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18.死ぬな、雉猿狗!

 花咲村にある桃の木の一画にて。土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになった桃姫が赤い鞠を蹴り上げ続けていた。


「981……! 982……!」

「──桃姫っ!」


 和傘を差した小夜が桃姫に向かって声を張り上げた。


「っ!? 母上っ!?」

「まさかと思って来てみれば……! こら! 蹴鞠をやめなさい!」

「ちょっと待って……! 今、いいところだから! 記録更新できそうなの……!」


 声に怒気を込めながら近づいてくる小夜に、桃姫は蹴り上げる足を止めずに答えた。


「風邪ひいちゃうでしょ!」

「明日の風邪より、今日の蹴鞠だよ!」


 顔から雨水を滴らせながら真剣な表情で桃姫は叫んだ。


「何バカなこと言ってるの! ほら、帰るわよ!」


 小夜は呆れた声を上げると、桃姫の腕を掴んで強引に蹴鞠を中止させた。


「ああっ──! 鞠が……!」


 桃姫のつま先に当たった鞠はころころと桃の木へと転がり、根本にぶつかって止まった。


「明日取りにくればいいから! 今日は帰るわよ!」


 小夜の手に引きずられるようにして、桃姫は自宅へと帰った。


「まったく、夢中になると止まらなくなるんだから……いったい誰に似たのかしらね……」

「記録更新……」


 桃色の長い髪を小夜に拭かれながら、桃姫は恨めしそうに呟いた。


「蹴鞠なんていつでもできるんだから、無理して雨の中でやることないじゃない」

「違う……集中できるときと、できないときがあるんだよ……」


 小夜は桃姫の言葉を聞き流しながら、髪を乾かし続けた。


「ただいま……いや、濡れた濡れた……ひどい夕立だね。仕事にならないから切り上げてきたよ」

「……父上、おかえりなさい」

「ははは。桃姫もずぶ濡れか」

「あなた……! 笑ってないで聞いてくださいな! 桃姫ったら大雨の中でね──」


 ──天照神宮にて。土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになった桃姫が参道にぽつんと立ち尽くしていた。


「…………」


 光が失われ、暗くなった瞳を伏せると、水たまりの中に倒れ込んだ雉猿狗が苦悶の表情を浮かべながら、浅い呼吸を繰り返していた。


「……雉猿狗」


 神力が尽き、命の灯火が消えかかる雉猿狗に向かって、桃姫が呟いた。


「……私……終わりたくないよ……私、こんなところで……終わりたくなんか……ないんだよ……」


 桃姫は涙をこぼした。涙は雨水と混じり合い、頬を伝って足元の水たまりにぽつりと落ちた。


「──桃姫ちゃん」


 そのとき桃姫は、"大親友"の懐かしい声を聞いた。


「──桃姫ちゃんなら、できるよ」


 足元の水たまりに、桃姫を見つめるおつるの顔が映っていた。


「……無理だよ。だって私……ひとりなんだよ」

「──んーん、無理じゃないよ。それに、ひとりじゃないでしょ?」


 おつるは穏やかな声で告げた。


「……ひとりじゃない……」


 桃姫の瞳に光が戻り始めると、おつるのかんざしを挿した桃姫の顔が、水たまりに映っていた。

 そして桃姫は、手にしている〈河童の形代〉を懐に仕舞うと、倒れ伏している雉猿狗を見やった。


「……ひとりじゃないんだ」


 桃姫は雉猿狗の体に両手を伸ばし、水たまりから持ち上げた。桃姫より長身の雉猿狗の体。濡れそぼって脱力している体はさらに重さを増していた。

 しかし桃姫はグッと歯を食いしばって全身に力を込めると、雉猿狗の体を背中に担ぎ上げた。


「……雉猿狗は──絶対に、死なせない」


 濃桃色の瞳に熱を宿した桃姫は、一歩、また一歩と、踏みしめるように拝殿の後ろに伸びる千歩階段に向けて歩みを進めた。

 階段を登り始めた桃姫。履いている雪駄は雨に濡れた石段の上で何度も滑り、桃姫はその都度、手を突いて体を支えた。

 雉猿狗を落とさぬよう、空いた手で担ぎ直し、そして一歩、一歩、時間をかけて千歩階段を登っていく。


「はぁッ──はぁッ──はぁッ──」


 荒い呼吸を繰り返しながら、山頂にある本殿へと続く無限のようにも感じる長い階段を、祈りを捧げるような気持ちで桃姫は登った。


「……雉猿狗……雉猿狗……」


 気づけば桃姫は、その名を繰り返し口にしていた。雉猿狗──その存在は自分にとっていったい何なのだろうかと考えていた。

 あの祭りの夜、絶望に打ちひしがれ、自刃しようとした刹那に現れた雉猿狗。

 時には親しい姉であり、時には頼もしい戦友であり、時には包み込む母であり──そして常に、桃姫と運命をともにする相棒であった。

 雉猿狗がいなければ、この鬼退治の旅路は終わってしまう──絶対に、こんなところで雉猿狗を死なせるわけにはいかない。


「──桃姫。もうだめだって思ったときに、胸の奥から不思議な力が湧いてきたことはないか?」


 自分の濡れた髪を拭いていた桃太郎が、不意に桃姫に語りかけた。


「胸の奥って……心臓のこと?」

「いや、心臓じゃないんだ……それはなんていうか、もっとこう奥底にある──心の話なんだ」


 桃太郎はそう言ってほほ笑んだ後、台所で夕飯の支度をしている小夜を見た。


「修行をしていたときや、鬼退治のとき……"心の力"が胸の奥底から湧き出すことがあったんだ」


 視線を戻した桃太郎が、ちゃぶ台越しに桃姫の顔を見た。


「これからの人生で、すごく大変な……でも、逃げずに頑張らないといけない瞬間が必ず出てくる」


 桃太郎は濃桃色の瞳で、桃姫の濃桃色の瞳を見つめた。


「そのときは思いっきり叫ぶんだ……大事な人の名前を、護りたい人の名前を……そうすればきっと──桃姫にも"心の力"が湧いてくるから」


 何気ない日常の記憶──小夜の味噌汁の匂いが香る、二度と取り戻せない大切な思い出の一片。


「……死ぬな……雉猿狗……」


 そして桃姫は呟いた。大事な人の名前を。護りたい人の名前を。右手で石段を突いた拍子に巻き貝の腕飾りが大きく揺れる。

 左手で雉猿狗の体を担ぎ直した桃姫は、両眼を銀光させながら顔を上げ、煙雨で白くかすむ本殿を睨みつけ、吼えた。


「──雉猿狗ォオオッ!! 死ぬなァアアッ!!」


 心から叫んだ瞬間、全身から白銀に光り輝く波動が迸り、その衝撃で周囲の雨粒が弾け飛んだ。

 銀光する瞳を燃やした桃姫は、両手で雉猿狗を背負い、力強く石段を踏みしめながら千歩階段を登り詰めるのであった。

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