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20.志摩のおたつ

 天照神宮に参拝してから半月後、桃姫と雉猿狗は志摩に到着した。天照降臨の祝福以後、夏らしいからりと晴れた日が続き、雉猿狗の体内も神力で十分に満たされていた。


「あの……私の顔になにか?」


 じっと見つめる桃姫に、雉猿狗が尋ねた。


「その目……まだ見慣れなくて」


 茶屋の店先に置かれた縁台に並んで腰かけ、木の匙でかき氷を食べながら桃姫が呟いた。


「この波紋ですか……そうですね」


 同じくかき氷を食べていた雉猿狗は、黄金の波紋が宿った翡翠色の瞳をぱちりとまたたかせた。


「天照様が授けてくださった力って、なんなんだろうね?」

「はい。それにどうやって扱えばいいのか、見当もつきません」


 かき氷を食べ終えたふたりは、簡易な日ノ本の地図を縁台に広げて眺めた。


「雉猿狗、本当に安房まで船で行くの?」

「はい。この戦乱の世では、陸路より航路の方が安全だと思うのです。鬼も海までは追ってこれないでしょうからね」


 雉猿狗は言いながら、志摩、伊豆、安房と東に向かう航路を指でなぞった。陸路なら、志摩から伊勢に戻り、尾張、三河、遠江、駿河と長い道のりだった。


「確かに……陸路だと奥州に着くまで何年もかかりそう」


 桃姫が辟易しながら言うと、雉猿狗は地図を畳んで帯の中に仕舞った。


「一日でも早くぬらりひょんの館に着くためには、船での移動が欠かせません。参りましょう、桃姫様」

「うん」


 頷いて立ち上がった桃姫。雉猿狗が店主に銭を払い、ふたりは茶屋を後にした。

 志摩の海岸沿いまで歩いたふたりは、沖合に5隻の小舟が浮かんでいるのを見た。しかし、どの舟にも人影はなかった。


「……船があるのに、誰も乗ってない」


 不気味に思った桃姫は、眉をひそめた。


「あれは、海女の小舟ですね。近くに浮いている桶、あの中に海底で採ったウニやアワビを入れるのです」

「……海の底まで潜るの?」

「そうです。ほら、上がってきましたよ」


 雉猿狗の声に目を凝らした桃姫。海面に顔を出した女性が手にした貝を桶に入れ、また素潜りで海中へと消えていった。


「本当だ。すごいなぁ」


 桃姫が感嘆の声を漏らすと、雉猿狗が辺りを見回しながら口を開いた。


「ですが、この辺りは海女漁の小舟ばかりで、私たちを運んでくださるような船が見当たりませんね」

「あんたら、船を探してんのかい?」


 後ろから快活な声がなげかけられ、桃姫と雉猿狗は振り返った。


「見りゃ分かるよ。あんたら、旅人だろ? あたしの船でよけりゃ乗せてやるよ」


 小麦色の肌に白い手ぬぐいを頭に巻いた、三十代半ばほどの女性が白い歯を見せてほほ笑んでいた。


「あたしの名前はおたつ。この志摩で女だてらに漁師をやってる」


 名乗ったおたつに、雉猿狗と桃姫が慌てて頭を下げた。


「雉猿狗と申します」

「桃姫です」


 その様子を見たおたつが眉を寄せながら笑った。


「ははは。なんだいあんたら、いったいどこの高貴な出だよ。まぁいいや、あたしについてきな」


 おたつは身をひるがえすと、桃姫と雉猿狗は互いに顔を見合わせてからその後を追った。


「300年くらい前かな、志摩の海に共潜ともかづきが現れてね」


 三人で海岸沿いを歩いていると、おたつがおもむろに話し始めた。


「海女がひとりで海に潜ってるとさ、いつの間にか一緒に潜ってる黒い着物の海女がいるんだよ」


 おたつの話を聞きながら、桃姫と雉猿狗は志摩の海に浮かぶ小舟と海女たちの姿を眺めた。


「仲間が来たんだなと思って上がってみると、船は自分のが一隻だけ……でも確かに、もうひとり作業してる黒い海女が海中にいるんだ。その海女はやけに友好的でね、アワビやサザエなんかを海底でくれようとする」


 おたつはそこで立ち止まり、振り返った。


「でも、そいつからは絶対に貰っちゃいけない。受け取ろうと手を伸ばした瞬間──腕を掴まれ、沈められる」

「……っ」


 おたつの言葉にゾッとした桃姫は、隣りに立つ雉猿狗に身を寄せた。


「必死でもがいて振りほどいた海女が、小舟に上がって掴まれた腕を見ると……小さなフジツボがびっしりと生えていたそうだ」


 おたつは桃姫を怖がらせるように言ってから、海を見つめた。


「共潜の正体は、溺れ死んだ海女の怨霊じゃないかって言われてるけど……真相は分からない」

「……海は元来、この世とあの世をつなぐ境界とされてきました。現世に未練を残した多くの魂が彷徨っていても、おかしくはありませんね……今でも共潜は出るのですか?」


 雉猿狗が尋ねると、おたつは首を横に振った。


「いや、ある日を境に出なくなった。なんでも、通りすがりの修験僧が"まじない"を海女たちに教えてくれたんだとか……ほら、あたしの手ぬぐいにも刺繍されてるだろ?」


 そう言っておたつは、頭に巻いた手ぬぐいを解き、広げて見せた。そこには藍色の糸で刺繍が施されていた。


「五芒星と格子の模様……五芒星は五行による守護を、格子は悪霊を睨む大量の目を意味しています」

「へぇよく知ってるね、あんた。海女たちは感謝の礼に海産物を修験僧にあげようとしたんだけど、"千年善行の途中だから遠慮する"とか言って、足早に去ってしまったんだとさ」

「……"千年善行"ですか」


 雉猿狗はその言葉に何かひっかかりを覚えて呟いた。


「しかしあんた、不思議な人だね。あたしはあんたもこの世の者とは思えないよ──ずばり、美人すぎるね。ははは」


 おたつは訝しげに雉猿狗の顔を見つめてから、そう言って笑い、手ぬぐいを頭に巻き直して再び歩き出した。

 桃姫と雉猿狗がおたつに先導されて海岸沿いを歩き続けると、小屋と納屋が一軒ずつ、古びた漁船が一隻つながれた小さな入り江にたどり着いた。


「ここがあたしの家だよ。ひっそりと気楽にやってんのさ」

「静かでいい場所ですね」


 雉猿狗が言うと、おたつはほほ笑んだ。


「んで、あんたらどこ行きたいんだい?」


 漁船の前で腕を組んだおたつに、雉猿狗は帯の中から地図を取り出して広げた。


「黒潮に乗って、伊豆、そして安房までお願いします」

「はぁ!? 安房まで!?」


 雉猿狗が指さした安房を見ながらおたつは叫んだ。


「冗談じゃないよあんた! あたしはてっきり三河や遠江までだと!」

「では、伊豆までなら」


 雉猿狗が引き下がらずに言うと、おたつは呆れたような顔をして首を横にぶんぶんと振った。


「あんた、伊豆ですらどんだけ遠いか分かってないみたいだね。黒潮に乗るって簡単に言うけど、乗っちまった志摩の漁師が今までどれだけ流されたと」

「流された漁師はどこへ行ったのですか?」


 まくし立てるおたつに雉猿狗は臆せず聞き返した。


「そりゃ……風の噂によれば……安房に流れ着いたって話だけど」

「黒潮に乗れば、安房にたどり着ける──それは事実なのですね?」

「じゃあ、なんだい。あんたはあたしに志摩を離れて安房で暮らせってのかい? あんたらを運ぶために!? いいかい! 黒潮に乗ったら、もうここには戻ってこれないんだよ!」


 おたつは言うと漁船を見やった。せいぜい五人乗れるほどの小さな漁船だった。


「安房が無理だとしても、伊豆までお願いします。それから先の船は、現地で見つけますから」

「何度も言わせないでくれ、伊豆だってね──」


 おたつが喋っている最中、雉猿狗は帯から四枚の小判を取り出して掲げた。


「……!? おいおい、あんた、こんな大金……迂闊に持ち歩くもんじゃないよ……!」


 おたつは突然視界に飛び込んできた黄金に動揺しながら声を上げた。


「こちらで、伊豆まで運んではいただけませんか?」

「……これじゃ片道分、といったところかねぇ……何度も言うようだけど、あたしはあんたらを運んだ後に帰ってこなきゃならないんだよ」


 おたつは日焼けした指で小判を摘み、本物であることを一枚一枚入念に確認しながら告げた。


「わかりました」


 雉猿狗は覚悟を決めると、懐から紫の細紐に巻かれた十枚の小判を取り出した。


「合わせて十四両。これなら、いかがです」

「乗った! その話、乗ったよ!」


 おたつは茶褐色の両目を見開きながら声を上げ、雉猿狗の前に両手を差し出した。


「乗るのは私たちですよ、おたつ様」


 雉猿狗は言うと、十四枚の小判をおたつの手のひらの上に置いた。


「参ったね……五年分の稼ぎ、断れるやつがいるかってんだよ」


 おたつはずしっとくる黄金の重みを感じながら呟いた。


「明日の夜明けに出発すれば、翌朝には伊豆に着く……幸い、明日の天気は晴れだ」


 おたつは藍色の着物の懐に小判を仕舞いながら、桃姫と雉猿狗に告げた。


「今晩はあたしの家に泊まりな。布団はないけど、干物くらいは食わせてやるさ」


 そう言っておたつは、小麦色の肌に映える白い歯を見せながら明るい笑みを見せるのであった。

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