11.仏炎
「いさぎよく死になさい、獣女ッ!」
「ぐぅッ!」
〈蝮揚羽〉の凄まじい熱量に耐えきれなくなった雉猿狗の手から〈桃源郷〉が離れた瞬間、灼熱の刃によってその胸が大きく斬り裂かれた。
「雉猿狗っ!?」
極光が霧散する中、仰向けに倒れ込んだ雉猿狗に駆け寄った桃姫。その胸元には、黒く焼け焦げた裂傷が痛々しく斜めに走っていた。
激しい鍔迫り合いの勝者となった鬼蝶は、〈蝮揚羽〉を優雅に振るってから、満面の笑みでふたりを見下ろした。
「……桃姫様、お逃げください」
「いやだっ! もう二度と雉猿狗を置いて逃げるなんて、したくないんだよ!」
青ざめた雉猿狗を抱き起こした桃姫が目に涙を浮かべながら訴えた。
「いいわァ。これよォ……私、これが見たかったの」
満足げに呟きながら〈蝮揚羽〉を両手で構えた鬼蝶は、着物から羽ばたき出た赤いアゲハ蝶を灼熱の刃に舞い踊らせた。
「桃姫様……逃げて……」
「いやだっ! 雉猿狗!」
雉猿狗は桃姫を押して離そうとする。しかし桃姫はそれを拒み、雉猿狗にしがみついた。
「なかなか楽しめたわよ……さようなら、桃姫ちゃん──雉猿狗」
両眼から再び炎を噴き上げた鬼蝶が残忍な声で告げ、高く掲げた〈蝮揚羽〉をふたりの頭めがけて、断頭処刑するかのごとく振り下ろしたその瞬間。
サァッと場違いなほどに心地よい"春風"が燃える堺の大通りに吹き込んできた。
「──ッ」
この修羅場に全く不釣り合いな清涼な夜の"春風"を受けた雉猿狗は、思わず翡翠色の瞳を見開いた。
視界に映るのは夜空から迫りくる灼熱の刃と泣き叫ぶ桃姫の顔。そんな絶望的な状況の中で世界から音が消え、起きている事象がゆっくりと流れた。
ほんの一刹那、天界でともに暮らした天照大神の黄金のほほ笑みが雉猿狗の"魂"に呼び覚まされた。
──この"春風"は……"神風"。
雉猿狗はそんな強い確信とともに、自身の胸奥に浮かぶ〈三つ巴の摩訶魂〉を"神風"に呼応させるように熱く輝かせた。
翡翠色をした〈三つ巴の摩訶魂〉が太陽に似た黄金の輝きを放ち始めると、雉猿狗の焼き裂けた着物の中から"お護り"として仕舞っていた桃姫の髪の毛が一斉に大気中にばら撒かれた。
「……え?」
雉猿狗の胸元から突如としてあふれ出た桃色の髪の毛に鬼蝶は気の抜けた声を漏らした。
そして、その桃の匂いがする髪が鬼蝶の両腕に付着した瞬間。
「やッ!? ギヤァアアッ!!」
白銀の炎と化してまたたく間に燃え上がる髪の毛。鬼蝶は突然の激痛に絶叫しながら〈蝮揚羽〉を夜空に放り投げて、ふたりから飛び退いた。
宙空を舞う〈蝮揚羽〉は、無数の赤いアゲハ蝶に転じて夜空へと消え去っていく。
「何よこれ!? イヤッ! 熱いッ! ギヤァアアッ!」
大気中に舞っている桃姫の髪が、まるで意思を持っているかのように鬼蝶の全身に吸い寄せられていく。
次々と付着していく桃色の髪は、次から次へと発火して摩訶不思議な白銀の炎へと転じていき、鬼蝶を白銀の火だるまへと変えてしまった。
「何をしたァッ!? 雉猿狗ォッ! あなたッ! いったい何をしたっていうのよォ!?」
白銀の炎に包まれながら地面に倒れ込んだ鬼蝶。憎々しげに顔を上げて叫ぶと、雉猿狗は困惑の面持ちを浮かべた。
「私はいったい、何をしたのでしょうか」
「雉猿狗、何したの!?」
「わかりません! ただ、桃姫様の髪の毛が……私の大切な"お護り"が、風に吹かれて」
雉猿狗と桃姫は地面をのたうち回って苦しむ鬼蝶の姿を見ながら言葉を交わした。何が起きたのか理解できないまま、それぞれ〈桃源郷〉と〈桃月〉を拾い上げる。
「雉猿狗、とにかくトドメを刺そう。この悪鬼は、ここで退治しないといけない!」
「はい、桃姫様!」
桃姫は左手で雉猿狗の右腕を持ち上げながら言うと、雉猿狗はふらつきながらも桃姫の助けを借りて立ち上がった。
激痛に身悶えしながら白銀に燃える鬼蝶の姿は哀れにも思えるが、鬼に対して情けをかけられる状況ではなかった。
「鬼退治やるよ、雉猿狗!」
「はい!」
二振りの仏刀を互いに構えた桃姫と雉猿狗が聖なる刃の切っ先を鬼蝶に向け、鬼退治の覚悟を決めたそのとき、篠笛の旋律が高らかに鳴り響いた。
丸めた胴体の中で篠笛を吹き鳴らした鬼蝶。白銀の炎を背中から噴き上げながら必死の形相で叫んだ。
「早く助けに来なさい! 醜い虫ども!」
「性懲りもなく、また虫を……!」
夜空から飛来する三匹の鬼虫を睨んだ雉猿狗。鬼虫は燃える鬼蝶を護るように着地し、桃姫と雉猿狗は距離を取らざるを得なくなった。
「どうしよう、雉猿狗……三匹は無理だよ!」
「逃げましょう、桃姫様……! あの鬼は、炎に焼かれて死にます!」
「うん……!」
桃姫が頷いて返すと、雉猿狗とともに燃える堺の大通りを走り去っていった。ふたりの姿が鬼蝶の視界から消えた頃、チリンという金輪の音が鳴り響いた。
「かかか。おーい、鬼蝶殿……まだ生きとるかぁ?」
満面の笑みを浮かべた役小角が呑気な声を発しながら、いまだ白銀の炎に焼かれ続けている鬼蝶の前に現れた。
「……ひゅー……かひゅー……かひゅー……」
鬼虫を〈黄金の錫杖〉で追い払った役小角は、虫の息となっている鬼蝶を漆黒の眼で見下ろした。
「ほお……これはまた、見事に焼かれましたわいの」
感心するように呟いた役小角は、〈黄金の錫杖〉の頭を倒れ伏す鬼蝶に向け、左手で片合掌した。
「オン・アギャナエイ・ソワカ」
火天のマントラを唱えると、白銀の炎が鬼蝶の全身からスススと〈黄金の錫杖〉の頭へと移動して集まっていった。
〈黄金の錫杖〉を持ち上げた役小角は、炎の塊をすくいとるように左手のひらにふわりと浮かばせた。
「……素晴らしい。これを、桃の娘がのう」
役小角は深遠の宇宙を内包した漆黒の眼を細め、手のひらに浮かぶ白銀の炎を愛おしそうに眺めながら呟いた。
「受け継いだか……あるいは桃よりも、さらに強く」
感慨深く言った役小角は、白銀の炎に向かって強く息を吹きかけて夜空に向けて飛ばした。空中に舞った炎の塊は、散らばりながら小さくなると、堺の夜空に霧散して消えた。
「……行者、様……私は……もう二度と……焼かれない体になった、はずでは……」
全身を焼き焦がした鬼蝶は地面に倒れ込んだまま、熱傷の激痛に苦しみながら役小角に訴えた。
「おお。もう喋れるようになるとは、さすがは八天鬼人……恐るべき治癒力じゃのう。かかか」
「……笑い事では、ございませぬ……この痛み……なんなのですか、あの炎は……」
笑う役小角に対し、黒焦げている肌をゆっくりと再生させていく鬼蝶が顔を歪ませながら言った。
「あの炎は、"仏炎"じゃよ。鬼の身を焼き焦がす、聖なる炎──いかな鬼蝶殿といえど、無力」
役小角はそう言って鬼蝶に背を向けた。鬼蝶は悔しそうに歯噛みしながら、見るも無惨に焼け焦げた自身の両手を睨みつけた。
「……まさか……このような力を、持っていようとは……」
「八天鬼を一網打尽にしたお供の化身と、鬼ヶ島を壊滅に追いやった桃太郎の娘じゃ──決して、侮ってはならぬ相手だわいの」
両手を閉じた鬼蝶が苦々しく声に漏らすと、役小角は横目で見やりながら言った。
「鬼蝶殿。しばしそこで、頭を冷やされるがよろしい……さすれば、その酷い火傷も早く癒えましょうぞ。かかか」
役小角は、チリンチリンと金輪を鳴らしながら〈黄金の錫杖〉を突いて歩き去っていった。仰向けに地面に転がった鬼蝶は、夜空を見上げた。
「……この痛み……まるで本能寺のよう……悔しい……私悔しいですわ、信長様……」
仏炎が取り除かれてなお、いまだ全身に走る骨身を焦がす激痛に顔を歪ませた鬼蝶は、夜空に浮かぶ月を睨みつけた。
「……許せない……私のこの身体を、再び焼いた……殺す……必ず殺す……桃姫──雉猿狗」
鬼蝶は己の体を燃やした仏炎のように、白銀の輝きを放つ月に向かって、憎悪の眼差しで告げるのであった。




