まるで幽霊じゃないか」
暗がりの中、ほほ笑む雉猿狗に、おたつは皮肉交じりに返した。
「そうですね。その通りかもしれません」
「そうかい。幽霊と話したのは初めてだよ……まったく、嬉しいやね」
鼻で笑ったおたつは布団を片付け、着替えを始めた。おたつから視線を逸らした雉猿狗は、茶色い着物の襟に刺繍されている"弥彦"という文字を見つめた。
それから1時間後──雉猿狗に起こされた桃姫は、寝ぼけ眼をこすりながら外に出て、おたつが用意した七輪で焼いた魚の干物を食べた。
「お天道様がのぼる前に船を出すよ──あんたら、忘れ物はないね?」
夜から朝に変わる最も暗い時間、未明混沌──漁船の先端に取り付けられた吊り灯籠に火を灯したおたつ。
「あんたらは伊豆に行ったっきり戻ってこないんだ。引き返せなんて、海の上で言われても遅いからね」
吊り灯籠の明かりで顔を照らしたおたつに、桃姫と雉猿狗は頷いた。そして、入り江に流れ込む波でギィギィと軋んだ音を立てる古びた漁船に乗り込んだ。
「んじゃ、出発するよ! ──ヨイ、サー!」
おたつが力強く櫂を振るって漕ぎ出した漁船は、入り江を離れて伊勢湾へと出た。
「ヨイ、サー! ヨイ、サー!」
おたつがかけ声を発しながら櫂を漕ぐと、小さな漁船は速度を増していき、夜の海原を滑るように進んだ。
「一番力がいるのは漕ぎ出し、あとは流れに任せてやっていくのさ」
潮風に当たりながらおたつが言うと、敷板に敷かれたゴザに座る桃姫と雉猿狗は感心した。
「脇に釣り竿が転がってるだろ。伊豆に着くまで丸一日かかる、釣りしたいならするといい」
桃姫と雉猿狗が視線をやると、確かに二本の釣り竿と木箱が置かれていた。
「雉猿狗、釣りしたことある?」
「まったくございません」
「……ったく」
ふたりの様子を見たおたつは櫂を船尾に預け、釣り竿を拾い上げた。
「いいかい、まずはこの箱の中に詰まってるミミズ……こいつをだな」
そう言っておたつが開いた木箱の中には土が詰められており、その中で無数のミミズが蠢いていた。
「いやぁああ!」
叫びながら仰け反った桃姫。
「大丈夫。あたしだって最初は嫌だったけど、すぐに慣れた。このミミズを、こうして針に通して……ほらな、こうだ。簡単だろ?」
「……なるほど。やってみましょう」
雉猿狗は興味深げに言うと、ミミズを摘み上げ、もう一本の釣り竿の針に刺した。
「そうそう、上手いじゃないか。ほら、あんたもいつまでも縮こまってないで、これ、あんたの釣り竿だよ」
「えうぅ……」
おたつから釣り竿を受け取った桃姫は、うねるミミズを極力見ないようにしながら海に向けて釣り糸を垂らした。
「雉猿狗……ミミズつけるのは雉猿狗がやって」
「はい、桃姫様」
桃姫がげんなりした顔で頼むと、雉猿狗は笑みを浮かべながら釣り糸を海に垂らした。
それから半日、鱗雲が浮かぶ晴天の下、釣った魚をおたつが捌いて三人で食べたり、雉猿狗に寄りかかって桃姫が昼寝したり、心地よい潮風に当たりながら穏やかな時間を過ごした。
やはり陸路ではなく航路を選んだのは正解だったと雉猿狗が思っていると、次第に海上の霧が濃くなり、視界が悪くなっていった。
「伊豆の沖合いは、いつもこうだって聞くよ……安心しな。明け方には、伊豆に着いてるから」
櫂を握りしめたおたつが自分に言い聞かせるように言うと、夕方だというのに辺りは濃霧で真っ白に染まった。
船の先端で吊り灯籠がゆらゆらと揺れ、行く先だけを橙色に照らしながら、濃霧の中に引きずり込まれるように進んでいく。
「雉猿狗、なんだか怖い」
「大丈夫です、桃姫様」
怯えた桃姫が身を寄せると、雉猿狗はその身を抱えた。
「……問題ない……問題ない」
おたつは小さく呟いて繰り返した。おたつにとって、ここまで沖合いに船を出したのは初めてのことだった。
しかしおたつには思い当たることがあった。夫の弥彦は、伊豆の沖合いで消息不明になったと。
「……っ」
おたつは息を呑んだ。白い濃霧の向こうから船の形をした黒い影が、こちらに向かって近づいてくる。
その影はどんどん大きくなり、そして濃くなっていく。
「……船」
桃姫が呟いた。船は一隻ではなかった。先頭の影が濃くなるにつれて、後方からも次々と黒い船影が姿を現していく。
「……船幽霊」
雉猿狗が声に漏らした。ついに濃霧の中から船体が現れ、おたつの船の横を通り過ぎる。
船幽霊──それは朽ちた四隻の大型漁船だった。浮いているのも不思議なほどに壊れ果てた船体の上には、この世の者ではない青ざめた肌をした男たちが乗っていた。
「弥彦ッ!? あんたぁッ!」
その中に弥彦の姿を見つけたおたつが、櫂を放り出し、船の縁にしがみついて叫んだ。
「あたしよッ! おたつよぉッ!」
「おたつ様、いけません!」
海へと落ちそうになるほど身を乗り出したおたつの体を、雉猿狗が咄嗟に掴み止めた。
「……おたつぅ……」
大型船の上に立つ弥彦が虚ろな目をしておたつに呼びかけた。
「……おたつぅ……おらぁ……」
「あんたぁッ! 帰ってきてぇッ!」
「……おらぁ……帰れねぇだぁ……すまねぇなぁ……」
弥彦は力なく声を発すると、四隻の幽霊船はゆっくりと遠ざかっていく。
「……すまねぇ……すまねぇなぁ……」
「……弥彦ッ! いかないで! いやぁああッ!」
雉猿狗の手を振り払って海に落ちようとしたおたつの体に桃姫が組み付いた。
「おたつさん! だめッ!」
「離してぇッ! あたしは弥彦と! 弥彦と一緒にいくのォッ!」
ふたりがかりで狂乱するおたつの体をつなぎ止める中、船幽霊が姿を消すと同時に霧が晴れていった。
「霧が……」
雉猿狗が声に漏らすと、おたつは船の縁にしがみつきながら涙を流して叫んだ。
「なんで離してくれなかったんだい……! あたしも弥彦と一緒にいけたのにさぁ……!」
「……おたつさんに、いってほしくなかった」
海面に涙を落として嗚咽するおたつに、桃姫は沈痛な面持ちで告げるのであった。




