8.獣心閃
その信じがたい破壊力を目の当たりにした雉猿狗は、抱きかかえる桃姫に向けて叫んだ。
「お逃げください、桃姫様ッ──!」
「雉猿狗ッ……!?」
声を上げる桃姫を背にして立ち上がった雉猿狗は、〈桃源郷〉を両手に構えて鬼蝶と対峙する。
「──私が相手をいたします! 悪鬼……!」
「雉猿狗……あなたはどうでもいいのよ。私の狙いは──」
翡翠色の瞳に力を込めて告げる雉猿狗に対し、鬼蝶は冷めた口調で答えながら、雉猿狗の後ろで戸惑う桃姫の姿を燃える瞳で捉えた。
「──私が相手だと言っているでしょうッ!!」
桃姫を狙いすます鬼蝶に対し、雉猿狗は自身に注意を引きつけるように大声を張り上げて駆け出した。高く振り上げた〈桃源郷〉の刃を、桃姫を見詰める鬼蝶の顔めがけて全力で振り下ろす。
「──ッ!?」
しかし雉猿狗の渾身の一太刀は、鬼蝶が顔の前に軽やかに持ち上げた左手の鬼の爪で、いとも簡単に防がれてしまった。
「──ああ……弱い、弱い♪」
鬼蝶は残忍な笑みを浮かべながら呟くと、桃姫から雉猿狗へと視線を移し、その顔を睨みつけて口を開いた。
「ねェ……邪魔をしないでちょうだい──獣女」
ドスの利いた低い声を発し、"鬼の眼"で睨みを利かせる鬼蝶。雉猿狗は〈桃源郷〉を握りしめる両手を通じて圧倒的な力量の差を感じ取ると、戦慄しながら桃姫に向けて叫んだ。
「──桃姫様ッ! 今すぐお逃げくださいッ!!」
雉猿狗の鬼気迫る叫び声に、桃姫はハッと正気を取り戻した。崩れた外壁の向こうに広がる大通りへと顔を向ける。
そして視界に飛び込んできた光景に、桃姫は言葉を失った。
あたり一面に広がる燃え上がる町並み──半年の暮らしの中で見慣れた美しい堺の都が真っ赤に燃え、見るも無惨な地獄絵図と化している。
人々は叫びながら逃げ惑い、その光景は二度と思い出したくなかった花咲村の"祭りの夜"を桃姫の脳裏に蘇らせた。
「……嘘、でしょ……」
濃桃色の瞳に赤く燃える堺の都を映した桃姫が、絶望に打ちひしがれながら呟く。左目からゴウゴウと灼熱の炎を噴き上げる鬼蝶が、笑みを浮かべて応えた。
「ホ・ン・ト──これが現実よォ……あーはははははっ!!」
鬼蝶は愉快そうに炎を噴き出す目を細めながら高らかに笑う。桃姫はその姿を見て、この鬼が一人でこれほどの惨状を作り上げたのだと理解し、そして"敵わない"──と怯える心で確信した。
「ああ……っ!!」
「そうです、お逃げください……!」
激しい恐怖に襲われた桃姫は力を振り絞って立ち上がると、脱兎のごとく部屋から駆け出した。雉猿狗がその後ろから声をかける。
一心不乱に走った桃姫は、崩れた宿屋の外壁から瓦屋根へと飛び移り、そのまま大通りへ向かって転がり落ちるように飛び降りた。
「……あら、待ちなさい桃姫ちゃん──」
「──あなたの相手は私だと言ったでしょうッ!!」
鬼蝶が桃姫を追おうとした時、雉猿狗が声を張り上げて、鬼蝶の左手に受け止められている〈桃源郷〉を握る両手に力を込めた。
「雉猿狗……何度も言うけれど──あなたには興味がないの……私」
鬼蝶は雉猿狗に対して吐き捨てるように告げると、空いた右手を大きく振り、袖の中から金色の篠笛を取り出してその手に握った。
「……そうねェ、あなたのお相手は……虫ちゃんにお任せしましょうかしら♪」
鬼蝶はそう言ってにんまりと微笑むと、歌口に赤い唇を重ねて篠笛を吹き鳴らし、物悲しい旋律を奏で始めた。
「──妙な真似をするなッ!!」
鬼蝶の左手に押し込んでいた〈桃源郷〉を振り上げ、距離を取った雉猿狗は、目を閉じて優雅に篠笛を吹く鬼蝶に向けて声を発した。
雉猿狗の声に動じることなく篠笛を吹き続ける鬼蝶に対し、雉猿狗が再び〈桃源郷〉を振り上げたその時──崩壊した外壁の向こう、赤く染まった夜空から、大きな"翅"を広げて飛翔する赤い物体がこちらに向かって突撃してくるのを視界の端に捉えた。
「なッ!?」
瞠目した雉猿狗が反応する間もなく、宿屋の二階に飛来した赤い物体は、〈桃源郷〉を振り上げた雉猿狗の身体に体当たりするように激突してきた。
「面白いでしょう……? 宿主が女の場合はカブトに、男の場合はクワガタに似るのよ。鬼醒蟲って不思議……ねぇ、そう思わない?」
「……ぐ……グッ!」
鬼蝶が奏でる篠笛の音を合図に、外から飛び込んできた"鬼虫"によって畳の上に押し倒される雉猿狗。
人間大の赤いクワガタに似た"鬼虫"が、左右に開いた大きなアゴで雉猿狗の頭を押し潰そうと迫る。
それに対し、左手の〈桃源郷〉と手甲をつけた右手でアゴを閉じさせまいと必死に耐える雉猿狗は、その赤い異形を見て播磨で遭遇した"鬼の虫"のことを思い出していた。
「播磨の虫を作ったのはあなたですか……! 桃姫様の……小夜様のご遺体を──! "命の冒涜"をして……ッ!」
「ああ……あれをやったのは私じゃないわ──だけど、"命の冒涜"だなんて人聞きの悪いことを言わないで……これは"命の再利用"よ」
「──ふざけるなあッ!!」
雉猿狗は叫びもがくが、このクワガタに似た"鬼虫"は男を元にして作られているだけあって重量も力も相応で、押し返すのは困難を極めた。
「それじゃあ、私は桃姫ちゃんと遊んでくるから。あなたはその醜い虫ちゃんと戯れていなさい──よくお似合いよ、下賤な獣らしくてね」
「待て……待てぇッ!!」
「──あーはははははっ!!」
叫ぶ雉猿狗の声も空しく、鬼蝶は笑いながら崩れた外壁の縁に踊り出ると、隣接する家屋の屋根に向かって軽やかに舞うように飛び移りながら去っていった。
「くっ! こんな、虫ごときにッ!」
雉猿狗は何とか抜け出そうとするが、抑えている腕の力を弱めればアゴが閉じて万力のような怪力で頭を潰されてしまうことは明らかだった。
この状況を脱するには第三者の助けが必要なのは疑いようがなく、雉猿狗は情けないと思いながらも力の限り大声で叫んだ。
「どなたか……! どなたか、おりませんかッ!! 力をお貸しくださいませッ!!」
雉猿狗の助けを求める声は、ちょうど大通りを走っていた会合衆の若い男の耳に届いた。
会合衆の男は、声のした方向──宿屋の二階を見上げて叫ぶ。
「その声……! 雉猿狗殿かい!?」
会合衆の男は一階が燃えていることも構わず宿屋に押し入ると、階段を駆け上がって二階の雉猿狗の元へ駆けつけた。
「──雉猿狗殿ッ!」
「……会合衆のお侍様!」
巨大な赤いクワガタに押し倒されている雉猿狗の姿を見た会合衆の男は、咄嗟に刀を抜いて構えると、鬼虫に向かって迷わず斬りかかった。
「こンの化け物ッ! 雉猿狗殿から離れろおッ!!」
「──キィイイイイッ!!」
背中を斬りつけられた鬼虫は叫びながら後ずさり、雉猿狗の身体から離れる。その隙に雉猿狗は立ち上がり、会合衆の若い男の隣に並んだ。
「……雉猿狗殿、ご無事ですか!?」
「はい! 本当に助かりました!」
雉猿狗を気遣う会合衆の男に感謝の言葉を述べると、雉猿狗は〈桃源郷〉を構え直してクワガタ型の鬼虫に切っ先を向けた。
「いったい何なんだ、こいつは……! こんな虫の姿をした化け物が堺の至るところにいやがる!」
「っ……他にもいるというのですか!?」
雉猿狗が驚いて聞き返すと、会合衆の男は頷いて応えた。
「ええ……! 男ども十人掛かりでなんとか一匹倒したのですが、そのあとも次から次へと湧いて出てきて。町は火の海になるし……いったい何が起きて──」
「──キシャァアアッ!!」
「──伏せてくださいましッ!!」
奇声を発しながら、跳ねるように会合衆の男に向かって飛びかかってきた鬼虫に対し、雉猿狗は〈桃源郷〉の銀桃色の刃を横に倒すと、全力で薙ぎ払うように振り抜きながら獣の咆哮のような大声で叫んだ。
「──獣心閃ッ!!」
仏の加護を受けた〈桃源郷〉の長い刀身が、咄嗟に伏せた会合衆の男の頭上をブオンッと高速で通り過ぎると、勢いそのまま飛びついてくる鬼虫の胴体を上下に両断した。
ドサッ、ドサッと鬼虫の上半身と下半身が畳の上に落下し、切断面から黒い体液がドプッとあふれ出した。
「……ひ、ひっ──!」
それを目にした会合衆の若い男は引きつった声を上げて尻餅をつき、後ずさりしながら恐る恐る雉猿狗の姿を見上げた。
〈桃源郷〉の刀身についた黒い血を振り払った雉猿狗は、会合衆の男に振り返って丁寧にお辞儀をすると口を開いた。
「助けていただき誠にありがとうございました。この御恩、決して忘れません──会合衆の皆様のご無事をお祈りしております……!」
雉猿狗はそう告げると、桃姫が置いていった〈桃月〉の白鞘を拾い上げ、〈桃源郷〉を収めた白鞘と共に左腰の帯に差し込んでから、崩れた外壁に向かって駆け出し、桃姫と鬼蝶の後を追って大通りへと躍り出るのであった。