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13.河童の領域

 河童の領域を目指す桃姫と雉猿狗が紀伊の山道を歩いていると、山の中腹の開けた台地に、小さな集落が忽然と姿を現した。


「おや……こんな山奥に村があるなんて」


 雉猿狗がつぶやいた時、隣に立つ桃姫の腹が情けなく鳴った。


「雉猿狗……実は、ずっとお腹が空いてて」

「桃姫様! なぜもっと早く仰らなかったのですか」


 晴天から太陽光を吸収して空腹など微塵も感じていなかった雉猿狗は、桃姫の弱々しい声に慌てたように語気を強めた。

 視線を村に向けると、15軒ほどの大小さまざまな木造家屋が点在している。

 人影は見当たらないが、整備された田畑を見る限り、現在も村人が住んでいることは確かだった。


「どちらかのお宅で食事を分けていただきましょう。旅の資金には余裕がありますから」

「うん」


 桃姫が頷くと、雉猿狗は村に入って最初に目についた家の木戸の前に立った。


「ごめんください! どなたかいらっしゃいませんか」

「誰だい?」


 ガラリと開いた引き戸の奥から、不機嫌そうな中年女性が顔を覗かせた。


「突然の訪問、申し訳ありません。私は雉猿狗、日ノ本を旅する者です。連れが空腹に困っておりまして……もしよろしければ、食べ物を分けていただけませんでしょうか。お代はきちんとお支払いします」


 雉猿狗が丁寧に頭を下げると、女性は深いため息をついてから桃姫を一瞥した。


「ちょっと待ってな」


 女性は奥に引っ込むと、数分後に皿に盛った麦飯のおにぎりを二つ持って戻ってきた。


「ほら。お代なんていらないよ。さっさと食べな」

「ありがとうございます!」


 雉猿狗は深々と頭を下げて皿を受け取り、桃姫に手渡した。


「ありがとうございます! いただきます」


 桃姫は女性に礼を言うと、おにぎりを手に取って食べ始めた。その様子を女性が黙って見つめていると、雉猿狗が口を開いた。


「あの……なぜ正体もわからない私たちに、食べ物を分けてくださるのでしょうか」


 女性はまた深いため息をついた。


「うちの息子がね……もう、食べられないんだよ」

「え?」


 悲痛な表情でそう告げた女性に、雉猿狗は思わず声を上げた。


「二日前のことだよ。河童に"尻子玉"を取られちまったんだ。それで腹がぱんぱんに膨れて……苦しんで寝込んでる」

「河童に!?」


 女性の言葉に雉猿狗は翡翠色の瞳を見開いた。そして家の奥で、こちらを見つめる少年の視線に気づいた。


「おっかあ……おら、もうこのまま死んじまうのかなぁ……」

「源助! 寝てなきゃだめだ!」


 見るからに具合の悪そうな息子を、母親は慌てて家の中へ連れ戻そうとする。


「雉猿狗、"しりこだま"て何?」


二個目のおにぎりを頬張りながら、桃姫が小首をかしげた。


「体から抜かれると、排泄ができなくなってしまう玉のことです」


 雉猿狗が神妙な面持ちで答える。空になった皿を手にしながら、玄関先から苦しむ源助と母親の様子を見守った。

 その日の夕方、源助の母親から村の集会があると聞き、桃姫と雉猿狗は同行することにした。


「河童どもと直接話をつけるしかあるめぇ!」

「今更話し合いなんて何だべ! この村の子供ら、五人全員が尻子玉を取られて死にかけてるんだぞ!」

「そうだ! 話し合いなんかじゃねぇ! 鍬と鎌を持って河童の領域に攻め込むしかねぇ!」


 村で一番大きな家屋に数十人の村人が集まり、囲炉裏を囲んで車座になってがやがやと議論している。桃姫と雉猿狗は部屋の端に立ち、その様子を見守っていた。


「物騒ですね」

「うん」


 雉猿狗がつぶやくと、桃姫が小さく頷いた。その時、車座の男の一人が不意に二人を振り返った。


「なぁ、よそ者のあんたら! どうすりゃいいと思う?」


 突然声をかけられて桃姫が身を縮こませる中、雉猿狗が村人たちに向き直った。


「そもそも、なぜ河童たちは二日前に子供たちの尻子玉を奪ったのでしょうか。何かご存知の方はいらっしゃいますか」


 雉猿狗の問いかけに、村人たちは顔を見合わせてざわめき始めると中年の女性が答えた。


「子供らがいつものように川で遊んでたら、河童どもに突然襲われたんだ! 村の子供らは河童に何も悪いことなんかしてないよ!」

「そのように、子供たちが言っているのですね?」

「そうだ!」


 女性が力強く頷くと、村人たちは再び議論を始めた。その様子を見ながら、雉猿狗は桃姫に耳打ちした。


「桃姫様、どう思われますか。河童たちは理由もなく子供たちを襲ったのでしょうか」

「河童さんに聞いてみないと分からない……かな」

「そうですね」


 桃姫の答えに頷くと、雉猿狗は車座の村人たちに向かって声を上げた。


「皆様! 今から私たちが河童の領域に参ります。なぜ子供たちから尻子玉を奪ったのか、その理由を聞いて参りましょう。河童たちへの対応は、それからでもよろしいでしょうか」


 雉猿狗の言葉に、村人たちはしんと静まり返った。互いに顔を見合わせた後、それまで黙っていた村長らしき高齢の男性が口を開いた。


「旅の方、雉猿狗さんと申されましたかな。河童の領域に足を踏み入れるには特別な作法が必要じゃが……それでも仲介役を買って出てくださるのかな?」

「はい。見ず知らずの私たちにおにぎりをくださった御恩、お返しさせていただきます」

「うむ」


 雉猿狗の言葉に村長は穏やかにほほ笑んで頷いた。こうしてふたりは、河童の領域へ向かうことになった。

 河童の領域に入るための特別な作法──それは藤籠いっぱいのきゅうりを背負って山を登ることだった。


「桃姫様、暗いので足元にお気をつけください」

「うん」


 ふたりは大小の藤籠を背負い、きゅうりの匂いを辺りに漂わせながら村の裏手にある山道を登っていく。


「おにぎり二個のお返しにしては、なかなかの重労働ですね」

「でも、こうしないと河童の領域には入れないみたいだから……仕方ないよ」


 愚痴をこぼす雉猿狗に対し、桃姫は背負い紐を両手でしっかりと握りながら、陽の落ちた危険な山道を一歩ずつ登っていく。


「桃姫様、先ほどから視線を感じませんか?」

「うん……木々の影から、こっちを見てる」

「河童ですよね?」

「うん」


 行く手の木陰から、月明かりに反射して光る幾つかの目がちらちらと現れては消える。

 山道を進むほどにその数と頻度は増していき、漂うきゅうりの匂いが河童たちを引き寄せているようだった。


「行き止まり?」


 桃姫がつぶやく。一時間ほど山道を登り続けた先には木々が生い茂り、これ以上進めない状態となっていた。


「他に道が……」


 雉猿狗が辺りを見回した時、ザザザという音と共に目の前の木々が左右に分かれ、道が切り開かれていった。


「雉猿狗、この先がきっと河童さんの領域」

「……」


 切り開かれた先を見据えた桃姫の言葉に、雉猿狗は息を呑んだ。


「桃姫様、怖くはないのですか? 正直に言うと、私は引き返したい気持ちなのですが」


 雉猿狗が隣の桃姫に声をかけると、桃姫は振り返って答えた。


「早く尻子玉を返してもらわないと、源助くんのお腹が破裂しちゃう。行こう、雉猿狗」

「桃姫様……」


 一歩、また一歩と、不自然に切り開かれた木々の間を雉猿狗より先に進んでいく桃姫。

 雉猿狗は桃姫の言葉と後ろ姿を頼もしく思いつつも、妖怪である河童への警戒心を強めながら、慎重に足を進めるのであった。

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