17.天照神宮の千歩階段
翌朝、そして翌々朝になっても、伊勢を襲う大風は止むことがなかった。
むしろ日を追うごとに雨風は強さを増すばかりで、喜兵衛の家もギシギシと悲鳴のような音を立て始めていた。
「……ちょっとまずいっぺね、こりゃ。食料の備蓄だってそんなにあるわけじゃねぇし」
喜兵衛は木戸を少しだけ開けて荒れ狂う外の様子を確認すると、すぐに閉じて囲炉裏の前に戻りながらそう呟いた。
部屋の片隅に敷かれた布団には、掠れた呼吸音を漏らしながら苦悶の表情を浮かべる雉猿狗が横たわっていた。
雉猿狗の枕元に座った桃姫は、水の入った桶に手ぬぐいを浸して固く絞り、水気を切ってから広げて折りたたみ、雉猿狗の額に乗せた。
「……とは言え、いつまでも大風が吹き続けるなんてことはねぇ……今しばらくの辛抱だっぺよ」
「喜兵衛、あんた昨日もそう言ってなかったかい……?」
どっかりと座布団の上にあぐらをかいた喜兵衛の言葉に、年老いた女将が愚痴をこぼすように言った。
「……そんなこと言われても仕方ねぇっぺさ。俺は神様じゃねぇんだからよ」
喜兵衛は溜息を吐き、部屋の神棚を見上げた。
「神頼みしかねぇかな……こうなったら」
喜兵衛は立ち上がると、神棚に向かってドスドスと歩いていき、パンパンと両手を乱暴に二度叩いた。
「天におわす神様。どうか、この大雨、大風を止めてくだせぇ……なにとぞ、なにとぞぉ……!」
喜兵衛が傍目にも雑に神棚へ祈りを捧げる。女将と妻は呆れた顔でその様子を見ていたが、桃姫は真剣な眼差しで見つめていた。
「なぁにみっともない真似してんだよ、あんた。神頼みなんて、今どき子供でもしやしないよ」
「……うるせぇや」
女将が皮肉を込めて言うと、喜兵衛は囲炉裏の前に戻ってきて、再びどっかりと座った。
そして、とっくりからおちょこに酒を注ごうとしたが、中身が空になっていることに気づく。
「おぉい、たえよ……酒は?」
「今ので最後ですよ。もうこの家には一滴もありやせん」
「……なんだってぇ!? ああ……! おしまいだぁ……!」
妻おたえの返答に、喜兵衛が裏返った声を上げた。そしてこの世の終わりとでも言うように天を仰いで寝そべる。
そのとき、桃姫は屋内がやけに静まり返っていることに気づいた。
三日三晩にわたってあれほど騒がしくガタガタ、バタバタと鳴り続けていた雨音や風音が、一切しないのだ。
「なんだかよ……やけに静かじゃねぇか?」
桃姫と同じくそのことに気づいた喜兵衛が、天井に吊り下がった魚の干物を見ながら呟くと、すっくと立ち上がり、どすどすと玄関まで歩いてガラガラッと勢いよく木戸を開けた。
そして目に飛び込んできたのは、晴天だった。カラリと晴れ渡った青空と太陽に照らされる漁村の姿。
「──届いた……! なぁ! 俺の祈りが神様の元に届いたっぺよぉッ!」
喜兵衛は満面の笑みで室内に向かってそう叫ぶと、草履を履いて外へ飛び出していった。
「……雉猿狗っ! 雉猿狗っ! お日様だよ……!」
「……う、うう」
桃姫は外から入り込む光で明るく照らされた室内で、布団に横たわった雉猿狗に声をかけた。
雉猿狗は薄っすらと目を開けると、開かれた木戸の外を見て口を開く。
「……桃姫様、私を外へ……」
「……うん!」
雉猿狗の言葉に頷いた桃姫は、雉猿狗の背中を支えて自身の体に寄りかからせた。
その様子を見た女将とおたえも桃姫に協力し、三人がかりで雉猿狗の体を支えて外へと連れ出した。
「あっ……ああ……ああっ!」
太陽から燦々と降り注ぐ光を浴びた雉猿狗が、歓喜の声を上げながら生気を取り戻していく。
死人のように青ざめていた肌は血色を取り戻し、三人の支えを必要とせずにひとりで立ち上がると、両手を蒼天に向けて広げた。
「……ありがとうございます……ありがとうございます……」
雉猿狗は目を閉じ、ただ太陽に向かって感謝の言葉を繰り返した。
「──本当に、もう行っちまうのかい?」
それからしばらく後、喜兵衛が雉猿狗と桃姫を見ながら名残惜しそうに言った。
「はい。私たちは旅の身ですので、同じ場所に長居はできないのです」
「そうかい。まぁ、体調も良くなったようだし、おふたりさんの旅の安全を祈願するよ。なんせ、俺は神様への祈りで空を晴れさせた男だからな」
雉猿狗の言葉を聞いた喜兵衛は、腰に両手を当てて胸を張ってそう答えた。
「ふふふ、心強いです……こちら、少ないですが、お世話になったお礼です」
雉猿狗はそう言うと、一枚の小判をすっと喜兵衛に差し出した。
「おっと、こりゃ悪いねぇ……! なんて言うと思ったかよ。むしろ、こっちが金払わなきゃならねぇくらいだわ。嵐の中、婆さんを家まで連れてきてくれたんだからよ。がははは……!」
「だれが婆さんだい、だれが……!」
喜兵衛が威勢よく笑うと、隣に立つ女将がその胸を小突いた。
「かしこまりました。では、こちらは旅の資金として取っておくことにいたします。誠にお世話になりました」
「お世話になりました」
感謝の言葉を述べた雉猿狗が丁寧に頭を下げると、桃姫も感謝の言葉を言ってぺこりと頭を下げる。
そうしていると、おたえが家の中から出てきて、ふたりの前に小走りでやってきた。
「これ、魚の煮付けを入れたおにぎりね。お腹が空いたら道中で食べてくださいな」
「……ありがとうございます!」
おたえが笹の葉に包まれたおにぎりを差し出すと、桃姫は両手で受け取り、感謝の言葉と共に深くお辞儀をした。
桃姫と雉猿狗に向かって手を振る喜兵衛、女将、おたえに対し、ふたりも手を振りながら漁村を後にする。
そして快晴の下、伊勢の街道を歩いている道中、手頃な石の上に座ってふたりは昼食を取ることにした。
「晴れてよかったね、雉猿狗」
「はい。本当に喜兵衛さんが晴らしてくださったのでしょうか?」
「そうだよ……! なにとぞ、なにとぞ……って祈ったら晴れたんだから! 雉猿狗にも見せたかったなぁ」
桃姫と雉猿狗が話をしながら、おたえから貰ったおにぎりを食べていると、ポツ、ポツポツポツ──と地面を濡らす雨粒が空から降ってきた。
「……雨だ」
おにぎりを頬張りながら空を見上げた桃姫が呟いた瞬間──ザァァと滝のような豪雨が空から降り注いできた。
「うわああああ……!」
「きゃあああ……!」
桃姫と雉猿狗が悲鳴を上げながら石の上から飛び降り、手近な木の下に避難して座り込んだ。
「え……えええ……!? 大風は止んだんじゃなかったの……!?」
「……ああ……大風とは、"渦"を描く風のことです……渦になっているということは中心があり、その地点は快晴……」
ずぶ濡れになって困惑する桃姫に、雉猿狗が眉根を寄せながら頭の中で渦巻く竜巻を想像し、嘆くように言った。
「……じゃあ、また三日間雨ってこと……?」
「……けほっ……けほっ、ごほっ……」
泣きそうな顔をした桃姫の言葉を聞いて、雉猿狗は咳き込み始めた。そんな雉猿狗の様子を見て、桃姫は決心する。
「……雉猿狗、"神頼み"だよ」
「……え……?」
手で口元を押さえながら苦しそうな顔をする雉猿狗に、桃姫は着物の胸の内から河童の形代を取り出した。
「このまま立ち止まらずに、天照神宮に行こうよ。喜兵衛さんは神棚で祈って空を晴らしたんだから。それなら天照神宮に行って、天照様に直接お祈りすれば、空は絶対に晴れるよ……!」
桃姫はそう言って立ち上がると、雉猿狗に向かって手を差し伸ばした。
「雉猿狗、時間はないよ。また三日も雨だなんて、雉猿狗の体は耐えられない……! すぐに行くしかないんだ!」
「……そうですね……行くしかありません」
雉猿狗は桃姫の手を握って立ち上がる。そして桃姫の濃桃色の瞳を見つめて言った。
「──桃姫様、ずいぶんと逞しくなられましたね」
「ううん……雉猿狗の真似をしてるだけだよ。お婆さんを背負って雨の中を突き進む雉猿狗の背中、格好良かったな」
「……桃姫様」
桃姫の言葉を聞いた雉猿狗は、翡翠色の瞳を潤ませる。
「行こう雉猿狗……! 立ち止まらないよ!」
「はい!」
桃姫は雉猿狗の手を引いて木の下を飛び出し、豪雨と吹き始めた強風の中を雉猿狗と共に走った。
それからふたりは伊勢の街道を天照神宮に向けて丸一日走り続け、ついに天照神宮に辿り着いたときには、雉猿狗の顔は青ざめ、今にも倒れそうな状態となっていた。
「……雉猿狗……! もう大丈夫だからね……!」
「……ぜェ……ぜェ……」
広大な境内を持つ天照神宮の赤い鳥居をくぐり、豪華な拝殿の前までやってきたふたり。
降り続ける豪雨によって巨大な水たまりができ、もはや池のようになった参道に立つ桃姫が声を張り上げた。
「ここで、河童の形代を捧げればいいんだよね……」
桃姫は確認するように呟くと、拝殿に向かって二礼した後、二回拍手を打った。
そして胸から河童の形代を取り出し、拝むようにして両手で握りしめ、顔の前に掲げた。
「なにとぞ……なにとぞ……空を晴らしてくださいませ、アマテラス様……」
目を固く閉じた桃姫が強い祈りを捧げるが、ただ風が吹き、雨が叩きつける音だけが拝殿の前に響いた。
五分、十分と、桃姫は河童の形代を捧げて祈り続けたが、しかし何も起こらない。
「……なんで……アマテラス様……私たち、ここまでやってきたんです……死に物狂いで、ここまで……」
「……桃姫、様……」
桃姫の肩に身を預けるように寄りかかり、かろうじて立っていた雉猿狗がかすれた声で話し始めた。
「……もしや……形代を捧げるのは……"拝殿"ではなく……"本殿"かもしれませぬ……」
「……え」
雉猿狗の言葉に、桃姫が驚きの声を漏らす。
「……本殿って……」
桃姫は拝殿から一歩、二歩と後ずさった。そして雉猿狗と共に、拝殿の後ろを見上げる。
「……これ……のこと……?」
天照神宮名物──"心臓破りの千歩階段"。拝殿の後ろにそびえる天照山の山肌に沿うように、天界へと伸びるかのごとく千段の石段が連なっていた。
煙雨によって三百段より先は白くかすみ、山頂付近にある本殿の姿に至っては、拝殿の位置からは姿形すら全く窺い知れなかった。
「…………」
「…………」
疲弊しきった二人を待ち受けていた千歩階段の威容に、桃姫と雉猿狗は絶句した。次の瞬間、神力を完全に身体から枯渇させた雉猿狗は、糸の切れた人形のように、どしゃりと音を立てて水たまりの中に倒れ込んだ。
雨でずぶ濡れになった桃姫は、隣で倒れた雉猿狗を気遣う心の余裕すら失い、絶望的な長さを誇る千歩階段を見上げながら深い無力感に苛まれた。
そんなふたりの体に向けて、止む気配の一切ない容赦ない豪雨が、空一面に広がる鈍色の分厚い雨雲から無慈悲に叩きつけるのであった。