1.散髪
桃姫と雉猿狗が港湾都市・堺で暮らし始めて、早くも半年が経とうとしていた。到着した頃は秋だったが、今では春の陽気が街を包んでいた。
宿屋の二階、十畳ほどの間借りした部屋には、穏やかな小春日和の光が差し込んでいた。
「……雉猿狗、あんまり短くしないでね」
椅子に腰かけた桃姫が不安げに言うと、背後に立った雉猿狗が、手にしたハサミを軽やかに動かした。
「はい、任せてください」
返事した雉猿狗は桃姫の柔らかな桃色の髪を一房手に取った。目測で長さを決めると、迷いなくハサミを走らせた。
「──っ」
まるで自分の体の一部が切られたような不快感に、歯を食いしばった桃姫。膝の上に置いた両手が握り拳を作った。
「ふーん、ふふーん♪」
一方の雉猿狗は、ご機嫌な鼻歌を歌いながら容赦なくハサミを入れていく。切り落とされた髪が、足元の桶に次々と落ちていった。
腰までの長さがあった桃姫の髪は、またたく間に短くなっていき、今や肩の高さまできていた。
「ねぇ……もういいよ、雉猿狗……ねぇ!」
頭の軽さに違和感を覚えた桃姫が慌てて声を上げた。しかし雉猿狗は応じず、軽快にハサミを入れ続ける。
そもそも、今朝になって突然髪を切ろうと提案したのは雉猿狗だった。桃姫も長すぎる髪にうっとうしさを感じていたので了承したものの、どこまで切るかの話し合いはしていなかった。
「くぅ……雉猿狗ぉ!」
「もうちょっとですよ、もうちょっとだけ」
文句を言いながらもじっと耐えている桃姫をよそに、雉猿狗は仕上げとばかりに細かくハサミを入れた。
やがて、桶の中にたっぷりと桃色の髪が溜まった頃、雉猿狗は満足げに頷いた。
「はいっ! 散髪完了です! 桃姫様、ずいぶんとさっぱりしましたよ!」
太陽のような笑顔で桃姫の後頭部を眺めた雉猿狗。桃姫は暗い表情のまま口を開いた。
「雉猿狗……手鏡、取って」
「はい、どうぞ」
雉猿狗が棚から手鏡を取ってきて差し出すと、受け取った桃姫は、恐る恐る自分の顔を映した。
「──ぎゃあああッ!!」
桃姫の絶叫が、宿屋全体に響きわたった。
「……え?」
その激しい反応に困惑した雉猿狗。桃姫は唖然とした表情のまま手鏡を動かし、桃色の髪が消え失せてむき出しになった耳元やうなじを確認していく。
手鏡の中には、まるで別人のようになった短い髪の少女が映っていた。
「切りすぎっ……! 切りすぎだって、雉猿狗ぉおおッ!」
「落ち着いてくださいませ、桃姫様……! これから暑い季節になりますし……! 絶対にこちらの方がよろしいですから!」
顔を真っ赤にして声を張り上げる桃姫を、雉猿狗は必死になだめようとした。
「こんなに切るなんて……」
呟いた桃姫はがっくりと顔を伏せた。
「短い髪もとても可愛いですよ。すごく似合ってます」
雉猿狗は桃姫の短くなった髪を櫛で梳かし始め、桶の中に切れ残った髪の毛を落としていった。
「また伸びてくるからいいけど……もう、雉猿狗には絶対に切らせたくない」
「そんな悲しいこと言わないでください。今度はもう少し長めに切りますから」
「やだ」
完全に拗ねてしまった桃姫を横目に、雉猿狗は畳の上に正座した。そして桶の中に溜まった桃色の髪をひとまとめにして手に取ると、丁寧に折りたたみ始める。
「ちょっと、雉猿狗……なにしてるの?」
「え? あ、いえ、別に……」
桃姫は椅子から立ち上がると、雉猿狗の怪しげな行動を咎めた。
雉猿狗は桃姫に見られているのを承知の上で、折りたたんだ桃色の髪の束を青い着物の懐に大切そうに滑り込ませた。
「ねええええっ!!」
「なんですか……!?」
雉猿狗の奇行を目撃した桃姫の絶叫に、雉猿狗は目を丸くして振り返った。
「それ、どうするの!? 私の髪の毛!」
「どうするって……」
桃姫の問いに雉猿狗は一瞬困惑の表情を浮かべた後、晴れやかな顔で答えた。
「私の宝物にするのです♪」
「いやああああッ!!」
「わっ?」
叫びながら両手を振り上げて飛びかかってきた桃姫を見て、雉猿狗は慌てて体を仰け反らせた。
「捨ててよ! ねぇ、今すぐ捨ててッ!」
「捨てるだなんて、とんでもございません!」
桃姫が雉猿狗の着物の胸元を両手で掴んで揺すりながら叫ぶと、雉猿狗も負けじと声を張り上げた。
「やだッ、捨ててよッ! だって、ただの髪の毛だよ!?」
「ただの髪の毛などではありません! 桃姫様の貴重な髪の毛にございます!」
「えうっ……」
雉猿狗の堂々とした返答に、心底嫌そうな表情を浮かべた桃姫は、掴んでいた着物から力なく両手を離した。
「これはもう私のものです! いまさら返せと言われましても、断固拒否いたします!」
「返せなんて言わないけど……においとか嗅いだりしないでよね?」
雉猿狗の毅然とした態度に、桃姫は引きつった表情で念を押した。
「もちろん嗅ぎます。たくさん嗅ぎます。忘れてませんか? 私って"獣"の化身ですよ?」
「うわぁ……」
「いいものを手に入れました。これは私の"お護り"にします」
嬉しそうに胸元を押さえる雉猿狗を見て、桃姫はもう何を言っても無駄だと悟ったように、椅子に腰を下ろした。
「ねぇ……雉猿狗はその髪、切らないの?」
桃姫は、腰下まで伸びた雉猿狗の美しい銀髪を見つめて言った。
「ああ、"これ"ですか」
雉猿狗は正座したまま、自身の髪を雑に一房手に取ってじっと見つめた。
「そんなに長くて……暑くない?」
首元の涼しさを感じながら桃姫が尋ねた。雉猿狗は銀髪の毛先を指先で弄びながら思案して口を開く。
「実を言うと、私はこの髪で太陽の力を集めているんです。だから、短くしたら元気が出なくなります」
「……あーそう」
嘘か真か分からないことを胸を張った雉猿狗が言うと、桃姫はため息をつきながら応じるのであった。