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6.本能寺の変

 10年前──京、本能寺にて。


「信長様! どうかお逃げくださいませ! あなた様だけでも生きていれば、まだ希望は残されます!」

「帰蝶、おぬしもわかっておろう……もはやこの本能寺、どこにも逃げ場などないのだ」


 本能寺の仏堂であぐらをかいて座る信長に対し、帰蝶は懸命に訴えた。しかし信長はすでに覚悟を決めており動かなかった。

 火の手は凄まじい勢いで周囲を取り囲み、信長の背後に鎮座する阿弥陀如来の鉄製の仏像すら溶かさんばかりの熱風がふたりに吹きつけた。


「帰蝶、すまぬな……これは明智の謀を見抜けなんだ我の落ち度によるものだ」

「そんなことおっしゃらないでください! 悪いのは、すべて明智でございます! あの憎き明智光秀が! ああッ!」


 帰蝶は涙を流しながら信長の胸に倒れ込んだ。信長はそんな帰蝶の濡烏のような長い黒髪を静かに撫でると、細い肩をぐっと掴んで自身から引き離した。


「帰蝶、介錯を頼む」

「……!?」


 信長は帰蝶の黒い瞳を力強く見つめながら低い声で告げると、懐から短刀を取り出した。


「おぬしは日ノ本一の薙刀の使い手。一思いに楽にしてくれ……頼む」


 信長に言われた帰蝶は、自身の傍らに置かれた薙刀を見やった。信長の首を刎ねる自身の姿を想像し、血の気が引いた。


「できませぬ……! 愛する信長様の首を刎ねるなど、私にはとても……!」

「そうか……ならば、苦しみに悶えながら、ゆっくりと冥府魔道に堕ちるとしよう」


 顔面蒼白で拒絶する帰蝶に信長は自嘲しながら言うと、短刀の鞘を抜き捨てて両手で構えた。刃の切っ先を己の左脇腹にあてがった。


「人生五十年、これが天下人・織田信長の最期ならば、それもまた、"天晴れなり"──ふんッ!」

「いやああッ──!!」


 辞世の句を詠んだ信長は覚悟を決めると、一息に短刀を突き刺した。その壮絶なさまを見た帰蝶は気を失わんばかりに絶叫した。


「うッ、ぐ……! ぐッ……! ぐぐっ……!!」

「信長様……! 信長様ぁ……!」


 左脇腹から右脇腹に向かって、自らの手で突き刺された短刀の刃がじりじりと動く。額に太い血管を走らせた信長は目が飛び出さんばかりに大きく見開き、砕けんばかりに歯を食いしばった。

 そして信長は、絶望の表情を浮かべながら恐怖に後ずさりした帰蝶の顔をじろりと見て告げる。


「帰蝶……我……冥府魔道にて……待つ」

「信長様……!」


 信長は苦痛にみじろぎ一つせず、あぐらをかいた姿勢のまま、両手で短刀を力強く握りしめて絶命した。


「う、うう……ううう」


 命の光を失った眼を見開き、物言わぬ亡骸と化した信長と帰蝶は対峙する。嗚咽をこぼしながら滂沱の涙を流し、背後から迫りくる苛烈な炎に身を焦がした。


「これが、私の最期……これが……」


 帰蝶は悲痛な声を上げると首を横に振る。そして自らの運命を否定するために、薙刀を握って立ち上がった。


「いやよ! こんな終わり方、絶対にいやァアアッ──!!」


 両手で薙刀を構えた帰蝶は、信長の亡骸に背を向けると、仏堂に迫りくる猛火の中に自ら飛び込んで駆け出した。


「イヤァアアッ!! ギャアアッ!!」


 全身を豪火に包まれた帰蝶は壮絶な絶叫を放ち、我武者羅に薙刀を振るいながら炎の中を前進した。そして──。


「ギヤっ──!!」


 まだ火の手が回っていない廊下に偶然飛び出した鬼蝶は、勢いよく倒れ込みながら悲鳴を漏らした。

 くすぶる火の粉が着物にまとわりつき、露出した肌が痛々しく黒焦げた帰蝶の耳元に、聞き覚えのない老人の声が届く。


「かかか。これは驚いた……帰蝶殿ではないか」

「……ひゅー……ひゅー……」


 廊下に倒れ伏した帰蝶の目は焼けただれて白濁しており、思い通りに動くことも喋ることも叶わなかった。

 かろうじて耳だけは聞こえるが、老人の声に対して喉からかすかに空気の漏れる音を返すことしかできなかった。


「信長公に会いにきたのだが……そうか、もう終わったのだな」


 老人は燃え盛る仏堂の方をちらりと一瞥して呟くと、変わり果てた姿となった帰蝶を見下ろした。


「お初にお目にかかる……わしの名は役小角。信長公の古い友人じゃよ」


 役小角と名乗った老人の言葉はかすかに帰蝶の耳に入るが、死の暗闇が目前まで迫っており、帰蝶にとってはもはやどうでもいいことだった。

 先ほどまで感じていた火傷による痛みすらも脳が感じない状態まで至り、"もうすぐ死ぬのだ"とただそれだけが帰蝶にはわかった。


「この"八天鬼薬"、信長公に飲ませようと思うていたのだが……かかか。帰蝶殿、おぬしまだ"生きたい"か?」


 役小角は黒焦げた帰蝶の前にしゃがみ込むと、白装束の懐から取り出した"燃羅"と書かれた赤く輝く液体の入った小瓶を帰蝶の口元に寄せた。


「ほれ、まだ"生きたい"か? どうだ、答えよ」

「……い、き……た……い」


 役小角の問いかけに、帰蝶は最後の力を振り絞って声に出すと、口の中にどろりとした液体が流れ込むのを感じた。

 帰蝶の喉は、その液体に対して本能的かつ受動的に動き、この世のものとは思えないおぞましい味を舌全体に感じながら飲み下していく。


「帰蝶殿……そうじゃな。"鬼"の字を冠した"鬼蝶"という名はどうじゃ?」


 役小角の特徴的なしゃがれ声が、先ほどより鮮明に鬼蝶の耳に聞こえた。

 黒焦げていた皮膚がまたたく間に再生していき、焦げた黒髪も生え変わって濃緑色に染まった。


 額の左からは皮膚を割るように、紅い鬼の角がズズズと生え伸びる。

 白濁していた瞳に光が宿り、視力が回復していくと同時に黄色く染まった。


「のう、鬼として生まれ変わった──鬼蝶殿や」


 満面の笑みを浮かべた役小角が告げると、鬼蝶は黄色い瞳に真っ赤な"鬼"の文字を浮かび上がらせた。

 そして現在──夜の帳が下りた堺、大通りに面した居酒屋にて。


「よう、姐さん。ここいらじゃ見かけない顔だね。どうだい、俺が一杯おごってやろうか?」


 店内に足を踏み入れた鬼蝶に、頬を赤く染めた商人の男が人懐っこい笑顔で声をかけた。


「俺は、べっぴんさんを見かけたらおごらずにはいられない性分でね。おーいオヤジ、こちらの姐さんに熱燗一本やってくらい」


 赤提灯が軒を連ね、煌々と照らされた外の大通りには人波があふれていた。

 太鼓と鉦の音が賑やかに響きわたり、ときおり笛の音も混じって陽気な祭り囃子を奏でている。


「姐さんも花祭りを見にきたのかい?」


 商人が酒臭い息で話しかけるが、鬼蝶は口を閉ざしていた。


「…………」


 赤い手ぬぐいを目深にかぶり、髪と目元を隠した鬼蝶は、商人の男に対して沈黙を貫いていた。

 顔の上半分が隠されていても、白い肌と紅い唇からは美貌がうかがえ、アゲハ蝶とマムシが描かれた紫の着物の上質な仕立てから、良家の出であることは一目瞭然だった。


「へへ。かみさんに呑むなって言われてんだが、盆と正月、花祭りの日だけは許してもらってんだ」


 商人は笑いながら言うと、おちょこをくいと持ち上げて飲み干した。そこへ店主の男が、おぼんに載せたとっくりとおちょこを運んできた。


「やっさん、この人におごるのかい?」

「言わなくても見りゃ分かるだろ、ええ? えらい美人さんじゃないかよ」


 商人が当然のように答えると、店主は訝しげに鬼蝶の顔をのぞき込んだ。


「お前さん、なんで顔を隠してんだい?」

「…………」


 店主の問いかけに鬼蝶は答えず、ただ手ぬぐいの隙間からのぞく黄色い瞳で店内の人数を数えた。

 目の前に店主、左右一段高い座敷に商人を含めた12人の客。


「……13人」

「へ?」


 ようやく口を開いた鬼蝶の言葉に、店主が間の抜けた声を漏らす。


「……あなたも入れて、ちょうど13人」


 鬼蝶が赤い唇を歪めて妖艶な笑みを浮かべた刹那──店主の喉が深々と裂け、天井に向かって鮮血が噴き上がった。

 床に落ちて乾いた音を立てるおぼん、粉々に砕け散るとっくりとおちょこ。

 酒と血で濡れた床に、目を見開いた店主の体が倒れ込んだ。


「……ひッ、ひ」


 顔の半分に鮮血を浴びた商人が引きつった声を漏らした。

 左手の爪から血を滴らせた鬼蝶は、右手で赤い手ぬぐいをするりと取り払うと、濃緑色の長髪と額から伸びる真紅の鬼の角をあらわにした。


 くだらない雑談で賑わっていた店内が水を打ったように静まり返り、客の視線が入り口に佇む鬼蝶へと注がれる。

 大通りの祭り囃子の喧騒とは対照的に、店内は時が凍りついたかのような静寂に支配された。


「……鬼」


 商人が鬼蝶の顔を見つめながら絞り出すようにふるえる声で呟いた。

 鬼蝶は商人をちらりと黄色い瞳で見やると、妖艶にほほ笑みながら口を開く。


「お酒をおごってくださり、ありがとうございました……お礼にどうぞ──死んでくださいませ」


 真っ赤な"鬼"の文字が光り輝く両眼を見開き、心の底から愉悦に満ちた笑みを浮かべる鬼蝶。

 黒く鋭い鬼爪が伸びた両手を顔の前で交差させ、商人に見せつけた。


「ぎゃぁああッ──」


 商人の断末魔と店内の客たちの悲鳴は、大通りの騒々しい祭り囃子と雑踏の音に呑み込まれて消えた。

 1分足らずの後──13人の亡骸が倒れ伏す血の海と化した居酒屋で、鬼蝶は両手の爪から血を滴らせながら、白い頬を上気させていた。


「──快・楽ッ!!」


 鬼蝶は血溜まりを踏みにじり、恍惚の笑みを浮かべて咆哮した。


「ああ、気持ちよかった……さて、騒ぎになる前に仕込んでおかないとね」


 鬼蝶は着物の懐に手を入れ、役小角から託された黒い箱──"蟲箱"を取り出した。


「さぁ、お待ちかねの御馳走よ──醜い虫ちゃんたち」


 大量殺戮を経て上機嫌になった鬼蝶が"蟲箱"の蓋を開けた。中では13匹の朱い鬼醒蟲が蠢き、黒い口吻をガチガチと打ち鳴らして餌を求めていた。

 鬼蝶はその中の一匹の尻尾を摘まみ上げると、熱燗をおごった商人の顔の上にぽとりと落とした。


「たくさん食べて、大きく育ちなさい」


 鬼醒蟲は商人の顔の上でくねくねと身体を揺らし、開いた口の隙間にもぞもぞと潜り込んでいく。


「……桃姫ちゃん、今夜の"祭り"……心ゆくまで私と楽しみましょうね。あははははは──!」


 鬼蝶は高笑いしながら"蟲箱"を大きく振り、残りの鬼醒蟲を店内に転がった亡骸へと撒き散らすのであった。

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