16.伊勢湾大風
桃姫と雉猿狗が河童の領域を発ってから1ヶ月。季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。
ふたりは紀伊半島を旅し、紀伊から伊勢へと辿り着く。海沿いにある小さな宿屋で、束の間の休息を取っていた。
「……今朝からずっと雲行きが怪しいですね。明日は相当な大雨になりそうです」
二階の窓から雨戸を開け、海上の空を見上げていた雉猿狗が呟いた。分厚い鈍色の雲が地平線から迫り来る。まだ雨こそ降っていないものの、明日からの悪天候を予感させていた。
「そっか……じゃあ明日は、この部屋でのんびり過ごそう」
桃姫はちゃぶ台の上のみかんを頬張りながら答える。
「……あまり、こんな天気が続いてほしくないのですが」
雉猿狗は困ったような表情で木製の雨戸を閉めると、桃姫の向かいの座布団に腰を下ろした。
「雉猿狗の栄養になる、お日様の光が吸収できないから……?」
「……はい。特に分厚い雨雲に覆われると、体の奥底から力が抜けていくような感覚に襲われてしまいます……」
雉猿狗は力なく答え、ふう……と溜息をつきながら額に手を当て、目を閉じた。
珍しく具合の悪そうな雉猿狗の様子に、桃姫も心配になった。
「雉猿狗、みかん食べて。お日様の力が少しは貰えるかもしれないよ?」
桃姫は籠からみかんを一つ取り出し、雉猿狗に差し出した。
「ははは……そうですね。食欲はあまりないのですが、桃姫様のみかんなら断れません」
雉猿狗は微笑みながらみかんを受け取り、桃姫と一緒に食べた。
その日の夜。天候は一気に悪化した。
ビュウビュウと唸る突風が閉じられた雨戸を激しく揺らし、猛烈な豪雨が古びた二階建ての木造宿屋を容赦なく叩きつける。
「……ごほっ……ごほっ、けほっ」
「……雉猿狗、大丈夫……?」
行灯の薄明かりが揺らめく部屋で、布団に横たわった雉猿狗が苦しそうに咳き込んでいた。
「大丈夫です。ちょっと……息苦しくて……けほっ」
雉猿狗は口元を手で押さえながら桃姫に答えると、布団から起き上がり、ちゃぶ台の急須から湯呑みに水を注いでゆっくりと飲んだ。
「……すみません、桃姫様。私の咳がうるさくて、眠れませんよね……」
「違うよ、雉猿狗。眠れないのは雉猿狗のせいじゃない。この強い雨と風のせいだよ」
謝る雉猿狗に対し、桃姫は布団から上半身を起こして首を振った。
「こんなに凄い雨、生まれて初めてだよ……」
桃姫は不安げな表情で、ガタガタと揺れる雨戸を見つめた。
「……この暴風雨は、日ノ本の南の海からやってくる渦巻く大風だそうです」
雉猿狗はそう言うと、苦しそうに目を閉じ、重い溜息をついてから口を開いた。
「……耐えましょう、桃姫様。きっと、すぐに通り過ぎるはずですから……」
「……うん」
雉猿狗の言葉に、桃姫は小さく頷いた。
しかし翌朝になっても豪雨は止まず、宿屋に叩きつける風はむしろその勢いを増していくのだった。
「──失礼するよ、お二人さん」
宿屋の年老いた女将が引き戸を開けながら声をかけると、ちゃぶ台を挟んで向かい合っていた桃姫と雉猿狗が振り返った。
「大変なことになったねぇ……こんなに強い風は、伊勢にずっと暮らしてるあたしでも記憶にないよ。ご覧の通り、この宿屋は年季が入っててね……万が一があるかもしれないんだよ」
「……万が一、ですか」
腰の曲がった女将の言葉に、雉猿狗が眉根を寄せて呟いた。
「そうさ……だから、明るいうちにもっとしっかりした所に避難しておいた方がいいと思ってねぇ……泊まってるお客さんは、あんたら二人だけだからさ」
「……女将さんがそうおっしゃるなら、避難すべきでしょうね……桃姫様、参りましょう」
「うん」
雉猿狗の視線を受けて、桃姫も立ち上がった。二人は慌ただしく荷物をまとめ、宿屋の玄関へと向かう。
「女将さん、どこか当てはございますでしょうか……?」
「そうだねぇ……隣村に漁師をやってる甥っ子がいてね。喜兵衛ってんだけど……あの子の家なら頑丈だと思うよ」
「……承知いたしました」
女将の言葉に頷いた雉猿狗が、突然女将に背を向けてしゃがみ込んだ。そして横目で女将を見る。
「な、なんだい……?」
「この暴風雨の中を歩くのは危険です。私の背中におつかまりください。そして、道案内をお願いします」
女将は雉猿狗の突然の行動に驚いたが、その真摯な眼差しと声音に、覚悟を決めて口を開いた。
「わかった。背中、失礼するよ……よいしょ……」
年老いた女将は雉猿狗の肩に腕を回し、小さな体で背中にしがみついた。
「桃姫様も、決して離れないよう私の後をついてきてくださいね」
「うん……!」
桃姫が力強く頷くと、雉猿狗は玄関の引き戸をガラガラと開け放った。
その瞬間、猛烈な雨風が宿屋の玄関に吹き込んだ。雉猿狗は一瞬身をすくめたが、意を決して外へ足を踏み出し、豪雨と暴風の中にその身を晒す。
「……そこ! その分かれ道を右だよ……! そっちが村の入口だ……!」
ずぶ濡れになりながらも、懸命に雉猿狗の背中にしがみついた白髪の女将が必死に声を張り上げた。
その声を頼りに、視界の悪い中を懸命に前へ進む雉猿狗。
「桃姫様……! ご無事ですか……!」
「……うん!」
雉猿狗の呼びかけに、桃姫が力いっぱい答えた。
桃姫は小さな体が荒れ狂う暴風に吹き飛ばされないよう気をつけながら、雉猿狗から離されまいと雨風の中を必死についていく。
そして三人は何とか隣村に辿り着き、女将の甥という喜兵衛の頑丈そうな家の戸を叩いた。中から出てきた喜兵衛に迎え入れられ、ようやく嵐から逃れることができたのだった。
「──ああ、あのオンボロ宿屋じゃあこの大風には耐えらんねぇだろうなぁ。今頃は潰れてるかもしれねぇ……がははは」
日焼けした肌に手ぬぐいを巻いた、がっしりした体格の漁師・喜兵衛がそう言って豪快に笑うと、囲炉裏の前で火にあたって体を温めていた女将が不満そうに口を開いた。
「オンボロだなんてねぇ……あたしのおとっつぁん……あんたのお爺さんが苦労して建ててくれた立派なお宿なんだよ……」
「そりゃあ昔の話だっぺよ。大昔の」
女将の言葉を聞きながら、あぐらをかいて酒を飲む喜兵衛。屋内では暴風や豪雨の音こそ聞こえるものの、家屋が揺れることもなく、宿屋より遥かに静かで快適だった。
桃姫と雉猿狗も温かい部屋の中で休ませてもらっていると、喜兵衛の妻が魚のつみれ汁の入った椀を載せた盆を台所から運んできた。
「口に合うかわからないけど、よかったら飲んでください。体が温まりますから」
そう言って微笑みながら、桃姫と雉猿狗の前に湯気の立つ椀を置き、その上に箸を添えた。
「ありがとうございます……!」
「…………」
体が冷え、空腹でもあった桃姫は嬉々として感謝の言葉と共に頭を下げ、椀と箸を手に取った。
具合の悪そうな雉猿狗は、その後に黙って力なく頭を下げる。
「……申し訳ありません、桃姫様。私の分もお召し上がりください……私は少し、休ませて……いただきます」
雉猿狗は苦しそうに桃姫へそう告げると、その場にパタリと倒れ込み、浅い呼吸を繰り返した。
「……雉猿狗」
「喜兵衛や、この方はね、あたしを背負ってここまで運んできてくれたんだよ。お疲れだから、布団で寝かせてやっておくれ」
心配そうに雉猿狗を見つめる桃姫。女将の話を聞いた喜兵衛は頷くと、部屋に布団を敷き、その上に雉猿狗を寝かせた。
「ハァ……ハァ……」
雉猿狗は白い肌を赤く火照らせながら、辛そうに浅い呼吸を続けるのであった。