21.船幽霊
おたつの家に招かれた桃姫と雉猿狗は、三人いれば手狭になる広さの室内を見回した。
「……殿方の着物がありますね。この茶碗も、殿方向けの色合いです」
「人の家のものを、あまりジロジロ見るんじゃないよ」
壁に掛けられた茶色の着物や、地味な色をした茶碗を見て呟いた雉猿狗に、おたつが注意した。
「桃姫様、やめましょう」
「怒られたの雉猿狗だよ……」
桃姫は呆れ顔で返した。
「はっ。今でこそひとり暮らしだけどね、あたしだってずっと独り身だったわけじゃないんだよ」
「では、あの漁船はもとはこの着物の持ち主のものだったのですね?」
おたつの言葉を聞いた雉猿狗が尋ねると、おたつはため息をついた。
「これだから人を家に上げるのは嫌だったんだ。これ以上詮索するようなら外で寝させるよ」
「ごめんなさい。もう寝ますから」
桃姫は謝りながら板の間に座った。おたつは雉猿狗に言った。
「雉猿狗さん、あんたも寝な。飯は起きてからにするよ」
「はい。桃姫様、こちらへどうぞ。私の腕を枕としてお使いください」
「……ん、うん」
雉猿狗は桃姫の隣に横になって腕を伸ばした。桃姫も横になると、腕に頭を乗せた。
「はぁ……まぁいい。伊豆まで届けりゃ3年分の稼ぎだ……ちょろい仕事さね……」
寄り添って横になるふたりの姿を見下ろしたおたつは呟くと、燭台のロウソクの火を吹き消した。
──おたつ、すまねぇ……おらぁ……。
「弥彦! 弥彦、帰ってきてぇ!」
──だめだ……おらぁ……おたつ、すまねぇ……。
「弥彦……! 弥彦ぉっ……!」
額にじっとりと汗を浮かべ、はっと目を開けたおたつ。体を布団から持ち上げると深く息を吐いた。
「……はぁ、嫌な夢だね……まったく」
船に乗った夫の弥彦が白い霧に飲み込まれ、遠ざかっていく夢。弥彦がいなくなってから、おたつが何度も見る悪夢だった。
立ち上がったおたつが、水瓶からひしゃくで水をすくって飲むと、ふとこちらを見ている雉猿狗に気づいた。
「……なんだいあんた、起きてたのかい」
喉を潤したおたつが言うと、雉猿狗は桃姫の髪を撫でながら静かに口を開いた。
「私は寝なくてもよいのです。そういう"体質"なので」
「はっ、そいつは便利だね。まるで幽霊みたいじゃないか」
暗がりの中、そう言ってほほ笑んだ雉猿狗に、おたつは皮肉交じりに返した。
「そうですね。その通りかもしれません」
「そうかい……幽霊と話したのは初めてだよ……まったく、嬉しいやね」
鼻で笑ったおたつは布団を畳んで片付け、身支度を始める。雉猿狗はその様子を眺めながら口を開いた。
「おたつ様……"弥彦"とは、どなたでしょうか」
「……っ」
雉猿狗の言葉におたつがびくりとして着替えの手を止めた。
「伊豆に行きたいなら、二度とその名前を口にするんじゃないよ……いいね?」
「…………」
背を向けて発せられたおたつの低い声に、雉猿狗は黙った。外から届く波の音と、深い眠りにつく桃姫の寝息だけが小屋に響いた。
それから2時間後──燭台のロウソクに火が灯され、桃姫が雉猿狗によって起こされた。
寝ぼけ眼をこすった桃姫は、おたつが用意してくれた七輪で焼いた魚の干物と魚肉のつみれが入った味噌汁を食べた。
「よし、あと1時間でお天道様がのぼってくる。その前に船を出すよ──あんたら、忘れ物はないね?」
夜から朝に変わる最も暗い時間、未明混沌──漁船の先端に取りつけられた吊り灯籠に火を灯したおたつが、砂浜に立つ桃姫と雉猿狗に声をかけた。
「あんたらは伊豆に行ったっきり戻ってこないんだ。財布を忘れたなんて、海の上で言われても遅いからね」
おたつは吊り灯籠の明かりで顔を照らしながらほほ笑むと、桃姫と雉猿狗が頷いて返した。
三人が小さな漁船に乗り込むと、入り江に流れ込む波に揺られた古びた船体が、ギィギィと音を立てて軋んだ。
「それじゃ、出発するよ! ──ヨイ、サー!」
櫂を握ったおたつがかけ声を上げ、力強く漕ぎ出すと、漁船は入り江を離れて伊勢湾へと出た。
「──ヨイ、サー! ヨイ、サー!」
おたつがかけ声を発しながら櫂を漕ぐと、小さな漁船は速度を増していき、流れに乗ってすうっと夜の海原を滑るように進んだ。
「一番力がいるのは漕ぎ出し、あとは流れに身を任せてやっていくのさ」
海風に当たりながら語ったおたつを、桃姫と雉猿狗が座りながら見上げた。
「あんたらの足元に釣り竿が転がってるだろ。伊豆に着くまで丸一日かかるし、釣りしたいならするといい」
桃姫と雉猿狗が足元を見ると、確かに二本の釣り竿が置かれていた。
「雉猿狗、釣りしたことある?」
「まったくございません」
桃姫の問いかけに雉猿狗が首を横に振って答えた。その様子を見たおたつが櫂を船尾に預け、釣りの指南を始めた。
「いいかい、まずはこの箱の中に詰まってるミミズ……こいつをだな」
おたつが開いた箱の中には土が敷き詰められており、その中で無数のミミズが蠢いていた。
「いやあああ!」
桃姫が叫びながら仰け反った。
「大丈夫。あたしだって最初は嫌だったけど、すぐに慣れた。このミミズを、こうして針に通して、ほらな、こうだ。簡単だろ?」
「なるほど。やってみましょう」
雉猿狗は興味深げに言うと、ミミズを摘み上げ、同じように針に刺した。
「そうそう、上手いじゃないか。ほら、あんたもいつまでも縮こまってないで、これ、あんたの釣り竿だよ」
「えうぅ……」
おたつから釣り竿を受け取った桃姫は、うねるミミズを極力見ないようにしながら海に向けて釣り糸を落とした。
「雉猿狗……ミミズつけるのは雉猿狗がやって」
「はい、桃姫様」
桃姫がげんなりした顔で頼むと、雉猿狗は笑みを浮かべながら答え、釣り糸を海に落とす。
おたつはやれやれという顔で船尾に戻ると、再び櫂を握って漕ぎ出すのであった。
それから半日、鱗雲が浮かぶ晴れた空の下、釣った魚をおたつが捌いて三人で食べたり、雉猿狗に寄りかかって桃姫が昼寝したり、海風に当たりながら穏やかな時間を過ごした。
やはり陸路ではなく航路を選んだのは正解だったと雉猿狗が思っていると、次第に海上の霧が濃くなり、視界が悪くなっていった。
「伊豆の沖合いは、いつもこうだって聞く。安心しなよ……明け方には、伊豆に着いてるから」
櫂を握りしめたおたつが自分に言い聞かせるように言うと、夕方だというのにあたりは濃霧で白く染まっていく。
「雉猿狗、なんだか怖い」
「大丈夫です、桃姫様」
怯えた桃姫が身を寄せると、雉猿狗はその身を抱えた。
船の先端、吊り灯籠がゆらゆら揺れて白い濃霧を橙色に照らしながら、濃霧の中に引きずり込まれるように進んでいく。
「……問題ない……問題ない」
おたつは小さく呟いて繰り返した。おたつにとって、ここまで沖合いに船を出したのは初めてのことだった。
しかしおたつには思い当たることがあった。夫の弥彦は伊豆の沖合いで消息不明になったと。
「……っ」
目を見開いたおたつ。白い濃霧の向こうから船の形をした黒い影が、こちらに向かって近づいてくる。
その影はどんどん大きくなり、そして濃くなっていく。
「……船」
桃姫が呟いた。船は一隻ではなかった。先頭の影が濃くなるにつれて、後方からも次々と黒い船影が姿を現す。
「……船幽霊」
雉猿狗が声に漏らした。ついに濃霧の中から船体が現れ、おたつの船の横を通り過ぎる。
船幽霊──それは朽ちた四隻の大型漁船だった。浮いているのも不思議なほどに壊れ果てた船体の上には、この世の者ではない青ざめた肌をした男たちが立っていた。
その男たちの中のひとりを見て、目を大きく広げたおたつ。
「弥彦ぉッ! あんたぁッ!」
櫂を放り出したおたつが船の縁にしがみついて船幽霊に向けて叫ぶ。
「あたしよッ! おたつよぉッ!」
「おたつ様、いけません!」
海へと落ちそうになるほど身を乗り出したおたつの体を、雉猿狗が咄嗟に掴み止めた。
「……おたつぅ……」
漁船の上に立つ男が虚ろな目をしておたつの名を呼ぶ。
「……おたつぅ……おらぁ……」
「あんたぁっ!! 帰ってきてぇ!!」
「……おらぁ……帰れねぇだぁ……すまねぇなぁ……」
弥彦と呼ばれた男は力なく声を発すると、四隻の幽霊船団はゆっくりと遠ざかっていく。
「……すまねぇ……すまねぇなぁ……」
「……弥彦っ!! いやぁああっ!!」
雉猿狗の手を振り払って海に落ちようとしたおたつの体に、桃姫も組み付いた。
「おたつさん! だめ!」
「離してよぉっ!! あたしは弥彦とっ!! 弥彦と一緒に行くのぉ!!」
ふたりがかりでおたつの体をつなぎ止めた。船幽霊が姿を消すと同時に、霧が消え去っていった。
「霧が……晴れていく」
雉猿狗が呟くと、おたつが揺れる船の縁にしがみつきながら涙を流して叫んだ。
「弥彦が行っちまった……! なんで離してくれなかったの! あたしも"あっちの世界"に逝けたのにさぁ!」
「…………」
海面に涙を落としたおたつ。桃姫は悲痛な面持ちで黙るのであった。